第6話:王都を包む黒き霧と、帰還の一匙

 王都アルセインの空が、異変に気づいたのは、ほんの数日前のことだった。


 澄んでいた空気に、重く、冷たい何かが混ざり始めた。

 人々は咳をし、眠れなくなり、ついには微睡みながら夢の中で声を聞くようになった。


「おまえも、喰われるのだ」


 そう――それは“病”ではなく、“侵食”だった。


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 鍋の中の粥が、門前で停止した。


 王都の正門。そこに漂う空気は、以前とはまるで違っていた。


「……戻ってきたけど、これは……ひでぇな」


 旅用の持ち運び鍋に収まった拓海は、感覚の底で敵意を感じていた。

 それはまるで、粘ついた粥が骨に絡みつくような、不快な魔力の圧力。


「お前も、感じておるだろう」


 声をかけてきたのは、鍋の外で待っていたクルトだった。

 料理仙人の目は、霧の彼方を見つめていた。


「“霧”はもう病ではない。これは“意志”だ。喰われる側ではなく、喰うことを選んだ存在」


「……黒粥か」


 クルトは頷いた。


「ヤツは、かつて“失敗作”とされた癒しの粥だ。……人の苦しみを吸い込みすぎて、自己を喪失し、苦しみそのものになってしまった」


「……じゃあ、俺だって……同じようになってたかもしれないのか?」


「そうだ。だが、お前は誰かに食べられることを選んだ。恐れても、抗わず、受け入れた。――だからこそ、お前には“癒し”が宿った」


 拓海は静かに鍋の底で、熱を込めた。

 温度ではなく、決意という名の熱。

 守りたい人がいる。そのために、自分が存在している。


「王女は?」


「城の奥。黒粥は、彼女を核にしようとしている」


「核? どういう意味だ?」


「魂の傷が深い者ほど、黒粥の媒介となりやすい。彼女の霧病は、幼い頃からの絶望の名残だ。黒粥は、そこに巣を作った」


「そんな……」


「救えるのは、同じ粥――つまりお前だけだ」


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 王城に侵入した拓海とクルトがたどり着いたのは、かつて王女が粥を口にしていた寝室だった。


 だがそこは、もはや霧の巣と化していた。


 空間そのものが歪み、壁や天井に、どろどろとした黒い粥が絡みついている。

 中心には、リシェリアが横たわっていた。


「リシェリア……!」


 声は届かなかった。

 彼女の瞳は閉じられ、呼吸も浅い。

 身体を包む布団の上に、黒い粥が静かに覆いかぶさっていた。


「く……来るな、来るな、来るなぁ……!」


 拓海の中で、本能が悲鳴を上げる。


 それは、確かに“自分と同じ匂い”がした。

 同じ場所から来た、もう一つの“存在”。


 ――黒粥。


 それは粥の形を保っていながらも、人の顔を模したような泡が浮かび上がり、ニタリと笑った。


「キミも、こっちに来るんだよ。……癒して、癒して、癒しすぎて……壊れてしまえば、楽になれる」


「ふざけんな……俺は、誰かを食う粥じゃない!」


 拓海の身体――いや、鍋が、静かに震え始めた。


「俺は……食べられることで、誰かを救いたい。それが怖くても、俺は逃げない。

……俺は、白粥だ!」


 その瞬間、拓海の体が、白く、柔らかい光を放った。


 それは火ではない。魔法でもない。

 “人を癒したい”という、ただ一つの想いが、鍋を超えて空間を照らした。


 クルトが息を飲む。


「――来たか。真粥の輝き……!」


 拓海は、鍋の中からすべての力を込めて、自らをすくいあげる。


 彼が選んだのは、自分を食べさせること。


「リシェリア……お願いだ。このひと匙で、もう一度、立ち上がってくれ」


 彼女の唇に、拓海が自らを運ぶ。

 眠ったままの王女の口元が、ふるりと動いた。


 ――ひとくち。


 その瞬間、黒粥が断末魔のように叫びを上げた。


「やめろッ……! オレを……否定するなあああああああッ!!!」


 だが、その叫びはかき消された。


 白い光が、霧を焼き、空間を清めていく。


 拓海の意志が、王女の心を癒し、世界に温度を戻した。


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 朝。

 リシェリアは目を開けた。


「……拓海、さん……?」


 彼女の手の中に、銀のスプーンが残っていた。

 その上には、かすかに湯気が漂っていた。


 そして、拓海の声が、どこかから優しく響いた。


「おかえり、王女様」

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