第3話(もう関わらない、なんて言ったのに……)
第三話 友情の鎖
X駅の屋上からミカを連れ帰った夜、菜々美はほとんど眠れなかった。ミカの震え、涙、そしてどこか計算高い光を宿した瞳が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。結局、あの後、菜々美はミカを彼女の自宅マンションまで送り届けた。ミカの両親は不在のようで、暗い部屋に一人で入っていくミカの後ろ姿は、ひどく頼りなく見えた。
(もう関わらない、なんて言ったのに……)
菜々美は自嘲気味に呟く。ミカの「死にたい」は、もはや菜々美にとって呪いの言葉だ。無視すれば罪悪感に苛まれ、関われば振り回される。友情という名の、重い鎖に繋がれているような気分だった。
数日後、大学のキャンパス内で、菜々美は偶然ミカと鉢合わせした。ミカは俯き加減で、周囲の目を避けるように早足で歩いていた。例の小説の件で、学内でも彼女は完全に孤立しているようだった。菜々美は気づかないふりをして通り過ぎようとしたが、ミカが先に声をかけてきた。
「菜々美……この間は、ありがとう」
その声は小さく、弱々しかった。菜々美は複雑な思いでミカを見つめる。
「……別に。当然のことをしたまでよ」
「ううん、菜々美が来てくれなかったら、私、本当にどうなっていたか……」
ミカはそう言うと、おもむろに菜々美の手を握った。その手は驚くほど冷たい。
「やっぱり、菜々美だけだよ。私のこと、本当に心配してくれるのは」
「……」
菜々美は言葉に詰まる。ミカのこの言葉が、本心からの感謝なのか、それとも新たな依存の始まりなのか、判断がつかない。ただ、握られた手が、妙に重く感じられた。
その日から、ミカは以前にも増して菜々美にまとわりつくようになった。講義の席を隣に取り、昼休みも一緒に過ごそうとする。菜々美が他の友人と話していると、どこか不満げな視線を向けてくることもあった。
菜々美は、ミカの過度な依存に息苦しさを感じ始めていた。周囲の友人たちも、ミカと親しくする菜々美を訝しげな目で見ている。
「菜々美って、まだミカとつるんでるの?」
「あんなヤバい奴と関わらない方がいいって」
そんな陰口が聞こえてくるたびに、菜々美の心はささくれ立っていく。
ある日の放課後、菜々美が一人で図書館に向かおうとすると、ミカが追いかけてきた。
「菜々美、待ってよ! 今日、一緒に帰ろ?」
「ごめん、今日はちょっと用事があるから」
菜々美は、無意識のうちにミカを避けるような言葉を発していた。その瞬間、ミカの表情が強張ったのが分かった。
「用事って……何? 私より大事な用事なの?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ、何で避けるの!? 私のこと、やっぱり迷惑なんでしょ!?」
ミカの声が、徐々にヒステリックな色を帯びてくる。周囲の学生たちが、何事かとこちらに視線を向け始めた。菜々美は、いたたまれない気持ちになる。
「ミカ、声が大きい。ここではちょっと……」
「どこだっていいじゃない! 答えてよ、菜々美!」
ミカは菜々美の腕を掴み、強く揺さぶった。その瞳には、またあの計算高い光ではなく、純粋な怒りと悲しみ、そして懇願するような色が浮かんでいた。
「なんで分かってくれないの!? あの時、屋上まで来てくれたじゃない! 私のこと、助けてくれたじゃない! それなのに、なんで今になって冷たくするの!?」
堰を切ったように、ミカの感情が溢れ出す。その言葉は、ナイフのように菜々美の胸に突き刺さった。
(違う、私はあんたを助けたかったわけじゃない。ただ、自分が後悔したくなかっただけだ)
そう言いたかったが、言葉にならない。ミカの必死な形相を見ていると、そんな残酷な真実を突きつけることができなかった。
「私たち、友達でしょう!? 友達なら、助け合うのが当たり前でしょう!? 私が今、こんなに辛いのに、なんで菜々美まで私を見捨てるようなことするの!?」
その言葉に、菜々美の中で何かがプツリと切れた。
「友達……? あんた、本気でそう思ってるの?」
冷たい声が出た。ミカの動きがピタリと止まる。
「散々私を振り回して、自分の都合のいい時だけ頼ってきて、それが友達だっていうの? あんたの言う『友達』って、そんなに都合のいい存在なの!?」
「ち、違う……私は、ただ……」
「ただ、何? 私に構ってほしかっただけでしょう!? 私の同情を引いて、優越感に浸りたかっただけじゃないの!?」
菜々美の言葉は、容赦なくミカを打ちのめす。ミカの顔から血の気が引き、瞳がみるみるうちに涙で潤んでいく。
「ひどい……菜々美まで、そんなこと言うなんて……」
「ひどいのはどっちよ! あんたのせいで、私がどれだけ迷惑してると思ってるの!?」
言い争いはエスカレートし、周囲の視線はさらに集まってくる。だが、二人にはもう、それを気にする余裕はなかった。
「なんで! なんでよ! 菜々美ぃ!! 私たち、友達でしょう!!」
ミカは、子供のように泣きじゃくりながら叫んだ。その叫びは、悲痛で、どこか滑稽で、そして菜々美の心を激しく揺さぶった。
(ああ、そうだ。私たちは、かつては友達だったはずだ)
こんな風に歪んでしまう前は、確かに笑い合い、支え合った時期もあった。その記憶が、菜々美の怒りを鈍らせる。
だが、今のミカは、菜々美の知っている「友達」ではない。何かが決定的に壊れてしまったのだ。
菜々美は、泣き崩れるミカをただ見つめることしかできなかった。友情という名の鎖は、今や二人を雁字搦めにし、身動き取れなくさせている。そして、その鎖を断ち切る方法を、菜々美はまだ見つけられずにいた。
夕暮れのキャンパスに、ミカの嗚咽だけが、いつまでも響いていた。
【第三話 了】
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