第3話

 ぼくは失礼にならないように、できるだけ平静を装って少女に尋ねた。

「わたしは……月岡 華純(つきおか かすみ)」

 しばらくの沈黙の後、それだけを物静かに話した。

 窓の隙間から真冬の冷たい夜風が入り込み、華純さんの頬にかかるロングヘアをそっと揺らしていた。ぼくは彼女の儚げな様子に意識を奪われた。

 華純さんはふと、どこか物憂げに微笑んだ。気のせいかもしれないが、その碧眼には小さな悲涙の影が滲んでいる。

「苗字は何ですか? 女性を下の名前で呼ぶのは忍びないので、できれば教え

てほしいです」

 ぼくは電気ストーブの近くで絨毯の床に正座で、丁寧に返事をする。

 本当は数秒だけれど、数十分は経ったかのような長い沈黙に感じられた。時計の音だけがワンルームの木造アパートに虚しく響き渡っている。

「うーん、忘れた」

 ぼくの気持ちとは反して、華純さんは飄々と答えた。ベッドの上で慣れた家のように平然としている。

「えっ、家の住所も言えませんか?」

 思わぬ言葉に、自分でも情けないほど高く裏返ってしまった。華純さんの目が驚きから笑いへと変わるのを見て、ますます恥ずかしくなった。

「……わからない」

 天真爛漫に振る舞っている。

 ――どうしてこんなに元気でいられるのかな? 普通なら、もっと混乱してパニックになるはず。いわゆる記憶喪失なのだから。

彼女にはそういう“普通”が当てはまらないらしい。

「学生証はありますか??」

「いや、何もないみたい」

 華純さんはカバンすら持っていなかった。

「そっかぁ。記憶喪失なのかもしれませんね。ちゃんと病院で検査を行った方がいいですよ」

 ぼくは華純さんの気持ちに立って考えると、絶望感でいっぱいになり胸が締め付けられた。

 これから、この子はどうやって暮らすのだろう。

 まだ高校生くらいだろうから、早く両親のもとに返してあげなきゃいけない。

 華純さんの記憶が戻るまでは一緒に生活するのだろうか

 ぼくは反芻思考に陥っていると気が付き、頭の考えを必死に掻き消した。

「だよね」

 それに対して、華純さんは何でもなさそうに軽く返事をする。

 考え込んでいる様子もない。

 ――信じられないな。ぼくだったら、すぐに泣いてしまって三日はベッドで寝込むだろうに。

「ていうか、葵くんって見た目からしてわたしより年上だよね。なんで敬語?」

「いや、つい癖で。仲のよい人以外には敬語で話してしまうというか、何というか」

「なにそれ」

 華純さんは笑いを堪えて吹きだしていた。その満面の笑みに、ぼくは気まずさを覚えた。

 ――なぜだろう。この子の方が余裕を見せているなんて。こんな状況で、緊張をほぐしてくれているのだろうか?

 ぼくは恥ずかしくて俯いて、絨毯の点を数えることに徹した。

 華純さんの視線を感じて、ハッと顔を上げると瑠璃色の瞳がぐっと近づいてきた。息が詰まる距離感に、思わず身体を引きそうになったが、ぼくは瞬時に動けなかった。自分自身が情けない。

「痛い。これ、夢じゃないんだよね?」

 頬をつねって声を震わせて呟いているのに、現実味が欠けている。

 しかし、目の端には涙の粒が滲んでいた。

「ええと、たぶん夢じゃないと思いますけど……」

 思わず、華純さんと同じように確認しそうになったが、やめた。

 彼女は服の裾を摘んで、小さく唇を尖らせた。何か言いたげな仕草に、空気が張り詰めた。

 ――次に華純さんからどんな言葉が飛び出すのだろう。

「空から落ちたら、服がもっと汚れるのかと思った。ねぇ、わたし、どうして怪我してないの?」

 突然、真剣な顔で問われ、ぼくは言葉に詰まる。

 一瞬、彼女の声が掠れた。その微かな変化に、ぼくは胸がざわつく。

 ――明るく振る舞う彼女の裏に、不安の影がひそめんでいた。

気のせいであってほしいと思いつつ、それが気になって仕方なかった。

「たぶん奇跡とか?」

「奇跡かぁ」

 華純さんは一瞬頭を抱えたかと思うと、急にもとの明るい笑顔に戻った。

「……なんとなく前向きなんですね」

ぼくは呆気に取られていた。

「まあね。そもそも覚えてないからね。落ち込んでる時間はもったいないじゃん? それなら、未来について考えたいな。明日、何して遊ぶかとかね」

 ぼくは焦っているにもかかわらず、なぜか華純さんは楽しそうだった。


 しばらくぼくたちの間に会話はなく、時計の針の音だけが部屋に響き渡っていた。沈黙が妙に重たく感じられて、ぼくはテレビのリモコンに手を伸ばした。

 ボタンを押すと、画面がパッと明るくなり、朝の占い番組が流れ出す。アナウンサーたちが楽し気に談笑する様子はどこか非現実的で、言動の軽さに心が遠く逃げていくような感覚に襲われた。

 窓の外を見ると、寒さをものともせず駆け回る子どもたちの姿があった。無邪気に笑う表情はどこか眩しく、ぼくの胸の奥にわずかな温かさをもたらす。

れる。しかし、視界の隅には天井をじっと見つめる華純さんが映っていた。動きひとつ見せない彼女は、まるで時間が止まったかのようだった。

「何を考えているんだろう?」

 疑問がふっと頭に浮かぶ。もしかして、ただ無為に時間が過ぎるのを待っているのか。それとも、ぼくが何かを言い出すのを待っているのだろうか。

 ぼくの口は重たかった。人見知りの性格が邪魔をして、先に言葉を発する勇気が出ない。華純さんも黙ったままだと、会話は成立しない。そのうちに、気まずい空気が部屋全体をじわじわと支配していった。

 ――人と話すことに慣れて、もっと華純さんとも自然に話せるようになる。

 自分に言い聞かせて、リモコンを握りしめる。画面の向こうで賑やかに進む番組には、もう目が留まらない。ただテレビの音が、沈黙を紛らわせる役割を果たしているだけだった。

 華純さんが不意に口を開いた。

「ねぇ、葵くん。昨日のニュースで流れ星の特集を見たんだけどねー」

 華純さんの声にぼくはハッと振り返る。

「昨日、見た流れ星ってこのふたご座流星群だったのかな?」

 華純さんの問いに一瞬、ぼくは鼓動が激しくなった。記憶を失ったはずの華純が、どうして昨日のことを知っているのだろう? ぼくは彼女に対する疑いはすぐ飲み込んだ。

 もしかしたら、華純さんは幽霊かもしれない。

「ああ、流れ星だったのかもしれませんね」

 曖昧な返事をするぼく。その瞬間、昨夜見上げた空の光景を思い出した。あの奇妙な輝きが、流星群だったのだろうか? でも、何かがぼくの心の中で引っかかる。

「ふーん。じゃあ、わたしは流れ星に乗って葵くんのもとにやってきたのかもね」

 ベッドに横たわって華純さんが無邪気に爆笑する。ぼくはつられて明るい気持ちになった。

「え? そんなおとぎ話みたいなことありますかね」

 ぼくの肩の力が抜けた。

「願い事をすればよかったなぁ。流れ星って、願い事が叶うって言うじゃ

ん?」

 華純さんはふと真剣な表情をしていた。瞳の奥に宿る寂しさに、ぼくの心が微かにざわつく。

「真冬に外で倒れていて無事だったこと自体が、すでに奇跡ですよ」

 ぼくの言葉に、視線を落とした。儚げな仕草にぼくは静かに息を吐く。

「そうかも。奇跡って案外簡単に起こるかもしれないよー」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る