第5話
こういう時、何か言うべきなのだろうか。
雪乃は思案した。
彼女にとっては相当長い時間に感じられただろうが、実際には一瞬の思案だ。
「すいませんでした」だろうか。
しかし何に対しての謝罪かは自分でもわからない。
一人の時間を邪魔してしまって? それとも無様な姿を見せてしまって、だろうか。
そもそも声をかける必要はないのか。
何事もなかったかのように素知らぬ顔でこの場を去ればいいのではないか。
しかしそれもなんだか恥ずかしい。
恥ずかしい姿を見られたと後々悶々とする自分の姿が目に浮かぶ。
いくら考えども彼女のまだ豊富とはいえない人生経験では答えは出なかった。
そのうちに例の男子生徒は立ち上がり、イヤホンを外し、携帯ゲーム機をポケットにしまって立ち去ろうとした。
「あ、あの……」
思わず反射的に声をかけてしまって後悔する。
ああ、そのまま立ち去って貰えば良かったと。
男子生徒は不審そうな顔をしたが足を止める。
呼び止めた雪乃の次の言葉を待っている。
しかし当の本人には用意した次の言葉などなかった。
何というべきかこの期に及んで迷ってしまっている。
「何でもないです」
そう言いかけた時、僅かに早く男子生徒が口を開いた。
「ここいい場所だよね。他に人が来ないからたまに使ってるんだ。でも、今日はこの後他に行くところがあるからどうぞ使って」
男子生徒はそう言うと返事も待たずに立ち去ってしまう。
雪乃は自分の性格の良くないところとあまりにも無さすぎる対人スキルを痛感しながら、彼の背中を見送るしかなかった。
昼休みを終えると午後の眠い授業の始まりである。
入学式を終えて程なくして始まった本格的な授業は生徒達を早々に苦しめ始めている。
雪乃は大して頭が良くはない。
といっても学年でしたから数えるほど悪くもない。
それなりの学力に、それなりの真面目さを持ち合わせている。
それでも午後一発目の授業は睡魔に襲われる。
昼食を消化するべく胃に血液が集まり、必要とする脳にまで足りていない。
間の悪いことに五限の科目は「声が子守唄かと思うくらい眠くなる」と評判の先生だった。
五十代半ばの中年男性。声が低く、落ち着いていて眠気を誘う丁度いい塩梅になっている。
入学早々に不真面目のレッテルを貼られたくないと懸命に頑張るが、気づけば瞼は重く閉じようとしていた。
不意に声が聞こえる。
女性の声だ。
「……ちゃん。……乃ちゃん。……雪乃ちゃん」
段々と明確になっていく声に気付いた時、雪乃はゾッとした。
クラスに彼女を下の名前で呼ぶほど親しい友はいない。
ましてや今は授業中。
こんなにハッキリと名前を呼ばれたらクラス中の注目を集めるはずだ。
それなのに、教室内の誰一人として気にした様子はない。
先生は黒板に板書をしているし、他の生徒もそれを真面目に書き写している。
雪乃の席は窓際の一番後ろ。
それなのに、声は自分の左斜め後方から聞こえてくる。
やばい。
アイツらだ。
幽霊という言葉は使いたくなかった。
それを使えば奴らの存在を認めたことになる。
昨日、不意を突かれて返事をしてしまったのが良くなかった。
奴らに「聞こえる」とバレてしまった。
振り返ったとしてもそこには何もいないのだろう。
雪乃には「見る」力はなかった。
声が聞こえるだけ。
しかし、それがバレるだけでも奴らは寄ってくる。
「雪乃ちゃん。ねぇ、雪乃ちゃん。ねぇ返事をして。ねぇ、雪乃ちゃん」
声は決して無くならなかった。
今までこんなにハッキリと聞こえたことはない。
自分の力が強くなっている。
雪乃はそう感じた。
馴れ馴れしく、甘く誘うような声色。
もしも返事をしたらそのままどこか別のところへ連れて行かれてしまう気がした。
声は段々と近づいてきて、囁くように耳元にいる。
吐息がかかるような生温かい感覚があった。
気のせいだ。そんなわけない。
雪乃は自分に言い聞かせる。
授業を進める先生の声はもう聞こえなかった。
眠気もどこかへ消えてしまった。
雪乃はジッと目を閉じて、肩を振るわせながら声が聞こえなくなるのを待った。
お願い。私には何も聞こえない。あっちに行って。お願い。
懇願するように心の中で唱える。
今までだって聞こえたことは何度もある。
思わず返事をしてしまったことも。
そういう時はいつもこうして聞こえないフリをしてきた。
そうしていれば、そのうち奴らは興味を無くして消えていく。
早く、早く。
心の中の自分の声だけに集中する。
甘く、優しいのにどこか不気味なあの声をもう聞きたくなかった。
チャイムが鳴った。
フッと気配がなくなる。同時に声が聞こえなくなる。
先生が教室を去り、クラスメイトたちの喧騒が一気に押し寄せる。
まるで違う世界に来たようだと雪乃は感じた。
いつもは気にならないその喧騒がやけに大きく感じた。
身体はまだ震えている。ワイシャツの下にじっとりとした汗をかいていた。
恐る恐る首を後ろに向ける。
やはりいない。
元々見えないのだからそこにいてもわからないのだが、声が消えたことに加えて視覚で確認できたことで少しだけ安心することができた。
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