第6話。凪いだ水面の小石

第六話 凪いだ水面の小石


あの嵐のような夜から、季節がひとつ、音もなく移ろいでいた。退院したミカの部屋は、以前の雑然とした面影はなく、まるでモデルルームのように無機質に整えられていた。菜々美が甲斐甲斐しく片付けたからだ。だが、その過剰なまでの清潔さは、かえってミカの不在を際立たせているようで、菜々美の胸を微かに締め付けた。ミカは、窓辺の椅子に座り、ただぼんやりと色づき始めた街路樹を眺めている。その横顔は硝子細工のように儚く、触れればすぐにでも砕けてしまいそうだった。


「……何か、飲む?」


菜々美の声は、静寂に吸い込まれるように小さく響いた。ミカは、ゆっくりとこちらを振り向く。その瞳は、以前のような底なしの闇ではなく、凪いだ水面のように静かだった。けれど、その水底には何が沈んでいるのか、菜々美にはまだ見通せない。


「……うん。ありがとう」


ミカの返事は、か細く、けれど拒絶の色はなかった。キッチンで湯を沸かす音だけが、ぎこちない二人の間に流れる。菜々美は、ミカの好物だったはずのハーブティーを淹れながら、無意識にミカの左手首に目をやった。そこには、もう包帯はない。薄い皮膚の下に、赤紫色の線が痛々しく刻まれている。それを見るたび、菜々美の喉の奥が詰まるような感覚に襲われた。それは、罪悪感なのか、それとも言いようのない哀しみなのか、判然としなかった。


食卓に並んだ質素な夕食。ミカは、以前のように食事を残すことはなくなった。ただ、一口一口を、何かを確かめるようにゆっくりと咀嚼する。その姿は、まるで初めて食べ物の味を知った小動物のようでもあった。


「……この前の、あれ、ごめん」


不意に、ミカが呟いた。視線は俯いたままだ。菜々美は、箸を置いた。


「……どれのこと?」

「……菜々美に、ひどいこと、言った……正直に、って言われたからって、甘えて……」


声が震えている。菜々美は、あの病室での出来事を思い出していた。ミカが吐き出した、菜々美への不満や、過去の些細な出来事への恨み言。それは、確かに菜々美の胸を抉った。けれど、それ以上に、ミカが初めて見せた「ただの弱い人間」としての姿に、どこか安堵にも似た感情を抱いたことも事実だった。


「……いいよ。私も、ミカに散々ひどいことしてきたし」

菜々美は、努めて明るい声で言った。ミカが顔を上げる。その瞳が、わずかに揺れた。


「でも……本当は、感謝してる。菜々美がいなかったら、私……」

そこまで言って、ミカは言葉を飲み込んだ。その先にある言葉を、菜々美は聞きたくなかったし、ミカもまた、それを声にすることを躊躇っているようだった。二人の間に、また沈黙が落ちる。それは、以前のような息苦しいものではなく、どこか慈しむような、静かな時間だった。


ある晴れた午後、菜々美はミカを散歩に誘った。あの日以来、ミカが自ら外に出ることはほとんどなかった。最初は戸惑っていたミカも、菜々美の穏やかな説得に、おずおずと頷いた。


並んで歩く公園の小道。落ち葉が、カサカサと乾いた音を立てる。ミカは、時折、空を見上げたり、足元の石ころを蹴ったりした。その仕草は、まるで幼い子供のようだ。菜々美は、そんなミカの横顔を盗み見ながら、胸の奥で小さな温もりを感じていた。


不意に、ミカが立ち止まった。視線の先には、古びたアパートがあった。その二階の一室を、ミカは食い入るように見つめている。菜々美はそのアパートに見覚えがなかったが、ミカの表情がみるみるうちに強張っていくのを見て、嫌な予感がした。


「ミカ……?」

ミカの呼吸が浅くなっている。肩が小刻みに震え、その瞳には、再びあの昏い影が差し始めていた。


「……あの部屋……昔……」

途切れ途切れの言葉。菜々美は、ミカの腕を掴んだ。冷たい汗が滲んでいる。


「大丈夫。大丈夫だから」

菜々美は、ミカの背中をさすりながら、何度も繰り返した。何が「大丈夫」なのか、自分でも分からなかった。ただ、そう言うしかなかった。ミカは、菜々美の腕にしがみつくようにして、しばらくの間、動けなかった。


その夜、ミカは珍しく、あの「小説」のことを口にした。

「……あれ、どうしようかな」

ベッドの縁に腰掛け、膝を抱えたまま、ミカは虚空を見つめていた。


「……書き直したいの?」

菜々美が尋ねると、ミカはゆっくりと首を横に振った。

「ううん……もう、あれは、いい……。でも……何か、書きたい、とは思う……。もっと、違う……」

その声には、ほんの僅かだが、意思の光が灯っているように聞こえた。菜々美は、黙って頷いた。


数日後、菜々美が仕事から帰ると、ミカの部屋の机の上に、新しいノートと数本のペンが置かれていた。ノートはまだ真っ白だったが、その傍らには、くしゃくしゃに丸められた紙屑がいくつか転がっている。ミカは、ベッドで静かに眠っていた。その寝顔は、以前よりも少しだけ穏やかに見えた。


菜々美は、そっとその紙屑の一つを拾い上げてみた。そこには、いくつかの単語が、迷うような筆跡で書かれては消され、また書かれていた。

「光」「風」「水面」「朝」

どれも、ミカの以前の小説にはなかった、明るさを感じさせる言葉だった。


しかし、平穏な日々は、まるで薄氷の上を歩くような危うさを伴っていた。ある夕暮れ時、いつものように二人で夕食の準備をしていると、テレビのニュースから、聞き覚えのある地名と事件の概要が流れてきた。それは、ミカが過去に深く傷ついた出来事と酷似していた。


瞬間、ミカの手から野菜が滑り落ちた。顔面から血の気が引き、その場に凍りついたように立ち尽くす。菜々美が声をかけるよりも早く、ミカは「ごめんなさい」とだけ呟くと、自室に駆け込んで鍵を掛けてしまった。


ドア越しに、ミカの荒い息遣いと、何かを必死に堪えるような嗚咽が聞こえてくる。菜々美は、ドアノブに手をかけたまま、動けなかった。あの夜の悪夢が、脳裏をよぎる。しかし、今度はサイレンの音は聞こえない。菜々美は、深く息を吸い込んだ。


「ミカ……大丈夫。そばにいるから」


震える声で、そう呼びかける。返事はない。それでも、菜々美は何度も、何度も、同じ言葉を繰り返した。それは、ミカに言い聞かせているようで、実は自分自身に言い聞かせているのかもしれなかった。


どれくらいの時間が経っただろうか。ドアの向こうの嗚咽が、次第に小さくなっていく。やがて、鍵の開く音がした。ゆっくりと開いたドアの隙間から、憔悴しきったミカが顔を覗かせた。その瞳は赤く腫れ、けれど、あの時のように光を失ってはいなかった。


「……ごめん」

ミカは、そう言って、菜々美の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。菜々美は、ただ黙って、その震える背中を抱きしめた。ミカの体は、小鳥のように小さく、頼りなかった。


これが、終わりではない。きっと、これからも何度も、こんな風にミカの心は揺れ動くのだろう。そして、そのたびに、菜々美もまた、共に揺れ動くのだ。それは、決して楽な道ではない。もしかしたら、いつか、この脆い絆がぷつりと切れてしまう日が来るのかもしれない。


それでも。


夕焼けが、部屋を茜色に染めていた。窓の外には、どこまでも続く、静かで、広大な空が広がっている。ミカは、泣き疲れて眠ってしまった。その寝顔を見つめながら、菜々美は、そっとミカの手を握った。まだ少し冷たいけれど、確かな温もりがそこにはあった。


「……バカね、私たち」


菜々美は、誰に言うともなく呟いた。その声は、不思議なほど穏やかだった。


二人の影が、静かに床に伸びている。その先にあるのが、夜明けなのか、それとも終わりのない黄昏なのか、まだ誰にも分からない。ただ、今は、この不器用な「バカ」と「バカ」が、こうして共にいる。それだけが、確かなことだった。


【第六話 了】

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誰かが私を殺してくれるまで 志乃原七海 @09093495732p

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