第5話:バカとバカ
第五話 バカとバカ
耳をつんざくサイレンの残響が、まだ鼓膜の奥で不協和音を奏でている。菜々美は、白いシーツに包まれたミカの体がストレッチャーで運び出されていくのを、まるでスローモーション映像でも見るかのように見送った。視界の端で、バスルームの床に飛び散ったおびただしい赤黒い染みが、照明に濡れて鈍く光っている。虚ろ、という言葉では足りないほどに光を失ったミカの瞳。そして、途切れ途切れに紡がれた言葉。「これで……やっと……菜々美も……私のこと……本気で……見てくれる……?」その声は、耳から入ったというより、直接脳髄に焼き付けられたかのようだった。冷たい刃が、今も菜々美の胸の奥を抉り続けている。
駆けつけた制服の肩章がやけに大きく見えた。事情聴取。言葉は知っていても、自分がその対象になる日が来るなど想像もしていなかった。震える指先は冷え切って感覚がなく、声は喉の奥で氷塊になったかのように上手く出てこない。ミカとのいびつな関係、積み重なった口論の棘、そして、今朝方から胸の内に巣食っていた虫の知らせのような不吉な予感。絞り出すように語り終えた頃、窓の外がしらじらと夜の色を薄めていた。まるで、この悪夢のような一夜を洗い流そうとするかのように。
ミカは、辛うじて命の糸を繋ぎ止めた。だが、魂は深い淵に沈んだまま、浮上には時間がかかるだろうと、医師は静かに告げた。ミカの両親の、憔悴しきった顔、そして声にならない非難の色を宿した瞳に、菜々美はただ深く、深く頭を下げることしかできなかった。アスファルトを叩いていた雨はいつの間にか止んでいたが、菜々美の心象風景は、未だ激しい豪雨に見舞われ、視界すらままならない。
(私のせいだ……私が、ミカをあんな風にしたんだ……)
罪悪感という名の冷たい鉄塊が、胃の腑に落ち、菜々美の呼吸を浅くする。ミカの最後の言葉は、呪詛のように菜々美の思考に絡みつき、逃れようともがくほどに強く締め付けてくる。眠ろうと目を閉じれば、あの赤い飛沫とミカの瞳が瞼の裏に鮮明に浮かび上がり、菜々美を責め立てるのだった。
数日というにはあまりに長く感じられた時間が過ぎた。菜々美は、乾いた唇を噛み締め、ミカが入院しているという病院の自動ドアをくぐった。面会謝絶を覚悟していたが、ナースステーションで名前を告げると、看護師は意外なほどあっさりと病室へと案内してくれた。その無機質な優しさが、かえって菜々美の胸を締め付けた。
個室のドアをノックする音は、やけに大きく響いた。ベッドの上、ミカは窓の外に広がる灰色の空を、焦点の合わない瞳でただ見つめていた。白い包帯が痛々しく巻かれた手首が、シーツの上に力なく投げ出されている。菜々美が入ってきた物音に、ミカの細い首が、ぎこちない人形のようにゆっくりとこちらを向いた。その顔色は、シーツと見紛うほどに蒼白だったが、以前のような、全てを拒絶する昏い虚無感は薄らいでいるように見えた。代わりに、深い諦念と、その奥にかすかな、ほんのかすかな期待のようなものが混じり合った、読み解くことの難しい光が揺らめいていた。
「……菜々美」掠れた、囁くような声。
「ミカ……体、平気なの?」
月並みな言葉しか出てこない自分が歯がゆい。ミカは、こくりと小さく、ほとんど分からないほどに頷いた。
「うん……。死ね、なかった」
その言葉が、静寂を切り裂くガラスの破片のように菜々美の鼓膜を刺した。瞬間、菜々美の中で何かが硬質な音を立てて砕け散った。それは、マグマのように煮えたぎる怒りなのか、胸を掻きむしられるような悲しみなのか、それとも、安堵という名の微かな光なのか。判然としない感情の濁流が、菜々美の全身を駆け巡った。
「……そう。……良かった」絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
「良かった……の?」
ミカが、その大きな瞳をわずかに見開き、怪訝そうに菜々美を見返してきた。その純粋な問いかけのような視線が、菜々美の中で辛うじて保たれていた理性のタガを、あっけなく弾き飛ばした。
「当たり前でしょ!! あんたが死んで、私が! 私が喜ぶとでも思ったのっ!?」
自分でも制御できないほどの声量だった。ミカの肩が、びくりと跳ねる。
「バカッ!!」
菜々美は、もはや叫んでいた。理性の壁が決壊し、濁流となった感情が、言葉という形を借りて噴出する。
「本当に、大っバカよ、あんたはッ! 何で……! 何でこんなことになるまで、たった一人で抱え込んでるのよ! 何で、もっと早く、ちゃんと言えなかったの!? 馬鹿みたいに意地張ってないで、カッコ悪くたっていいから、助けてって、苦しいって、何で言えなかったのよっ!!」
「え……?」
ミカは、鳩が豆鉄砲を食ったように、ただ呆然と菜々美を見つめている。その表情が、火に油を注ぐように菜々美の感情をさらに激しく燃え上がらせた。
「分かんないの!? 私たちが、どれだけ……! どれだけあんたのこと心配してたか! いや、心配なんて、そんな生易しい言葉で片付けられるわけないじゃない! あんたのせいで、こっちはどれだけ振り回されて、どれだけ神経すり減らして、どれだけ嫌な思いして……! それでも……それでもっ! あんたのこと、見捨てるなんてこと、できるわけなかったんだよ!!」
熱いものが、堰を切ったように頬を伝い始めた。視界が滲んで、ミカの顔が歪んで見える。もう、何を言っているのか、論理的な思考などどこかへ吹き飛んでしまっていた。ただ、心の奥底、ずっと澱のように溜まっていた黒い感情の塊が、悲鳴に近い言葉となって、とめどなく溢れ出してくる。
「私たち、友達でしょう!? 友達なら、もっと頼りなさいよ、バカ! かっこ悪いところも、みっともない失敗も、ドロドロした汚い感情も、全部! 全部見せなさいよ! こんな……こんな救いようのない馬鹿な真似する前に、もっと早く、私にぶつけてくればよかったじゃないの!!」
菜々美の絶叫にも似た言葉に、ミカの瞳が激しく揺れ動いた。戸惑い、驚愕、そしてその奥に、まるで暗闇の中で初めて見つけた一筋の光のような、微かな、しかし確かな希望の色が灯ったように見えた。
「な、菜々美……?」
「バカ! バカ! バカ!! あんたも、どうしようもない大バカなら、そんなあんたにいつまでも振り回されてる私も、救いようのないバカよ! 大体、何なのよ、あの意味不明な小説は! あんなもの書いたって、誰も、あんたの本当の苦しみなんか理解できるわけないじゃない! もっと、あんた自身の言葉で、不器用でもいいから、正直になりなさいよっ!! この、大バカ!!」
言葉は刃のように鋭く、支離滅裂で、感情のままに吐き出されていた。それでも、それは紛れもなく菜々美の魂からの叫びだった。ミカの常軌を逸した行動に心底うんざりし、何度も突き放そうと考えた。でも、心の奥の奥、一番柔らかい場所で、ずっとミカのことを案じていたのだ。昔の、まだこんな風に心が歪んでしまう前の、ただ少し不器用で、寂しがり屋だった、あの頃のミカのことを。
ミカの大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと、抑えきれない涙の雫がこぼれ落ち始めた。それは、これまでのような自己憐憫や、誰かの気を引くための計算された涙とは明らかに違う、もっとずっと純粋で、痛々しいほどに無防備な感情の発露のように、菜々美の目には映った。
「ごめ……なさ……」
途切れ途切れに、嗚咽に混じって、ミカのか細い謝罪の言葉が紡がれる。
「謝ってほしいんじゃない! 分かってほしいの! あんたが、どれだけ周りの人間をめちゃくちゃにしてるか! そして、それでも……! それでも、あんたを見捨てられない、どうしようもないバカな友達が、ここにいるってことを、分かってほしいのよ!!」
菜々美は、ミカのベッドの脇に崩れるようにへたり込み、もう声を上げる気力もなく、ただ子供のようにしゃくりあげて泣いた。ミカもまた、顔を覆い、声を殺すこともせず、ただひたすらに泣いていた。シンと静まり返った病室に、二人の、不器用で、みっともなくて、しかし一点の曇りもない、魂のぶつかり合う音だけが響き渡っていた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。泣き疲れた二人は、ようやく少しだけ、嵐が過ぎ去った後のような静けさを取り戻していた。菜々美は、赤く腫れぼったい目で、それでもまっすぐにミカを見つめた。
「……もう、二度とこんな馬鹿なことしないで。約束、できる?」
ミカは、しゃくりあげながらも、濡れた睫毛を震わせ、それでもはっきりと、こくりと頷いた。
「うん……約束、する……」
その言葉に、どれだけの確かな重みがあるのか、今の菜々美には判断できなかった。また裏切られるかもしれないという恐怖が、心の片隅で鎌首をもたげる。でも、今は、この震える声で紡がれた約束を、信じるしかなかった。信じたかった。
「……正直に、なりなさいよ。どんなにかっこ悪くたっていいから。私だって、完璧な、出来た友達なんかじゃないんだから」
「……うん」
菜々美は、そっとミカの、包帯の巻かれていない方の手を握った。その手は、まだ少し頼りなく冷たかったけれど、以前のような、触れることすら拒むような硬質な冷たさではなかった。微かに、本当に微かに、握り返すような温もりが伝わってきた気がした。
これが、新しい関係の始まりになるのか、それともまた、繰り返される悪夢のほんの幕間に過ぎないのか。それは、神様だって分からないだろう。
ただ、今は、この不器用で、どうしようもない「バカ」と「バカ」が、ほんの少しだけ、お互いの剥き出しの心で向き合えたこと。それだけが、唯一確かなことだった。
窓から差し込む夕陽が、病室を茜色に染め上げていた。床に伸びた二人の影は、まるで互いを慰め合うかのように、静かに、そして長く寄り添っていた。
【第五話 了】
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