第8話
やや間をおいて中から声がする。
「はい、どうぞ」
返事は短い。扉越しだから確かに電話の声と同じような気がした。
恐る恐る、まるで扉が壊れやすい素材でできているのかと思うほどゆっくり開く。
「臆することなく」という表現はいささか過分だったかもしれない。
実際には少しの緊張感を持って雪乃は生徒会室の扉を開けた。
その中は思っていたよりも殺風景である。
まず目に入ったのは型落ちの少し古いコピー機だ。古くはあるが壊れてはいないらしい。
電源が入っているようで小さなモーター音が雪乃の耳に届いた。
コピー機の反対側には棚が。
上の段には膨大な量のファイルや紙束の類が並んでいる。
溢れんばかりという言葉が思い浮かんだが、精一杯整頓しようとという努力の後が見て取れる。
その下の段にはメガホンや三角コーンなど、多種にわたる小道具がこれまたなるべく規則的に見えるように並べられている。
文化祭や体育祭で使う道具の一部をここで保管しているようだ。
部屋の奥には長卓が四つ。
四角くなるように配置され、一つの机にパイプ椅子が二つずつ置かれている。
一番奥の長机だけは椅子が一つしかないらしい。
その椅子にはにこやかな顔を浮かべた男子生徒が座っている。
ワックスで整えたとわかる黒髪に、真面目そうな黒縁の眼鏡。
制服は着崩すことなくきっちりとしていて、ボタンも胸元までしっかり止まっている。
その生徒の顔には見覚えがあった。
入学式の時の在校生代表挨拶で壇上に上がった生徒会長である。
「やぁ、もしかして高松雪乃さん? 待ってたよ。始めまして、生徒会長の東堂です」
やや低めのあの声で東堂は雪乃に挨拶した。
声の低さは電話で聞いた時のままだが、物腰はさらに柔らかい印象を受ける。
まさか、拾ってくれたのが生徒会長だったとは。
雪乃は少しばかり驚き、それから電話口での彼の丁寧な対応に納得した。
生徒会長といえば生徒の代表である。
品行方正というイメージが強く、彼の対応はそのイメージを崩すことのない十分な物だった。
「あっ、高松です。学生証、拾っていただきありがとうございます」
少し間を空けて雪乃が頭を下げる。
名乗られたのなら名乗り返すのが礼儀だろう。
東堂は席を立ち、にこやかな笑顔を崩さずに扉の前まで来ると手に持っていた学生証を雪乃に手渡す。
「はい。もう落とさないでね」
雪乃はそれを受け取り、再び頭を下げる。
「あ、ありがとうございます。すいません。それでは……」
彼女の中での精一杯の感謝を伝え、足早に立ち去ろうとする。
クラスにまともに話をする相手のいない雪乃にとって、この状況はかなり気を張る。
相手が生徒会長というだけで緊張し、すぐにでも立ち去りたい思いだった。
後ろを振り向きかけた雪乃を東堂が呼び止めた。
「あ、ちょっと待って?」
反射的に雪乃の足が止まる。この場から逃げ出したいほどの緊張感に襲われていても上級生を無視できる胆力はない。
振り向きかけた身体を硬直させて、ぎこちなく姿勢を戻す。
視線は東堂の首元に向いた。情けなくも、真っ直ぐ目を見ることができない。
「な、何か」
雪乃が問う。
何か悪いことをしたわけでもないのに、咎められている気分だった。
「一年生は入学してようやく二週間くらいだよね? 生徒会長として、皆が楽しく過ごせるように色々と聞いて回っているんだ。どうかな、何か困ったことはない?」
東堂の言葉に雪乃の強張った身体がほんの少しだけ緩和される。
犯してもいない罪で裁かれるわけではないらしい。
なんてことはない。真面目そうな彼らしい質問である。
少し考えて、雪乃は口を開きかける。
「特に何もないです」そう答えようとして躊躇した。
脳裏に昨日の掃除の時間と、今日の五限の授業での出来事が浮かんだからだ。
しかし、躊躇したのは一瞬だった。
まさか「例の声が聞こえて困っています」と馬鹿正直に打ち明けるわけにもいかない。
そんなことを言えば、変なやつだと思われるのは目に見えている。
真面目そうに見えるが、出会ったばかりの東堂を信用できるわけでもない。
もしかしたら彼が学校中に言いふらすかもしれないと最悪の最悪まで妄想した。
開きかけた口をそのまま開き、躊躇しかけた「特に何もないです」という言葉をそのまま伝えた。
東堂がじっと雪乃を見つめる。
会話をしているには不自然な間が空き、雪乃は少し気まずい思いをした。
しかし東堂がそれ以上追求することもない。
「そう、よかった」
そう言って爽やかな笑顔を浮かべる東堂にもう一度頭を下げて、雪乃は生徒会室を後にしたのだった。
階段を降りて、再び連絡通路を通って本校舎に戻る。
なんだか変な感じだ。
東堂のあの妙な間はなんだったのか。
普段の雪乃ならば「私が何か変なことを言ったのだろうか」と心配するところである。
しかし、そうは思わなかった。
彼が作り出したあの間はもっと意図的で、何か確信めいたものを感じたのだ。
それは雪乃の直感でしかなかったが、不思議と間違ってはいない気がした。
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