第2話「……菜々美? 聞こえる……?」



第二話 沈黙の代償


ミカとの電話を一方的に切った後、菜々美はしばらく呆然とスマートフォンを見つめていた。ディスプレイに映る自分の顔は、怒りよりも深い疲労に彩られている。「もう、あんたには関わらない」。そう宣言した舌の根も乾かぬうちに、心のどこかで、本当にこれで良かったのかという微細な棘が、ちくりと存在を主張し続けていた。まるで、あの時ミカの小説のコメント欄で見た、悪意に満ちた文字列のように。


翌日から数日間、菜々美は意識的にミカという存在を思考の片隅に追いやった。大学の講義に没頭し、友人との当たり障りのない会話に安堵し、ルーティンと化したアルバイトに精神を預ける。SNSはミカのアカウントをミュートし、意図的に彼女の「ノイズ」を遮断した。世界は驚くほど静かで、しかし、その静寂はどこか薄っぺらく、微かな虚無感を伴っていた。まるで、嵐の前の不気味な静けさのように。


その薄氷のような平穏は、三日後の深夜、唐突に破られた。けたたましく鳴り響く着信音。ディスプレイに表示されたのは、登録のない番号。警戒心が頭をもたげるが、無視できない何かを感じ、菜々美はこわごわと通話ボタンをタップした。


「……な、なみ……? 聞こ、える……?」


ミカだった。だが、その声はいつもの芝居がかった響きではなく、ひどく掠れ、息も絶え絶えで、まるで溺れる者が最後に掴む藁のような切迫感を帯びていた。


「ミカ……? どうしたの、その声。それに、この番号……まさか、また何か……」

「もう……だめ……疲れた……。あの小説……みんな、私を……化け物みたいに……寄ってたかって……!」


言葉の端々から、ミカが尋常ではない精神状態に追い詰められていることが痛いほど伝わってくる。例の『私の両親を合法的に消し去る方法』は、案の定ネット上で凄まじい勢いで炎上し、ミカの個人情報とされるデータが、悪意ある考察と共に拡散されていた。菜々美も、その凄惨な状況を、ミュートしたタイムラインの隙間から断片的に把握はしていた。


「自業自得でしょう。あんなものを書けば、こうなることくらい、あなたなら分かっていたはずよ」

菜々美は、努めて冷淡に言い放とうとした。しかし、ミカの次の言葉が、彼女の喉を凍りつかせた。


「だから……もう、本当に……終わりにしようと思うの……。今度こそ……本気で……菜々美、ごめんね……」


まただ。また、あの常套句。反射的に、うんざりとした感情と、第一話での激しい怒りが蘇る。だが、ミカの声の調子は、これまでのどの「パフォーマンス」とも明らかに異なっていた。まるで、魂が抜け殻になったかのような、底なしの虚無。そして、最後に添えられた「ごめんね」という言葉の、不気味なほどの静けさ。


「……X駅の、使われてない屋上……。誰も、来ないから……。午前0時……。もう、誰にも迷惑、かけない……」

「待って、ミカ! 何を言ってるの!? 馬鹿なことしないで!」


菜々美が叫ぶのと同時に、電話は一方的に切断された。ツーツーという無機質な電子音が、心臓の鼓動と重なって、不快なリズムを刻む。


(嘘だ。どうせまた、私を引きずり出すための芝居だ。あの子は、そういう人間だ)


菜々美は必死に自分に言い聞かせた。第一話での決別を思い出す。あんな自己中心的で、他人の感情を弄ぶような人間に、これ以上振り回される必要はない。無視すればいい。それが、正しい選択のはずだ。


しかし、胸の奥で、警鐘が鳴り響いている。ミカの、あの最後の「ごめんね」。そこには、いつもの計算高さとは異なる、何か決定的な響きがあった。万が一、本当に万が一、今度こそ――?


(もし、私がこの「ノイズ」を無視したことで、ミカが本当に「終わって」しまったら?)


その思考が、冷たい楔のように菜々美の心を打ち抜く。「狼少年」の寓話が脳裏をよぎる。何度も嘘をついた少年の言葉を、最後に誰も信じなかった結果。その結末を、自分が再現してしまうのか? その罪悪感を、私は一生背負って生きていけるのだろうか。


(助ける、とかじゃない。でも、見殺しにはできない……!)


それは、純粋な正義感からではなかった。むしろ、自分自身が後悔という名の悪夢に苛まれたくない、という極めてエゴイスティックな感情に近いのかもしれない。ミカの行動は断じて許せない。だが、目の前で(あるいは電話越しに)死の淵に立とうとしている人間を、結果的に見捨ててしまうことは、できなかった。


時計のデジタル表示は、午後11時7分を指していた。X駅までは、深夜料金のタクシーを使っても20分はかかるだろう。予告された午前0時まで、残された時間は少ない。


(警察に……? いや、もしこれがまたミカの芝居だったら、取り返しのつかない大騒ぎになる。それに、追い詰められたミカが、本当に何をするか分からない)


菜々美は、誰にも頼らず、自分一人で行くしかないと、半ば直感的に判断した。それが最善の選択なのか、それとも最悪の選択なのかは、分からない。ただ、このまま何もしないでいることだけは、できなかった。


コートをひっかけ、財布とスマートフォンだけをひっつかんでアパートを飛び出す。凍てつくような夜風が、火照った頬を容赦なく刺した。駅へ向かう道すがら、何度もミカの番号にリダイヤルしたが、呼び出し音が虚しく響くだけだった。


タクシーを拾い、震える声で行き先を告げる。車窓を流れる街の灯りが、やけに現実感を失って見えた。

(間に合って……! どうか、無事でいて……!)

あれほど憎悪に近い感情を抱いた相手に対して、今はただ、その無事を祈るしかなかった。この矛盾した感情こそが、ミカという「ノイズ」の本質なのだろうか。


X駅に到着したのは、午前0時3分前。人気のない駅の階段を、息を切らしながら駆け上がり、屋上へと続く薄暗い通路を急ぐ。錆びついた鉄製の扉は、不気味なほど静かに、わずかに開いていた。隙間から漏れる冷気が、菜々美の肌を粟立たせる。


菜々美は一度深く息を吸い込み、覚悟を決めて、ゆっくりと扉を押し開けた。


がらんとした屋上。頼りない月明かりが、埃っぽいコンクリートをぼんやりと照らし出している。吹き抜ける風が、何かのうめき声のように聞こえた。フェンスの向こうには、眠りを知らない都市の光の海が広がっている。そして――フェンスにもたれかかるように、小さな人影がうずくまっていた。


「ミカ……?」


声をかけると、その人影がゆっくりと、まるで壊れた人形のようにぎこちなく顔を上げた。月光に浮かび上がったその顔は、涙と鼻水で無残に汚れ、目は虚ろに虚空を見つめていた。しかし、菜々美の姿を捉えた瞬間、その瞳の奥に、ほんの一瞬、捉えどころのない、それでいて鋭い光が宿ったように見えた。それは、安堵なのか、絶望なのか、それとも――。


「……菜々美。……来て、くれたんだね」


ミカは、か細く、しかしどこか芝居がかった抑揚でそう言った。その手には何も握られていない。飛び降りるような素振りも、準備をしていた形跡もない。


菜々美は、全身の力が抜け落ちていくのを感じた。安堵。そして、それを瞬時に塗りつぶす、激しい徒労感。裏切られたという思い。再び、腹の底から込み上げてくる、黒い怒り。


「あんた……また、私を試したの……? こんなことまでして!」


声が、自分でも驚くほど震えている。ミカは、おぼつかない足取りでゆっくりと立ち上がると、ふらつきながら菜々美に歩み寄り、まるで最後の拠り所を見つけたかのように、その腕にしがみついてきた。


「だって……菜々美しか……もう、頼れる人、いなかったから……。本当に、怖かったんだよ……ネットで、みんなが……私を殺そうとしてるみたいで……」


その言葉は、本心からの叫びなのか。それとも、またしても巧妙に計算された、同情を誘うための台詞なのか。菜々美にはもう、判別がつかなかった。ただ、ミカの身体が、まるで木の葉のように小刻みに震えていることだけは、否定できない事実だった。


(結局、私はまた、この子の手のひらの上で踊らされただけなのかもしれない。この子は、どこまで私を……)


それでも、今この瞬間、凍えるように震えるミカを突き放すことはできなかった。菜々美は深く、諦観にも似たため息をつき、ミカの冷え切った背中を、無言でそっとさすった。


沈黙の代償は、またしても菜々美の心の平穏と、貴重な時間だった。そして、この冷たい屋上での出来事が、二人の歪みきった関係を、さらに予測不可能な、そして危険な領域へと引きずり込んでいく予感が、菜々美の胸を重く、息苦しく締め付けていた。この子を本当に救うには、あるいはこの呪縛から逃れるには、もっと違う「解析」が必要なのかもしれない――そんな漠然とした思いが、彼女の脳裏をかすめた。


【第二話 了】

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