第3話
翌日。
いつもの登校時間よりもだいぶ早く雪乃は家を出た。
四月も下旬に差し掛かったというのに朝方の気温はやけに低い。
高い建物が周囲にないせいで冷たい風が顔に吹き付ける。
ペダルを踏む足が重い。
向かい風のせいだけではないだろう。
教室に入ったらどんな顔をされるか、それが心配で堪らなかった。
自分が変わっていると自覚した日から何度も体感して来たその陰鬱な感情にまだ折り合いはつけられずにいる。
「学校に行って……放課後は学生証を取りに行かなきゃ」
登校を諦めたくなる自分を鼓舞するように雪乃は無理矢理言い聞かせた。
「ああ、それなら放課後に特別室棟の三階に来てもらえますか? 放課後なら生徒のいる教室は一つだけだからすぐにわかると思います」
昨日電話をくれた東堂は自分から取りに行くと申し出た雪乃にそう伝えた。
朝や昼では都合が悪いらしい。
学生証を拾ってもらった手前、相手の都合の良い時に合わせるべきだ。
そう考えた雪乃は東堂の提案を受け入れた。
それが雪乃が今日学校に行く唯一の目的である。
「結果的にはよかった……かな」
車通りの少ない交差点で信号待ちをしながら呟く。
今現在学校に友達のいない雪乃にとって学校とは勉学のためだけに通う場所である。
入学してまだ二週間。
部活や委員会の類には入っておらず、今後も入るつもりはない。
友達を作って楽しい学生生活を送るんだ。
二日前まではまだ淡く抱いていた希望は昨日の出来事で打ち砕かれていた。
実際のクラスメイト達の反応を見る前から彼女の心が挫けかけていたのである。
ただ授業を受けるだけならば一日くらい休んだって構わないと思ったかもしれない。
学生証を受け取らなければならないという目的があったから今日も布団から出れたのだと言い聞かせる。
わざわざいつもより早く家を出たのも、じっとしていると行きたくない気持ちが強くなる気がしたからだ。
校門を抜け、駐輪場のいつもの場所に自転車を停めた。
落としたのは多分この辺だろうな、と検討をつけながら下駄箱に向かう。
昇降口に向かうには第一グラウンドの前を通ることになる。
道路に面したこのグラウンドはそれなりの広さを誇り、運動部の活動の中心にもなっている。
校舎の裏には第二グラウンドがあるが、こにらは便宜上第二とついているだけで広さは第一の半分もない。
運動部が部活のウォーミングアップに使う他、帰宅部の生徒たちが時折り体を動かすのに使われている。
この二つが桐生東の持つグラウンドの全てだが、生徒たちからわかりやすく「表グラ」と「裏グラ」と呼び分けられている。
まだ登校時間には早い時間だというのに表グラではもういくつかの運動部が活動していた。
「朝練」という自分には馴染みのない文化を横目に見ながら雪乃は歩みを進める。
昇降口の前まで来たところでグラウンドの方から黄色い悲鳴が上がった。
思わず視線が向く。
ボール避けのネットの手前に何人か女子生徒が溜まっていた。
悲鳴は彼女たちから上がったものらしい。
この寒い中、朝練の応援か。すごいなぁ。
自分とは明らかに違う行動力の高さに感心しながら視線は何気なく彼女達の応援先を追っていた。
運動部のエースを応援する女の子達、それは雪乃にとってはもうアニメの中の出来事に近い。
しかし、そこには多少の意外性があった。
応援されていたのは男子生徒ではなく女子生徒だったのだ。
野球、いやソフトボール部だろうか。
運動に疎い雪乃には両者の明確な違いはよくわからない。
運動着を着た女子生徒が快活にバットを振り抜いて走り出す。
ボールが金属に跳ね返される小気味のいい音が響き渡り、ネットのそばにいた女子生徒達からまた歓声が上がった。
「西垣先輩、素敵です!」
応援団のうちの一人が叫ぶ。
他の女子生徒達も負けじと声を張り上げている。
西垣という名前には多少聞き覚えがあった。
たしか、去年の秋の大会でソフトボール部を県大会出場に導いた生徒の名前である。
なるほど。
得心のいった様子で雪乃はバッティング練習をする件の女子生徒を見やった。
遠目でもわかるスタイルの良さ。
ヘルメットに阻まれない整った顔立ち。
それだけでも人気が出るのが頷ける。
それに加えて彼女は応援している女子生徒たちに向かってはにかんだ笑顔で手を振った。
まるで王子様のような立ち振る舞いに何の関係もない雪乃でさえ一瞬ドキッとしてしまうほどだ。
ハッとして首を振り、寒さに身を縮こまらせながら昇降口の中に入る。
これ以上見惚れていると危ない。
男性との恋愛すらまだなのに女性に恋に落ちるところだった。
靴を脱ぎ、下駄箱の中に入れる。
上履きを履いて教室へ。
いつもの動作をしながらも心臓はまだ脈打っている。
昇降口前で生じた感情とは真逆のものだ。
ソフトボール部のヒロインのおかげでせっかく不安感を紛らわせることができたのに、教室が近づくと気持ちは再び登校前の状態に戻ってしまう。
ため息とも深呼吸とも取れる深い息を吐き、気持ちを宥めようと時間をかけた後雪乃はようやく教室の扉を開けた。
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