月の光はレモンの香り
藤泉都理
月の光はレモンの香り
好物なのだと、
夫婦に成りすまして機密情報を手にするという任務を無事に完遂したその日の夜。
朔夜は相棒だった翠怜と共にキッチンカーでレモンパイと無糖炭酸水のペットボトルを買って公園のベンチに座り、満月を見上げながらサクサクの生地と苦味と酸味が僅かに甘味を上回るレモンパイを堪能していた時だった。
月の光はレモンの香り。
翠怜がふと呟いたのである。
月光の影響を受けたのか。
レモンの影響を受けたのか。
それとも、ただ変装を解いただけなのか。
かさついていた純白の長い翠怜の髪の毛の色も髪質も変わっていた。
「気付いていたのかどうか知らないけどさ。私。男なんだよね。女装してんの」
「へえ」
「最初はこの世界で生きていく為に仕方なく女装してたんだけど。続けていく内に結構ハマっちゃって。メイクとか所作とか洋服とかプロポーションメイキングとか。変わっていく。ううん。最高を目指していく私が最高に楽しくなってきちゃって。いつの間にか仕方なくじゃなくなっていたんだ」
「よかったな」
「うん。よかった。よかったんだ。いつ見つかるかっていつも怯えて生きていたんだけど。いつの間にか、怯えなくなっていた。ぶっちゃけ、忘れていたんだよね。あいつらの事。ボスに拾ってもらえてから次から次へと任務も言い渡されるし。毎日が充実していて。本当に。忘れていた。忘れたままでここで寿命を迎えるんじゃないかって。浮かれちゃっていたんだよねえ」
「捕まったのか?」
「そう。捕まっちゃった。帰らなきゃいけなくなっちゃった。あ~あ。折角自由を謳歌してたってのにさあ」
「すんなり諦めるのか?」
「うん。そう。諦める。帰るわ。観念する。元の世界で生きて、生きて、生き抜いて。戻って来る。だからさ」
小型銃ベレッタナノを翠怜の蟀谷に突き立てる朔夜に、翠怜は見逃してくれないと軽い口調で頼んだ。
「ボスに言われている。君が元の世界に帰ろうとした時は殺せと」
「うん。知ってる。ボスにも言われていたし」
「だったら何故?」
「うん。おまえなら私を見逃してくれると思った。詳しくは言えない。大雑把な説明しかできないけど。それでもおまえなら」
「俺が君に惚れたとでも?」
「うん。そう。今のところは任務達成の相棒として。いずれは人生の相棒として。初めて組んだけど息がぴったりだったし。おまえ。それだけでもう私に好感を抱いたでしょ。あと単純に私の外見が好み。っていう願望を多分に籠めている」
「願望、な」
「おっ。もしかして私の願望ってだけじゃないとか?」
「君の願望だろうがそうじゃなかろうが関係ない。任務は遂行するのみ。だろ?」
「うんうん。確かにねえ。そうなんだよねえ」
もくもく。
翠怜は残りのレモンパイを食べて無糖炭酸翠を飲み干したのち、これで思い残しはないと満面の笑みを浮かべた。
「ま。ぶっちゃけて言えば。おまえは私のタイプなんだよね。外見も性格もきっちりかっちししている黒のスーツが似合う黒の男。元の世界では男が男に惚れるのはタブー。それこそ死刑判決されるくらいの禁忌なんだけど。この世界ではそんな事もないみたいだし。これからじっくりからっとアプローチするつもりだったんだ。けど。しょうがない。惚れた男に殺されるなんて。本望と言えば本望だし。やっちゃってちょうだい」
「抗わないと?」
「そ。おまえに攻撃はしない。おまえを見下しているわけじゃないから。私がおまえを傷つけたくないってだけ」
「俺に傷を付けられると思っているのか?」
「思っている。実力差はそうないと踏んでいるから。怒った?」
「いや。俺もそう思っていた。だからこそ、本気で闘いたいとも思っていた」
「うん。正直、私も本気で闘ってみたいけど。それ以上に傷つけたくない、傷ついてほしくないから。私を見逃せば、おまえはペナルティを受ける。だから。いいよ」
ベレッタナノのトリガーセイフティを解除した朔夜。満面の笑みを崩さずに満月を見上げる翠怜に尋ねた。
元の世界に戻ったら何をするつもりなのか。
「だから言ったじゃん。生きて、生きて、生き抜くだけ。そして、ここに帰ってくる。ボスの元に、おまえの元に帰ってくる」
「その言葉に嘘偽りはないか?」
「うん。ない」
「そうか」
朔夜は仄かに笑ったのち、ベレッタナノのトリガーを引いたのであった。
「月の光はレモンの香り。か」
月光の影響を受けたのだろうか。
それとも、翠怜の影響を受けたのだろうか。
僅かに発散した硝煙が丸ごとレモンの香りがするのは。
ベレッタナノをスーツで隠していたショルダーホルスターに戻した朔夜は、ベンチに置いていたレモンパイを一口で残りを全部食べ終えて、半分ほど残った無糖炭酸水のペットボトルと空のペットボトルを手に持ち歩き出したのであった。
「あまい香りだ」
(2025.5.29)
月の光はレモンの香り 藤泉都理 @fujitori
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