第4話

 天井を見つめる華純さんは、どこか遠くを見ていた。

「奇跡が起こるといいですね」

 ぼくは短く答えて頷いた。

 アパートの部屋に再び沈黙が訪れた。先ほどとは違って穏やかだった。

 華純さんが鼻歌を口ずさんで窓の外を眺める。

 瞳がキラキラと輝いていて、まるで子どもみたいだった。

その日の夜、普段通りぼくたちはアパートの部屋で静かに過ごしていた。ぼくは椅子に座ってスマホを触り、華純さんはテレビの前で本を読んでいた。


 ふと、華純さんが顔をしかめる。すぐに異変を感じ取って、華純さんに駆け寄った。

「華純さん?」

 何も言わず、無言で本を閉じて軽く咳をして後頭部を押さえていた。華純さんは顔色が悪く、息が荒くて手が震えている。

「大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫……」

心配して華純さんに近づき、ぼくは肩に優しく手を置いた。

華純さんは深呼吸を何度か繰り返し、首を軽く振った。普段の明るい様子とは違って、弱々しい声だった。

彼女は胸が押さえていて、息を吸うのもつらそうだ。必死に耐えようと何度も深呼吸を繰り返しているけれど、下を向いて苦しそうだ。

「華純さん、今すぐにでも病院に行きましょう」

 手を華純さんの肩に置いて、ぼくは何度も同じ言葉をかけ続けた。

 再び首を振る。目を閉じ、自分の息を整えている。

「本当に、大丈夫、だから」

華純さんの声には力がない。小さく息をのんで項垂れている。顔を上げてぼくの目を見つめているが、迷いと不安が混じっている。

「無理しないでください。病院で見てもらった方がいいと思います。心配です」

ぼくは、強めに言い放った。

「行きたくない……」

華純さんは目が潤んで、泣きそうだった。

「わかりました。病院へ無理に行かせませんが、いまの華純さんの顔を見ていると、薬をのめば楽になるはずです。自分を大切にしてください」

「……うん」

ぼくたちは沈黙した後、華純さんは目を閉じ、深くため息をついた。心の中で葛藤が続いているのは見て取れたけれど、やがて弱々しく頷いた。

 華純さんの一言で、ぼくはほっと胸を撫で下ろした。すぐに立ち上がった。

「無理しないでくださいね。華純さん、ゆっくり歩けばいいですからね」

 病院に向かっている途中、華純さんが道端で急に立ち止まった。歩道でしゃがみ込むと、小さく肩を震わせて顔を伏せる。冷えた空気の中で吐息が白く滲むのが見えた。

 雪解け水でぬかるんだ道に立ち尽くし、ぼくも言葉を失ったまま彼女を見下ろ

していた。村の静けさは相変わらずで、風が枝を揺らす音だけが微かに耳に届く。

「どうしましたか?」

 勇気を振り絞って声をかけると、彼女は顔を上げずに小さく呟いた。

「ごめん、やっぱり病院には行きたくない……」

 その言葉は思いのほか弱々しく響いた。彼女の歩みが雪に吸い込まれるように消えていた理由が、いまになってわかった。

 ぼくはしゃがみ込んで華純さんの顔を覗き込む。しかし、彼女は視線を逸らしたまま首を横に振るばかりだ。

「病院に行かない理由があるなら、言ってくれませんか? もしかしたら力になれるかもしれません」

 自分でも驚くほど柔らかい声で問いかけた。華純さんはそれでも顔を上げなかった。

「……わたしが病院に行くと、全部、バレちゃうから……」

 華純さんの声は隙間風で掻き消されるほどか細かった。理解はできなかったけれど、深い悲しみがそこに込められているのはわかった。

「何がバレるんですか?」

 ぼくの質問に、華純さんは唇を噛みしめて震える声で答えた。

「本当のこと。わたしが、ここにいる理由とか、全部……」

 その瞬間、彼女が抱えている何かがただ事ではないと気づいた。同時に、これ以上追及するのは間違っていると感じた。彼女の瞳には、どこか逃げ場のない動物のような怯えが宿っていたからだ。

「……わかりました」

 ぼくは立ち上がり、手を差し伸べる。

「いまは病院に行くのはやめましょう。無理に連れて行きません。しかし、ぼくを信じてください。少しずつでも話してくれれば、必ず助けますから」

 華純さんは一瞬、目を丸くしてぼくの顔を見た。おそるおそる手を取ると、微かに頷いた。

 雪に覆われた病院の前で交わされたその約束が、ぼくたちの間に何かを生んだ。それが絆なのか、それとも別の何かなのかは、このときまだわからなかった。

「葵くん、何か考えてるのー?」

 華純さんが不安げに尋ねた。ぼくは意表を突かれて半歩後ろに下がった。

「ちょっと、立ち寄ってみようか。もしかしたら、野村先輩ならよいアドバイスをくれるかもしれない」

 華純さんは首を傾げたが、特に反対はしなかった。

 大学のキャンパスの入り口に差しかかると、そこに立ち止まった人物がいた。思わずぼくの足が止まる。その人物は、冷静で知的な眼差しを持つ男性、野村先輩だった。

「あれ、葵じゃないか。久しぶりだな」

 野村は軽く手を挙げて、こちらに向かって歩いてきた。今日も落ち着いた姿勢を崩さない。

「野村さん……!」

 ぼくは思わず声をかけ、会釈をする。華純さんも最初は不安そうだったが、野村の姿を見てほっとした。

「この人って誰なの?」

 華純さんが小声で尋ねてくる。

「紹介しますね。野村大輔さんです。高校時代からの野村先輩で、いまは信州天文大学で心理学を研究している人ですよ」

 説明すると、華純さんは安心したように微笑んだ。

「はじめまして! 月岡華純です」

 華純さんが明るく挨拶をしたら、野村も落ち着いた口調で応じた。

「君、どうしてここに?」

 野村の問いに、ぼくは一瞬言葉を詰まらせた。しかしすぐに事情を話し始める。

「実は、華純さんが記憶喪失で、どうしたら解決するのかわからなくて……野村さん、何かアドバイスをくれませんか?」

「記憶喪失って、外的な衝撃だけが原因じゃないんだ。心理的な問題も絡むんだ。いまは焦らずに少しずつ日常を取り戻すことが大切だ」

 野村先輩は考え込んだ後、密やかに言葉を紡いだ。

 華純さんは野村先輩の話に大人しく耳を傾けていた。安心しているようだった。

「無理に思い出させようとせず、月岡さんがリラックスできる環境を作る。それが一番だよ」

 野村の言葉に、ぼくも胸の奥の不安が和らぐのを感じた。

「ありがとうございます。それなら、ぼくにできそうです」

 ぼくの言葉に、野村は微笑んで頷いた。

「何かあったらまた相談に来てくれ。いつでも手を貸すから」

 ぼくは感謝の気持ちを込めて頭を下げた。

 病院の前で立ち止まった時間とは異なり、大学からの帰り道は軽やかだった。ぬかるんだ雪道を進むぼくの隣で、華純さんがわずかに笑みが溢れた。

 華純さんの記憶が戻る日はまだ遠いかもしれない。それでも、彼女の元気な姿をもう一度見るために、ぼくは歩みを止めない。たとえ、この道がどれほど長くても。



   2


 月曜日の朝、二階建てのアパートの中庭には、冷たい朝の空気が流れ込んでいた。中庭に面した場に足を運んで、ぼくは深呼吸をした。ちょっとした清々しさを覚えていた。冬の空気はひんやりしているけれど、どこか温かさも感じるのが、阿智村のいいところだ。

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