第4話:魂を蝕む霧と、白き器の決意

 夜が静かに更けていた。

 王都アルセインの王城は、深い闇に包まれ、鈍く金の装飾だけが月明かりを受けて光っていた。


 だが、その外壁のすぐ近く――

 誰にも見えない場所で、“それ”は静かに滲み出していた。


 黒い霧。

 音もなく、匂いもなく、ただじわじわと空間を侵食していく何か。


 それは、確かに生きていた。


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「……また、夢を見たの」


 朝の粥を少しだけ口に運んだ後、リシェリアは静かに言った。

 その顔はどこか青白く、瞳の奥に不安の色がにじんでいる。


「昨日と同じ夢?」


「ううん、違う。昨日はあなたが笑っていた。でも、今日は……黒い霧の中で、私が泣いてた。誰もいない部屋で、誰にも気づかれず、泣きながら誰かを呼んでたの」


 拓海は器の中でふるりと震えた。

 その夢は――おそらくただの夢ではない。


「リシェリア。君の病、もしかして、ただの病気じゃないんじゃないか?」


「え?」


「なにか、もっと別の……たとえば、魔法的な何かに取り憑かれてるような」


 リシェリアはわずかに首を傾げたが、否定はしなかった。


「……昔から言われていたの。“魂の霧病”は、医学では治らない。原因も、治療法も、誰にもわからないって」


「でも、俺を食べたら回復するようになった」


「うん。あなたを口にするたび、頭の中の霧が晴れる。……それって、あなたの中に、何か癒す力があるってことよね?」


 拓海はしばし沈黙した。


 “喋るお粥”という存在。

 それは、ただ奇妙なだけの存在じゃない。

 誰かを癒す力があって、誰かの夢に触れる力があって……

 たぶんそれは、この世界の何かに対抗するために与えられたものなんじゃないか――


「……もし、俺が君の病を癒せるなら。いや、君だけじゃなくて……この世界の“霧”そのものを晴らせるなら……」


 拓海は、器の中から声を絞り出すように続けた。


「……俺、自分が粥でも……生きてる意味があるのかもしれない」


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 その夜、事件が起きた。


 リシェリアが急に高熱を出し、寝室の空気が異様に重くなる。

 メイドたちが慌てふためき、侍医たちが駆けつけても、何の治療も通用しなかった。


 部屋の中には、目に見えない“黒い気配”が漂っていた。


 拓海はすぐに気づいた。


「……いる、ここに。“霧病”の正体が……」


 見えない。けれど粥としての感覚でわかる。

 部屋の空気の一部が異常に重い。体温を奪う冷気のような感覚。

 それはまるで、呼吸を奪うように王女の命を蝕んでいた。


「おい……頼む、やめろ。彼女は関係ないだろ!どっか行け!」


 だが声は届かない。


 拓海は自分が無力であることに、強烈な無力感を覚えた。

 器の中でしか存在できず、手も足もない、ただの粥。

 どうやって、彼女を守れというのか――


 そのときだった。


「お前、随分と騒がしい粥だな」


 静かな、男の声が部屋に響いた。

 けれど、誰にも聞こえていない。声が届いたのは――拓海だけだった。


 声の主は、窓の外。

 そこに立っていたのは、一人の男だった。


 痩せた体、白髪に近い銀の髪、背中に大きな鉄鍋を背負った、奇妙な男。


「……誰だよ、お前」


「名はクルト。料理仙人と呼ばれたこともある」


「料理……仙人……?」


「癒しの粥には、“霧”を打ち払う力がある。だが、それは訓練なしでは使えん。お前……来るか? 真に、誰かを救える粥になりたいのなら」


 拓海は答えられなかった。

 だが――その心は、すでに決まっていた。


 王女を救うため。

 この世界の“霧”を晴らすため。

 自分の存在に、意味を与えるため――


「……行く。教えてくれ、クルト。俺を、もっと強い粥にしてくれ」


 その夜、拓海の決意は固まった。

 器の中の命が、世界を変える第一歩を踏み出した瞬間だった。

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