第10話

平常心を保たなくちゃ。

雪乃は無理矢理にでも自分の心を落ち着かせようとした。


そうしなければ、この足音に気付かれる。

いや、最早手遅れだろう。


きっともう気付かれているはずだ。

それでも、何か変な動きをすると足音が一気に近づいてきそうな気がした。


落ち着かせようと自分に言い聞かせる。

しかし、そんな心の叫びとは裏腹に焦りから足早になってしまう。


ほとんど走っているのと変わらない。

それならいっそ自転車に乗ってしまおう。


そう思うのが少し遅かった。

今のスピードで歩きながら自転車に跨れる運動神経は雪乃にはない。


自転車に乗ろうと思ったら必ず一度立ち止まらなければいけない。


そのたった一度。僅かにでも立ち止まった瞬間に「追いつかれる」。そう思った。


ペタペタペタペタ。


足音はまだ聞こえている。

乾いた音だ。靴を履いた時の足音とは違う。


靴底が地面にぶつかればもっと固い音がする。

それよりももっと柔らかい何か。そう、裸足で歩いている。


道路を裸足で歩くなんてそれだけで普通とは思えない。


非日常的な音が雪乃を追いかけてくる。


「高松さぁん」


ドキリとした。

心臓が握られるかのようなこの緊張感を味わうのは今日何度目か。


何度だって慣れはしない。


あの声だ。


雪乃は瞬時に悟った。

昨日、掃除の時間に初めて話しかけてきた声。


懲りずに今日も話しかけてきた。

あの声と同じ。


声はさほど大きくはなかった。

語りかけるように、まるで友達とさりげない雑談をするかのような音量。


しかし、それにしてはひどく不気味な声色で不快感があった。


なにより、それだけ近い距離にいるはずなのに相手の気配を雪乃は全く感じなかった。


見えるはずの距離にいるのに、雪乃には見えない。

それが彼女の恐怖心を煽る。


完全に目をつけられたという事実に背筋が凍る。


最早無視しても仕方ないのではないか。

だって、アイツはもう完全に私だけを狙っている。


早足は、最早駆け足になっていた。

自転車を押す手にばかり力が籠る。


目には自然と涙が溜まった。

恐怖で頬が引き攣っている。


「やめて……やめてよ……。私が一体何したって言うの」


悲痛な叫びは幽霊には届かない。

足音は急かすようになり続け、むしろ近くなっている。


自宅まであとどれくらいだろうか。

距離を考えている余裕はない。


ただひたすらに目の前に伸びる道を走り続けた。


刹那。


強い戦慄が雪乃を襲った。

同時に、耳に届いたのは驚くほど大きな警告音である。


車のクラクションだ。と判断した時にはもう遅い。


雪乃の目に猛スピードで迫る軽トラックが映った。


一連の流れがやけにスローモーションに見える。


耳を塞ぎたくなるほど高いブレーキの音。

段々と近づいてくる軽トラック。


雪乃は衝撃に備えた。

体験したことはないであろう痛みを覚悟した。


しかし、軽トラックは寸前で雪乃を交わした。

ドライバーが咄嗟にハンドルを切ったのだろう。


雪乃のすぐ横に黒いブレーキ痕を残し、電柱にぶつかる寸前で停車する。

この狭い一車線の道路でそれが起きたのはほとんど奇跡に近かった。


乱入者の功績も大きい。

軽トラックとぶつかる直前に雪乃は強く押される感覚があった。


それが生身の人の手によるものだと気づいたのは事故を免れて数秒経った後だ。


やわらかい何かが自分の肩を包む感覚とふわりと甘い匂いがした。


「あっぶなー。ねぇ、大丈夫?」


きょとんとした表情を浮かべ、雪乃は顔を上げる。


女子高生が雪乃を見下ろしていた。

目鼻立ちがはっきりとしていて、髪が少しばかり茶色い。

肌には少し焼けた跡があり、それが健康で活発そうな印象を与える。


一言で表すならば「美少女」という言葉がまさに似合うであろう女子高生だ。


彼女は雪乃と同じ制服を着ていて、胸元のリボンの色は二年生を表す赤色である。


自分が上級生の腕に抱かれているのだと雪乃がはっきりと認識したのは彼女の顔に少しばかり見惚れた後だった。


「ねぇ、大丈夫?」


上級生の女子生徒が再度雪乃に声をかける。

少し心配そうに覗き込む顔が近い。


雪乃は目を白黒させてから


「あ、は、はい。大丈夫です」


とぎこちなく答えた。

そのまま抱き起こされる形で立たせてもらう。


スラリと身長が高い女子生徒の横顔に再び見惚れそうになったが、彼女が後ろでゆったポニーテルが僅かに揺れて現実に引き戻される。


何となく見覚えがあったのだ。


同じ学校なのだからどこかで見かけているだろうとかそういう類のものではない。

もっと直近で、同じ横顔を見たことがある。


頭を悩ませるまでもなく雪乃は思い出した。


ソフトボール部だ。朝の練習で騒がれていたあの女子生徒だ。


確か、名前は……。


「よかった。大きな怪我はなさそうね。足は後で処置してもらおっか。私は西垣七海。二年生なの。よろしくね」


雪乃が思い出すよりも先に女子生徒、七海は自ら名前を名乗った。


反射的に雪乃も答える。


「高松……雪乃です」


答えながら「あれ、もしかして私って自分の名前名乗るの入学式の後の自己紹介の時以来じゃない?」と関係のないことを考える。


それから再びハッとして、自分が通ってきた道の方を振り返る。


不思議なものは見えはしない。


音も、聞こえない。


雪乃がホッと胸を撫で下ろす。

気のせいでは絶対になかったが、今はもう終われていないといつ安堵感がある。


「残念。逃げちゃったね。もう少しで捕まえられそうだったのに」


その隣で七海が残念そうに呟いた。

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