一 彼らはそれを知らない。
1本目の釘 まず鉄鎚が目の前に置かれた
――あ、死のう。
秋の早朝、
寝ているのか寝ていないのか分からない、半覚醒の夜を過ごして日曜日。たぶん明け方に何時間か、ぐっすり眠ったのだと思う。
そこから浮上して、同時にこれ以上ないアイデアが頭を占めた。
事の起こりは数ヶ月前、
※
「しょうがねえなあ、ワタリは」
航の答案を見て
彼が口にするワタリとは航のあだ名で、〝足りている〟ワタルではなく〝足りない〟からワタリという意味とは、明白だが、誰も指摘したりはしない。
「はは……悪夢だね……」
航は自分のあだ名について言及したことはない、しようとも思わない。なにせ彼は、暗黒の中学生時代を振り切るため、高校デビューを決めていたのだ。
1年2組に振り分けられた時から、隼馬を中心としたグループに属することが最優先事項と定めた。彼らはみんな容姿が良く、成績優秀者ぞろいだ。
航が辛うじてそこに引っかかれたのは、すべらかで白い肌と、つぶらで大きな瞳が美少年のそれと運良く判定されたからだった。過去はこの容姿のため、さんざん「女の子みたい」といじめの種にされたものだが、人生何が役立つか分からない。
不本意なあだ名だって、大した問題ではないのだ。実際これまでの所は、順調な学園生活を送っていた。暗黒の中学時代を思えば、夢のようだ。
「ワタリ、その調子じゃこの先苦労するだろ。オレらが勉強見てやろっか?」
優しげな笑みで提案する隼馬が、航には後光が差して見えた。
「い、いいの!?」
「オレら友達だろ、水くさいな。その代わり、絶対途中でヘバるんじゃねーぞ?」
「うん!」
「約束だな? ワタリ」
「約束する、絶対に途中で音を上げない!」
こうして、隼馬主催の勉強会、通称〝セミナー〟が始まった。主要な開催場所として、チャットアプリ・
一日目は、隼馬やグループの連中がヒアリングを行い、航がどこでつまずいているか明らかにした。翌日、「正確な学力を測ろう」と誰かがプリントしてきた小テストをやらされてみれば、結果は中間テストより悲惨なもの。
それが名門中学の受験問題だと航が知ったのは、後のことだ。
「ワタリ、お前さぁ……その学力でよくウチの高等部入れたな」
隼馬と取り巻きは一瞬で掌を返した。
「せいぜい小学生レベルじゃね? せめて義務教育レベルはあるもんと」
「こりゃ、論理的で正常な思考力なんて期待できねえな。んなド低脳だったのかよ」
冷たく、
航が運動も勉強も苦手なのは事実だった。だが中学受験の過去問は、大人だって解けるか危ういものがある。彼も反射的に異を唱えようとしたが。
「そうそう、絶対に途中でヘバらないって約束だったよな」
と隼馬は念を押す。
『約束を破るやつは信用のならないクズ』、それは更なる状況の悪化、例えばスクールカーストの最下位に固定、などという原因になりかねない。
「や、約束は守るよ」
「んじゃっ、参加料な。百円」
そのぐらいなら、大した金額ではないと払ってしまったのが、航の甘い所だ。だがこれが千円でも、やはり自分は払っただろう。
〝セミナー〟は即座に中身のない集まりになった。
言われるがまま購入した問題集と参考書で航が自主勉する様を監視しながら、他のメンバーは音声チャットで楽しくおしゃべりするばかり。
〝セミナー〟の参加料は翌週には二百円に値上げされ、翌月には五百円になった。開催
こんなものを、高校生の小遣いでまかなえようはずもない。航はクリーニング店のアルバイトを始めたが、バイトと〝セミナー〟の両立は体力気力を奪っていった。
思考力が落ちていく。それと反比例するように、参加料は現在もじわじわ十円単位で値上げされているばかりで、頼みこんで「ツケ」にしてもらうようになった。
毎週明けには、学校で学力テストを受けさせられる。頑張って百点満点を取った時は、思わず自室でガッツポーズしたものだ。
努力が実り、小テストで教師から褒められた一幕もあった。
有頂天になったのはごく一瞬、SNSでそれをやっかむ陰口が叩かるのを見つけた――ご丁寧にグループの一人が教えてくれた――時は、まさに冷や水を浴びせられ、総毛立つ心地だ。妬まれても嬉しくなんてない、攻撃されているという事実が怖い。
〝セミナー〟の学力テストで満点を取ると、次週は更に偏差値が高い中学受験の問題を受けさせられる。「裁判の判決文を読解せよ」などという課題に至っては、明らかに高校生の学力を超えていた。つまり、このテストには終わりがない。
考えなしに自分が交わした約束のため、航は〝セミナー〟を辞めることはできなかった。勉強とテストはくり返され、落第すれば徹底的にこき下ろされる。
そして
夏休みに入ると〝セミナー〟の開催頻度は下がり、航はバイトのシフトを増やした。しかし隼馬たちから遊びの誘いが入れば、応じないわけにはいかない。
「付き合いの悪いやつ」とみなされ、グループから放り出されてはこれまでの努力が水の泡だ。それに遊ぶことは、ほどほどの気晴らしにもなった。
「最近、ワタリに勉強見てやるヒマねえからな~。オレらからも夏休みの宿題だ」
という隼馬の言葉で、新たな問題集が追加されたのは八月も半ば。夏休み終了目前になって、まるまる一冊片づけなくてはならなくなった。
「シフト減らしてくれって? 増やしてくれってこの間言ったのは君でしょ、困るよ、そういう無責任なのはさあ」
「すみません……どうしても外せない用事ができて」
「学生ってのはこれだから。そんな無責任、社会じゃ通用しないからね!」
アルバイトのシフト追加、シフト削減、交代、平謝り、夏の遊び、以前にも増して気を遣う隼馬たちとの人間関係、もちろんある学校の課題……。
行き止まりの袋をすっぽり頭まで被っては、自分が追いつめられていることにも中々気がつけないものだ。けれど袋が顔をこすって痛めば、いい加減、航自身もそれを認めないわけにはなくなるのは、もう少し後のことだった。
※
「さて、学級委員やる気のあるやつ、いるかー?」
災害級酷暑が大雨に中断され、夏休みが明けた八月下旬。1年2組は、担任のその一言で時間が鈍化した。誰も立候補しないし、推薦もしない。
「今学期だけでいいんだぞ」
一学期は幸い奇特な生徒がいたのだが、夏休み中に転校してしまった。
残念ながら、他にやりたがる物好きは残ってはいないようだ。どうか教師のご指名が自分になりませんように、と皆が祈る中、一人の男子がつぶやいた。
「ワタリ」
ボソッとした声は、窓の向こうに見えるトンビかカラスにでも投げかけたのかと間違えそうだ。だが席の近い男子たちは、彼、久重隼馬の声をひろい上げた。
「航でいいと思いまーす」
「家嶋くんに一票」
「よっ! 委員長!」
黒板に自分の名前が記されるのを、航は黙って見ていることしかできなかった。
「よし、家嶋はこれから学級委員長だから、しっかりクラスをまとめてくれよ」
女子の方は立候補者が現れ、すっかり話がまとまった空気になっている。断ろうものなら、「また決め直しか」と一身に非難の視線を浴びるのは確実だった。
――「強いやつは弱いやつを守る、それが正義ってもんだ」
常々そう言っていた父の方針と期待とは真逆に、弱々しく育ったのが航だ。
幼少期から無理やり慣わされた空手はまったく身につかず、練習で殴られた経験から、人一倍痛みや暴力を怖がるようになってしまった。
それが尾を引いて、人と話すのも苦痛なまでになり幾年月。高校デビューのため、六つ下の妹を相手に会話の練習を積んだが、待っていたのが〝セミナー〟だった。
その自分がクラスをまとめる? いったい何の冗談だ。
教師からの連絡をクラスに伝えても無視され、後で「聞いていない」という話になれば「家嶋くんは何も教えてくれませんでした」と事実と反したことを言われ。
ホームルームや話し合いで進行を務めても、みんな女子委員長のことしか聞かない。相対的に負担が増える彼女から「しっかりしてよ!」と
「家嶋、まだノート集めてないのか? いつまで待たせるんだ」
「おい、誰もまだプリント受け取ってないって言われているぞ」
「男子がぜんぜん整列しないじゃないか。もっと大声を出せ」
渡したプリントを目の前で捨てられ、嘘を吹聴される身にもなってほしい。彼らに、航を委員長として顔を立てる気がさらさらないのは分かっていた。
それにしても、ここまで酷いとは想像だにしなかったが。
中学のようにタブレットを主体にしたペーパーレスなら、彼らも簡単に高価な端末を破棄しなかったのではないか。……などと、考えても仕方がない。
昼間は学校で教師と生徒の双方から馬鹿にされ、軽蔑され、怒りを向けられ、夜は〝セミナー〟で出来もしない問題を無理やり解かされ、人格を否定される。
いつからか、航はまともに眠れていない。
◆
おそらく他の人間なら、学校に行くのを辞めようだとか、家出しようだとか、〝セミナー〟を辞めるとハッキリ言うだとか、もっと良いアイデアを思いついている。
その選択肢は航の脳裏にもあったが、あくまでバックグラウンドで処理されて、選択肢にも上らない。どうせ、父に阻止されるだろうことは明白だからだ。
家出ぐらいは可能だろうが、それは一時的な逃避に過ぎない。
世間体が悪いと殴られ、市内にある他の学校は学費が高くなるから転校させてもらえることもないだろう。そっちに兄を通わせるだけで、うちは精いっぱいだ。
父は昔から優秀な兄ばかりひいきしているし、優しい母も六歳下の妹がいるからさびしくないに違いない。航がいなくなってもきっと家族は問題はなくて、唯一それを気にしていただろう自分が意見を変えたのだから、やることは一つだった。
(なんだ、ぼくが生きている理由、もうないじゃないか)
何かあったかもしれないが、今は思い出せない。空きっ腹のまま足早に家を出て、ありったけの金銭を財布につめる。とりあえずロープを買おうと思った。
自分が生きている理由……いわゆる、希望だとか、人生への期待だとか。
そんな物は、高校に入学してしばらくのころ。何度目かの〝セミナー〟が終わったころに、もうなくなっていたんだろう。ただ気がつきたくなかっただけで。
いや、死そのものは中学時代からずっと意識していた。両親が使うパソコンから、特殊清掃の動画やWebサイトを見ては履歴を消して。
「いつか何もかも嫌になったら、ぼくはこの世の外にだって逃げ出せるんだぞ」
「いいや、絶対にやめた方がいい。迷惑だし失敗したら酷いことになる」
思うことは、その二つを行ったり来たりだ。
それが今朝、ついに一択に決まった。もう迷いはない。それでも自分の一部が、小さな声でやめようと説得し続けている。だって目的をはき違えているから。
自分は死にたいのではなく、正確には消えたいのだ。もっと言えば、時間を止めてほしい。ちょっと、もうしばらく待ってほしい、何もかもに。
〝セミナー〟でテストされる時、問題文を解かされる時、アルバイトに出勤する時、学校に行く時、休み時間が終わる時、もう寝なくてはならない時間の時。
ちょっとだけ待ってほしい。でも、いつまで待てば大丈夫になるのか分からない。一度でも足を止めれば、もう二度と歩き出せない気がする。
航にとって、自分が死ぬに足る理由なんてそれで充分だった。早く休みたい。もう誰にも何かを急かされたり、やりたくないことを強いられたくないのだ。
そして生きていけばこの先、それが悪化の一途をたどることは明白だった。
航が住む町は都会的な街並みと昔ながらの農家が同居する、中途半端に発展した地方都市だ。だから、人目につかない山林を見つけることは難しくなかった。
用意したのはロープと踏み台、これだけあれば準備万端。
さあ、この輪っかに首を通せば、どうあろうと自分はもうお終いだ。確実に逝ける。ふーっと息を吐いてタイミングを計らっていると、周囲の音が遠のいていった。
日の出からしばらく、鳥の声や葉ずれの音がしていたはずだが、ミュートされたような静寂だ。死を目前にすると、自分でさえこんなにも集中力が発揮されるのか。
不思議に思う航の視界は、徐々にモノクロに染まっていった。焦げ茶色の樹皮も、縄の白さも、
ふうっと生暖かい/あるいは冷たい風が吹きつけた。輪の向こうから来るそれは、黄泉の空気だろうか。今だ、と航は確信した。この輪に首を通せば、自分は死ぬ。
「いたっ!?」
背に小さな衝撃を感じ、遅れて来た痛みに航は振り返った。小石のようなものがぶつかった、いやぶつけられた。いったい誰が? と見やれば、一人の少年がいる。
「や、どうもどうも。お取りこみ中失礼。ちょっとお時間もらえないかね?」
なんだコイツと思いながら、航はしぶしぶ踏み台を降りた。人前で首を吊るほどの度胸はない。相手は自分と同年代のようだった。
魚の骨を縦にしたようなガリガリのやせっぽちで、やたら白い顔、目の周りには大げさなほど濃く黒いクマ。
そういうメイクかと疑いもするが、体型から素かもしれないという一抹の懸念がぬぐえない。それほど病的な印象だった。少年は大仰に手を広げる。
「まずはご愁傷さま。君が死にたいほど追い詰められていることに。そしておめでとう! 君には復讐する権利がある」
名乗るより先に、そいつは航を指さしてきた。
「どうかね、自分を苦しめる憎たらしいやつを放置して、命を絶つなんてもったいない。この呪術師、
栄太郎が何を言っているのか、航には半分ほども分からない。思考力と判断力がとことんまで落ちている状態だ。
「人間、死ぬ気になれば何でもできるって言うけど。死ぬ気で呪えば、少しは効果があるかもしれないよぉ~」
わざとらしいたアニメ声がした。昔の合成甘味料のように、やりすぎなほど甘ったるく鼻にかかった感じ。何となくつるつるしたプラスチックを連想する。これに対して、栄太郎の声は古びたゴムのようなわずかに粘り気があった。
「呪いって効くのかな? って疑う時点で、ホントはダメなんだけどね」
さくさくと草を踏んで現れた少女は、声の印象を裏づけるように全身ピンク色で、乙女チックな格好をしたツインテールだ。量産型というやつか。
貼りつけた笑顔の彼女は航の同年代、と言うより同級生だ。
「……
「ぬ。知り合いか」
栄太郎がピクリと片眉を持ち上げた。彼女は小柄で幼い顔立ちなので、元々知った相手でなければ、小学生と間違えたかもしれない。
「霊感少女で有名だよ」自称、だが。「クラスでタロット占いとかよくやっているし。ぼく冴之木学園高等部なんだけれど、もしかして物集くんも?」
「うむ」
自称呪術師も同級生だったようだ。そして子野日崎
口が勝手にしゃべっているなあ、と他人事のように航は自分自身をながめている。
早く二人ともどっか行ってくれないかなと思っているのだが、そうもいかないようだ。話の流れで、航は二人に案内されるまま後へついていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます