第5話:伝説の鍋と、進化する粥
「……この鍋が、“お前の身体”となる」
月明かりの下、山のふもとにある苔むした庵で、料理仙人クルトはそう言った。
背中に背負っていた巨大な鉄鍋を静かに下ろすと、そこには見たこともない刻印がびっしりと彫り込まれていた。
漢字に似ているが、微妙に異なる文様。見ただけで魔力がこもっているとわかる。
「……あのさ、まず確認させてくれ。俺、粥だから口も手もねえわけで、どうやって修行すんの?」
「喋る粥なら、感じる力はあるはずだ。鍋の熱、出汁の流れ、魔力の込め方。すべて感覚で覚えろ」
「完全に体育会系やんけ……」
「文句を言う粥は初めてだ」
「まあ、そうだろうな」
そう言いながら、拓海は鍋の中へと移された。
それまでの白磁の器ではなく、重厚な鉄鍋。
その中は確かに重く、熱く、息が詰まりそうなほど“濃密な何か”が漂っていた。
「……これ、なんだ?」
「鍋霊。歴代の料理人の意志が染み込んでいる。凡百の食材なら一瞬で灰になるぞ」
「そこにお粥ぶち込むのおかしいだろ……」
「だから鍛えるのだ。お前は癒しの粥。“霧”を打ち払う粥となるには、鍋の意思すらも取り込めるだけの存在にならねばならん」
そう言ってクルトは、鍋の下に火を点けた。
炎は魔力によって青く揺れ、異様なほど静かに、だが確実に拓海を熱していく。
「――ぬおぉぉぉ、あっつぅぅぅ!!」
「耐えろ。これは“煮る”修行だ。お前は粥なのだ。煮えなければ、始まらん」
「言い方もうちょっとなんとかなんなかったの!? せめて『磨く』とか『練る』とかあったやろがぁぁぁ!!」
鍋の中でぐつぐつと波打ちながら、拓海はひたすら自分を煮詰められていった。
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それから数日。
山の中の庵で、拓海は鍋の試練を受け続けた。
具材との調和、出汁との融合、魔力を練り込む流れ――
どれも、人間だった頃には想像もつかない修行だった。
だが、粥となった今の身体は、五感ではない別の感覚でそれを吸収していった。
「ほぉ……ようやく“味”に芯が出てきたな」
クルトは、匙を一すくいして味見した。
「前はただの白粥だったが、今のお前は……ほんの少し、芯に香りがある」
「香り……?」
「誰かの記憶に残るような、感情の余韻だ。癒しの粥とは、味ではなく想いを宿すもの。病を癒すのではない。病を抱える人間を、まるごと包む粥になるのだ」
「想いを……包む粥……」
「お前が誰かを救いたいと本気で願ったとき、その想いが温度になり、香りになり、そして力になる」
拓海はその言葉を、鍋の中で噛みしめた。
粥であることに絶望していた自分。
喋れることに戸惑い、食べられることに怯えていた日々。
でも、あの王女――リシェリアに「ありがとう」と言われて、ようやく自分に意味があると信じられた。
「クルト……俺、やっぱり戻るよ。リシェリアを……救いたい」
「わかっていた。お前の香りは、すでに誰かのために温められていたからな」
クルトは小さく笑い、肩からもう一つの鍋を下ろした。
「これは持ち運び鍋。一時的に姿を移せる旅用の器だ。王都に戻れ。だが気をつけろ――“霧”はもう、ただの病ではない。意志を持ち始めている」
「……黒粥か」
「その名を知っているか」
「ああ。気配だけは、感じたことがある。あれは俺の“もう一つの可能性”だって……直感がそう言ってる」
「ならばこそ、行け。お前が“白粥”であるうちに、救わねばならぬものがある」
静かに夜が明けた。
鍋の中の拓海は、湯気とともに小さく微笑んだ。
リシェリアが待っている。
まだ自分にできることがある――その想いだけが、身体を温めていた。
「王女様……もう、誰にも君を泣かせない。食べられることすら、怖がらない。
――俺は、誰かを救う粥になるんだ」
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