第6話

六限目は数学だった。

担当はまだ若い男性教師で、声に力強さが漲っている。


一日の最後の授業に数学があると複数の生徒から不満の声が漏れる。

最後の最後に頭を使う授業を嫌うのだ。


いつもならばそんな生徒たちに混じって心の中で不満を言う雪乃だが、今日ばかりはそんなことを考える余裕もなかった。


緊張は解けている。身体の震えも治った。

しかし鼓動だけがやけに早い。


あの声を聞いてから動悸が治らない。


お願いだからもう何事もなく時間だけ過ぎて。


そう願い続け、授業も上の空である。


終礼を告げるチャイムまでの時間がやけに長く感じた。


授業が全て終われば後は掃除の時間。それが終われば下校時間である。


昨日の出来事のせいで掃除の時間には多少の不安感が残る。

五限目のせいで嫌な気持ちが続いていた。


それでも、掃除をサボるという選択肢は雪乃の中になかった。

どちらかといえば真面目なタイプに分類される性格だし、掃除をサボるにはある程度のコミュニケーション能力が必要だ。


「ごめん、今日調子悪くて」


最低限、反感を買わないように悪びれずにそう言える胆力があればいいが、雪乃には荷が重い。


クラス中の学習机を片側に寄せる。

空いたスペースを掃除用具入れから出した箒で掃く。


週の一日だけ、特別に水拭きをする念入りな掃除の日が設けられているが今日は空掃きだけで許されている。


机を逆側に移し再度掃く。

それが終われば机を下に戻し、出たゴミを一つに纏めて終了である。


数十人が常に使う教室だからゴミ箱のゴミは溜まりやすい。

満杯になった時だけ収集場に捨てに行けばよいのだが、ほぼ毎日満杯になることはこの数週間で証明されていた。


「高松さん、ごめん。ゴミ捨てお願いできる?」


無事に掃除を終え、ホッとしたのも束の間。

背後から降り注いだその声に雪乃はドキリとした。


どっちだろう。


疑問が湧く。

今の声は奴らなのか。それとも本当のクラスメイトなのか。


聞き覚えのある声だとは思った。

同じ掃除班になったよく笑う女子生徒の声に似ている。


でも確証は持てなかった。脳裏に昨日の出来事が浮かぶ。


振り向けばわかる。

もともと私には見えないんだ。振り向いて、クラスメイトの顔を見れば私に話しかけてきたかはわかる。


そう自分に言い聞かせる。

しかし身体は動かなかった。


不自然な間が空いてしまう。


「高松……さん?」


不安そうな声。

同級生のものだとしたら意図的に無視しているように見えるだろう。

聞こえなかったフリをするには距離が近すぎる。


雪乃は決心して振り向いた。


「今日は私が捨ててくるね」


目を見開く。

今の声は先ほど雪乃が想像していた同じ班のクラスメイトの声だ。


快活な彼女は明るい笑顔を浮かべたまま片手にゴミ袋を持っている。


彼女の友人たちが「よろしくー」と口々に言い、彼女が教室を出るまでを雪乃は無言で見送った。


彼女じゃなかった。


瞬時に悟る。

雪乃が無視していたから、代わりに彼女が持って行ったという様子ではない。


最初から雪乃には話しかけていないのだ。


呼びかけられた声はまたしてもこの世に存在しないはずの声だった。


耐えきれなくなって走り出す。

自分の机からひったくるように鞄を取り、そのまま教室の後ろの扉から廊下に出る。


クラスメイト達から変な目で見られようと今はどうでも良かった。

とにかくその場にいたくなかったのだ。


五限目の奴と同じ奴だろうか。

どちらも女性の声だった。


今までこんな頻度で聞こえたことはなかったのに。

聞こえたとしても独り言のようなか細い声だけだったのに。


走りながら涙が溜まっていく。

なんだか無性に悔しかった。


昇降口で乱暴に上履きを脱ぎ、外履を放り投げて足を突っ込む。


そのまま自転車置き場まで全力疾走。

今までこんなに走ったことはない。


呼吸が苦しい。肺が痛い。

それでも足を止めたくなかった。


自転車置き場に着くなり雪乃は自分の自転車に跨った。


力任せに漕いで校門を出る。

今はとにかく一人になりたかった。一人になって叫びたかった。


桐生東高校から家に向かうまでの途中にそこそこの規模の川が流れている。

普段は少し上流の方まで自転車を漕ぎ、車も通れる大きさの橋を渡るのだが今日はその手前まで自転車を止めた。


「ふざけんなぁ! バカ幽霊野郎!」


川の目の前まで行き、精一杯声を張り上げる。

周囲に人の姿はないが、もしも誰かがその光景を見ていたら雪乃を変な人だと思うだろう。


それでも構わず雪乃は叫び続けた。


一体なんなんだ。なんで私に話しかけてくるんだ。


と怒りが募る。


何か意味のあることを問いかけてくるわけでもなく、ただ名前を呼んでみたりいたずらのように話しかけてみたり。

雪乃には嫌がらせのようにしか感じなかった。


幽霊に嫌がらせをされる原因に心当たりなんてない。

むしろ苦しめられてきたのは自分の方だ。

子供の頃から聞きたくもない声を聞かされて、それが原因で周りから白い目で見られる。


環境を変えようと引っ越して来たのに、そこでもまた邪魔をされる。


「いい加減にしろ!」


限界を超えた雪乃の怒りの声は川の水の流れに吸い込まれるように消えて行った。

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