井戸

キサン

 

 井戸が怖いんですよ。

 そうです、あの水を汲む井戸です。

 いい歳した大人が何を言ってるんだと思われるでしょうけど。

 トラウマ・・・・・、こういうのもトラウマって言うんでしょうか。

 子供の頃の経験が影響してまして。

 一寸聞いて欲しいんですよ、その話を。


 私、子供の頃京都に住んでいたんです。

 小学校4年生の時でした。

 と言っても市内じゃなくて、もっと南の方で。

 宇治って知ってますか? 平等院のある所です。

 その宇治から少し北に行ったところにある富栄町っていう所に住んでまして。

 今はもう、その町無いんですけどね。

 市町村合併で無くなっちゃいました。

 

 その頃親父の勤めている会社が、京都支社を作る事になって、親父が初期スタッフとして役付で出向する事になったんです。

 まあ単身赴任でも良かったんですが、親父の奴、まあ張り切っちゃって。

 支社が軌道に乗るまでは戻ってこない。何なら骨を埋める覚悟だ、なんて言い出すもんですからね、結局家族でついて行く事になりました。

 引っ越すのは嫌でしたね。やっぱり友達と離れるのが辛かった。

 でも昔はね、こういうパターンは多かったと思います。

 要するに家長の身の振り方で家族の運命が決まってしまうんですよ。


 その時社宅として入ったのは、新しい集合住宅でした。

 新しいから綺麗だし、駅からも学校からも近い、所謂好立地ってヤツでしてね。

 親父もお袋も直ぐに気に入りましたよ。

 

 学校には直ぐ馴染みました。

 私は人見知りするタイプでもなかったし、転校生が珍しかったのか、初日から沢山の同級生が矢継ぎ早に話しかけて来たりして。

 一月も経つ頃には友達の輪の中に入っていました。

 今みたいにゲームとか、そういったものは無い頃ですから、遊ぶと言ったら基本外遊びで、当時の私たちの遊び場所といえば、たまたま集合住宅近くにあった公民館横の児童公園と、その周辺の空地でした。


 そうした空地の一つは、元は大きな畑だったそうで使わなくなった農機具小屋が立ってました。

 小屋と言ってもかなり大きなもので、一寸した家ぐらいの大きさがあったと思います。大きな両開きの引戸がついてて、多分トラクターなんかも入れてたんじゃないですかね。

 当然中は空っぽで、鍵も掛かっていませんでした。自由に出入りできたんです。そこを友達連中と秘密基地にしていました。

 その小屋の中、隅の方にあったんです。井戸が。

 そこそこ、大きな井戸でした。


 空地の持ち主は駒田さんといいまして、親父とは仕事上の関係があるらしく、家へも時々来て親父と何か難しい話をしていました。

 辺りで一番の大地主だそうで、私たちの住んでいた集合住宅の土地も元は駒田さんの物だったそうです。

 気取ったところの無い気さくな人でしたよ。お金持ちには鼻持ちならないような人もいるんですが、駒田さんは違いましたね。

 子供好きだったんでしょう、私も色々と良くしてもらいました。

 近所の子供たちが自分の土地で遊んでいる事も、全く気にしていませんでしたし、元農機具小屋に入り込んでいる事も、怪我には気を付ける様にと気に掛けこそすれ、咎めるようなことはありませんでした。

 お子さんに恵まれなかったというのは後から親父に聞きました。加えて奥さんとの仲が余り良くなかった、というより目に見えて険悪だったそうで。結局駒田さんは私たち近所の子ども連中を可愛がる事で、寂しさを紛らわせていたのかもしれません。


 そんな駒田さんですが、一点だけ私たちに強く言っている事がありました。

 井戸の事です。

 元々は畑で使う水を汲むための物だったそうですが、当時はもう枯れていました。

 そんなに深いものじゃないが、落ちたら大変だ。だから井戸には近づかないように。駒田さんは事有る毎にそう言っていました。

 井戸には簡単な木の蓋が乗せてありましたが、子供でも動かせるような物でした。

 ただまあ、井戸には近づきませんでしたね。

 小屋の中の、そのまた井戸の中は暗くて、どのぐらいの深さがあるのかも良く分かりませんでしたし、特に面白いものでもないですしね。

 私も友達も、構いはしませんでしたよ。


 その日は土曜日で当時は学校が半日で終わりでした。

 家で昼ご飯を済ませると、例の空地に行く事にしました。

 特に誰とも約束なんかはしてませんでしたが、秘密基地で待ってたら誰か来るかもしれないと、そんな事を考えていたんです。

 空地に近づき、小屋が見えた時、直ぐ異常に気付きました。

 引戸が、開いてるんです。

 一応秘密基地って扱いでしたから、私たちは入口を開け放して離れるなんて事しませんよ。

 誰か来てるのだろうと思い小屋に近づいたんですが、中に入る寸前で足が止まりました。

 笑い声が聞こえたんです。男女の笑い声でした。

 更には話し声が聞こえました。

 男の声は知らないものでしたし、私たちのグループに女の子は居ませんでしたから、状況把握としてはそれで充分です。要するに「誰か知らないやつが入り込んでいる」というわけです。

 私は息を殺して小屋の中を覗きましたが、誰も居ません。声は確かにするのに。

 理由は直ぐに分かりました。

 井戸の蓋が外されている。

 そして声は井戸からするのです。

 更には井戸の縁、石組みの所から木製の梯子が覗いています。

 誰かが梯子を下ろし、井戸の中へと入っている?

 私は訝しく思いながら様子を確かめようと、足音を立てないように小屋の中に入り、井戸に近づきました。

 

 「ホントになんもねーな。」

 「だからそう言ったやん。」

 「誰や、あんな噂流したん。」

 「信じるのがアホなんやって。」


 そんな話が聞こえてきました。

 要約すると、この井戸に白骨死体が捨てられている、という噂が何処かで流れていたみたいで、この2人はそれを確認しに来たようです。

 更に聞き耳を立ててる内に、女性の方が誰だか分かってきました。

 隣に住んでる、友達のお姉さんだったんです。

 確か中学2、3年生で、とても綺麗な人でした。廊下で会った時なんかは明るく挨拶してくれて。

 近所の男子連中は挙って憧れてましたね。勿論私もその一人でした。


 女性が誰か分かった途端、私の中にふつふつと怒りのようなものが湧きました。

 憧れのお姉さんが、何処かの知らない男と井戸の中で親しそうに話している。

 今ならはっきり嫉妬してるって分かるんですが、当時の私には自分の中に沸き起こってきたこの「嫌な気持ち」が何なのか、良く分かりませんでした。

 私は兎に角気晴らししてやろうと、足音を立てないように井戸に近づきました。

 中の二人は楽し気に話してて、私に気付く素振りもありません。

 井戸の縁迄辿り着くとそおっと中を覗きました。暗く成ってよくは見えませんでしたが、人の頭がチラチラ動と動いていました。

 私はそこから突き出している梯子をゆっくり掴むと、思いっきり引っ張りながら戸口の方へ走ったんです。

 「うわっ!」とか「きゃっ!」とかいう声が響きました。

 梯子はガラガラと音を立て、何かにぶつかりながら井戸の外まで引っ張り出せました。私はそれをその場に投げ捨てると、一目散に道具小屋から逃げ出したんです。

 追いかけてくるかと時々後ろを振り返りましたが、何か叫び声は聞こえるものの、追いかけてくることはありませんでした。私はそのまま息を切らしながら走って、家まで帰りました。

 「ざまあみろ」なんて思ってましたね。

 それほど深くないって言うし、まあどうにかして出てくるだろう。

 そんな風に高を括っていました。

 そしてそのまま何事もなかったように夜まで過ごしていたんです。


 隣のおばさんが私たちの所を訪ねて来たのは、夜の9時近かったと思います。

 お袋が玄関先で対応していたんですが、漏れ聞こえてきた話に私はぎょっとしました。

 娘が帰らない。おばさんはそう言っていました。

 どうやら隣のお姉さんが夜になっても帰らず、何処にいるのか分からない。既にご近所には声を掛け、幾人かに辺りを探してもらっているとの事でした。

 しばらくしてリビングに居た父も出てきて暫くおばさんと話していましたが「俺も探すの手伝ってくる」と家を出ました。

 僕も行こうかと声を掛けましたが、子供は家に居ろとだけ言われて、自分の部屋に戻りました。

 けど、居ても立っても居られませんでした。


 「お姉さんが帰らないのは僕のせいだ。」

 「僕が梯子を引っこ抜いたから、お姉さんたちは井戸から出られないんだ。」


 私は後悔と恐怖で泣き出しそうになってました。

 助けに行かないといけない。そう思った私は玄関からこっそり靴を持ち出すと自室の窓から外へ出たんです。


 僕は例の空地を目指して走りました。

 今みたいにスマホにライトがあるわけでもないし、懐中電灯も持っていませんから真っ暗の中、兎に角急いで小屋へ行かなければと、最短距離を走って行きました。今思えばそんなところを大人に見つかりでもしようものならどんなに怒られるか。

 でもその時はそんな事、全く考えていませんでした。兎に角早く井戸へ行って、お姉さんを助けないと。それだけ考えてましたよ。

 夜に空地に来たのは初めてでした。辺りには街灯が殆ど無くて、真っ暗なんです。

 幸い月は出ていたので周囲の様子はかろうじて分かりました。

 小屋に近づいて、奇妙な事に気付きました。

 戸が、閉まっているんです。

 私が逃げた時、戸を閉める余裕などありませんでした。

 という事は、その後誰かとを閉めたという事になります。

 井戸の中の二人が出てきたのか? 友達か、誰か別の人が来たのか? だとしたら井戸の二人に気付いたかも?

 色々な考えが過りましたが、やはりそのまま帰るという訳には行きません。

 お姉さんが家に帰っていないのは事実なんです。それが私の行いで井戸に閉じ込められているかもしれない。確かめなきゃいけない。その思いが恐怖に勝っていました。

 私は引戸に手を掛け、一気に開きました。

 私は井戸がある方向を見やりましたが、当然中は真っ暗で井戸は見えません。

 

 その時です。

 聞こえたんです。

 井戸の方から。

 うめき声のようなものが。


 「ぅぅぅ・・・・・」


 女の人の、小さく、低いうめき声でした。

 やはりお姉さんが中に居る。私はそう考え「お姉さん」と声を掛けながら井戸の方へ一歩踏み出そうとしました。

 その瞬間


 「たすけて」


 確かにそう聞こえました。

 小さい声でしたが、確かにそう聞こえました。

 でも私は声を聴いた瞬間体が固まってしまい、その場から動く事が出来なくなってしまいました。

 聞こえてきた声は、お姉さんのものじゃなかったんです。


 「たすけて」


 もう一度聞こえました。

 やはり、お姉さんの声じゃない。

 地の底から聞こえるような、低い女の声。

 声の主がまともな状態ではない事は子供の私にも分かる、そんな声でした。

 頭の奥でジーンと痺れるような感じがして、全身に鳥肌が立ちました。

 なんだ? なにが起こってるんだ?

 お姉さんじゃない?

 井戸に誰かいる?

 井戸にいるのは誰なんだ?

 

 「たすけて」


 もう一度その声が聞こえた瞬間、私は小屋を飛び出しました。

 足元から物凄い速さで恐怖が這い登って来る。そんな感じに矢も楯もたまらず逃げ出したんです。怖くて怖くて、たまりませんでした。

 空地に来た時以上の速さで、私は家に駆け戻りました。

 自室の窓から出たことも忘れて、玄関先へ飛び込みました。

 扉が開かないと分かると、泣き叫びながら扉を叩き、何事かと出てきた母親に飛びついて号泣しました。

 驚いたお袋は咎めるのも忘れて私をあやしました。私はそのまま、泣き疲れて眠ってしまったんです。


 いや、井戸が怖くなったのはその時じゃないんです。

 確かに声を聞いた時は怖かったし、思い出すのも嫌なんですが、それはあくまでも「声を聞いた」という体験に対する恐怖であって、それは日とともに薄まって行きました。


 翌日、仕事に行こうとする親父を捕まえて、昨日どうなったのかを訪ねました。

 お姉さんともう一人の男は、公民館の物置で眠っている所を見つかったそうです。

 何でも私が梯子を抜いた後、暫くはパニック状態だったようですが、冷静になると井戸がそれほど深いわけはない事に気付いたんですね。

 男の肩にお姉さんが乗る形で何とか井戸から這い出ると、梯子を入れて男の方も無事出られた、という訳です。

 元々井戸に降りるための梯子を公民館の物置から持ち出していたので、ようやくそれを片付けた所で気が抜けたのか、二人して物置で眠ってしまった、というのが顛末でした。

 私はその話を聞いて心の底からホッとしました。

 まあお姉さんは随分叱られたようですが。

 結局梯子を引き抜いた犯人が私だという事は、最後までバレなかったんです。


 親父が仕事に出た後、私は空地に行こうと思いました。

 確かに昨日、声を聞いた。

 小屋の中、多分井戸の中からの声。

 あれは何だったのか? 恐怖は勿論残っていましたが、私はそれを確かめずにはいられなかったんです。

 流石に一人で行くのは怖かったので、隣の友達を誘いました。

 井戸の様子、見に行こうって。その友達も姉が井戸で何かしていて、親にすごく怒られたって事で気にはなっていたみたいです。その日の午後、二人で空地へ行ったんです。


 無かったんです、井戸が。


 井戸のあった辺りは、コンクリートで塞がれていました。

 縁の石組みも綺麗に取り除かれていて。

 私たちがポカンとしてると駒田さんがやってきました。

 井戸が無くなっているというと駒田さんは「埋めた」と。

 昨日の一件で、井戸を残しておいたのが拙かったと思い、早速土とコンクリートで埋めてしまったと。


 「怪我無かったから良かったものの、放っておくとまた何があるか分からんからね。」


 駒田さんはそう言っていました。

 昨日の声の事を聞こうか、一瞬だけ迷いました。

 でも、もしかしたらあれは恐怖のあまりのに私が作り出した妄想か、何らかの思い込みかもしれない。

 結局、私は声について話しませんでした。

 友達とその場を離れる際、もう一度井戸の辺りに目をやりました。

 まだ完全に乾いていないコンクリートを見ながら、何か微かに心に引っかかるものを感じたんです。

 今なら明確に「違和感」と呼ぶのですが、その時の私にはそこまで理解が及びませんでした。


 私が中学を卒業する頃、親父が東京へ戻る話が出ました。

 京都の支店は順調に業績を伸ばしており、功労者として本社に役付で迎えられることになったんです。これもまあ、栄転ですね。

 高校は東京の学校を受検しました。

 引っ越しの前日、両親と京都での思い出について喋っていたんですが、ふと駒田さんの話になったんです。


 「色々お世話になったなぁ。」

 「市議会議員になった時は、近所のみんなとお祝いしたわね。」

 「奥さんがいなくなったりして大変だったけど、よく頑張ったよねぇ。」


 それは初めて聞く話でした。

 

 「奥さん、いなくなったの?」

 「ああ、そうか。お前には話してなかったな。もう随分前だよ。お前が小学生の頃だ。まあ子供にする話でも無いしな。」

 「仲が悪いってのは、何となく聞いてたけど。」

 「うん・・・・、いや実はな、駒田さんの奥さん。元々余り素行の良くない人でな。駒田さんとも良く揉めてたんだけど、とうとう男作って逃げちゃったらしい。」

 「そうなんだ・・・・・。」

 「いや~、突然姿を見なくなったからなぁ。おかしいとは思ってたんだけど。」


 突然、見なくなった。

 その時、私は何故か井戸の事を思い出していました。

 井戸から聞こえる、女の声。

 そして翌日感じた「違和感」。


 夜に行方不明騒ぎがあり、翌日午後には井戸が埋められていた。


 井戸を埋めるって、そんなに簡単に出来るものなのか?

 直ぐに埋めようと思い立っても、土やコンクリートを準備しなくちゃいけない。

 夜中に調達する事は出来ないから、翌日店が開いてから資材を購入して、道具なんかも準備して、作業して・・・・・

 幾ら何でも早過ぎないか?

 もしかしてもっと以前から井戸を埋める準備をしていたのでは?

 井戸から聞こえた女の声、あれは誰の声だったんだ?

 駒田さんは、何故今になって井戸を埋める気になったんだ?


 私の頭の中に、あの井戸が浮かびました。

 小屋の中は暗かった。

 実際私は井戸を見て無いんです。

 でも、頭の中では見えるんです。

 闇の中にポツンと、井戸がある。

 井戸の中には女が居る。

 か細い声で、助けを呼んでいる。

 その傍らに居るのは・・・・


 後の会話は、良く覚えていません。


 その時から、私は井戸が怖くなったんです。

 井戸を見ると、あの夜の事を思い出すから。

 あの声を。

 思い出すんですよ、見なかったはずの女や、見なかったはずの・・・・・


 なぜこんな話をしたかって? 見たからですよ、あの辺りに、大きな学校が建設されるってニュースを。

 建設予定地にはあの井戸のあった空地も含まれています。

 だから、工事が始まったら何か出てくると思うんですよ。

 駒田さんは3年前に病気で亡くなってます。

 もうね、何が出てきても良い、そう思うんです。


 ・・・・・何か、出てきますかね。

 何か出てきて、あの夜の事がはっきりすれば、私の「井戸恐怖症」も治るんでしょうか。

 それとも、何も出てこないんでしょうかね。

 

 

 

 

 

 


 

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井戸 キサン @morinohakase

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