誰かが私を殺してくれるまで
志乃原七海
第1話(本当に死にたい人間は、そんなこといちいち宣言しない)
第一話 ノイズ・パフォーマー
スマートフォンの画面に舞い込んだ通知を、佐藤菜々美は一瞥した。溜息が、乾いた音を立てて喉の奥から這い出てくる。また、あのメッセージだ。友人であるはずのミカからのそれは、数日前にも見たばかりの短い文字列だった。「もう、全部終わりにしたい」。だが、今日のそれは、画面の文字が滲んで見えるような、奇妙な圧迫感を伴っていた。いつもの、救いを求めるような、あるいはただの注意を引くための常套句。そのはずなのに。菜々美は特に返信もせず、無感情に既読だけを刻み、画面を閉じた。
(本当に、終わりを望む人間は、こんな風にわざわざ他者にシグナルを送ったりしない)
それは、これまでの経験と観察から導き出された菜々美の確信に近いものだった。ミカの「死にたい」という言葉の羅列は、ここ数年、まるで季節の変わり目のように、定期的に繰り返されてきた。最初の頃は、菜々美も本気で心配した。夜通し電話で話を聞いたり、直接会って慰めたりもした。だが、繰り返されるうちに、その行動パターン――他者の関心を惹きつけ、自分に注目を集めたいという欲求の表れなのだと、冷静に読み解けるようになった。手首に赤インクで引かれたような線を写した画像をSNSに投稿したり、意味の通じない断片的な言葉を連投したり。その度に周囲は心配の声を上げ、ミカは一時的に満たされたような、しかしどこか虚ろな表情を浮かべる。菜々美にとって、それは次第に耳障りなノイズ以外の何物でもなくなっていた。
午後の大学の講義が終わり、いつものカフェの隅の席で、提出間近のレポート作成に取り組んでいた時だった。隣の席に座る女子学生たちの、ひそひそとした、しかし妙に熱を帯びた会話が、否応なく菜々美の耳に飛び込んできた。
「ねえ、ミカのあれ、見た?」
「見た見た! マジありえないよね、あれは……なんか、前よりヤバくない? 度を越してるっていうか」
漠然とした、しかし確かな嫌な予感が、菜々美の胸に冷たい楔を打ち込む。彼女は無意識のうちに、スマートフォンのSNSアプリを起動させていた。案の定、ミカのアカウントのアイコンは、相変わらず陰鬱な、見る者の神経を逆撫でするような雰囲気を漂わせている。タイムラインをゆっくりとスクロールしていくと、共通の友人がミカの最新の投稿をリツイートしていた。そこに埋め込まれていたのは、見慣れない小説投稿サイトへのURLだった。そして、網膜に焼き付くような、悪趣味なフォントで書かれたタイトルが添えられている。『私の両親を合法的に消し去る方法』。
「……は?」
思考よりも先に、乾いた戸惑いの声が小さく漏れた。菜々美は一瞬躊躇しながらも、まるで磁石に引かれるように、そのリンクをタップする。画面に現れたのは、禍々しいシルエットのイラストが表紙を飾る作品ページだった。黒と血のような赤を基調としたデザインが、異様な、見る者を不安にさせる雰囲気を醸し出している。そして、あらすじとして記された短い文章が、菜々美の背筋を氷の指でなぞったように凍らせた。
『これはフィクションです。そう、あくまで物語。けれど、もしこの妄想が現実のものとなったなら、世界はどれほど美しく輝くだろうか。私の両親は、私という存在にとって、ただの害悪でしかない。彼らがいる限り、私は真の自由を得られない。だから、これは私の切なる願望であり、綿密に練られた計画の断片であり、そして皆様にお届けする最高のエンターテイメント。さあ、悪夢のようなショーの幕開けよ』
(こいつ……本気で何を考えているんだ?)
心臓が急速に冷え、指先が微かに震えるのを感じた。これまでの、どこか甘えたような、構ってほしいだけの「死にたい」アピールとは、明らかに質が異なる。そこには、底知れない悪意と、明確な、そして冷酷な攻撃性が剥き出しになっていた。菜々美は、作品本文の冒頭数行に、恐る恐る目を通した。そこに綴られていたのは、両親と思われる登場人物への容赦ない罵詈雑言と、彼らを精神的に、そして社会的に追い詰めていく陰湿な計画の詳細だった。いくつかの記述は、まるでミカが両親の日常を常に監視でもしているかのような、不自然なほど具体的な情報を含んでいた。これは、単なる妄想なのだろうか? それとも――。それらの計画は、まるで手柄話のように、倒錯した誇らしげな筆致で語られていた。
(小説だから、許されるとでも思っているの? 表現の自由を盾に、こんなおぞましいものを世に晒して……!)
(こんな人間じゃなかったはずなのに……! いつから、ミカはこんな風に、人の心を傷つけることに何の躊躇もなくなったの?)
これまで感じたことのない、腹の底からマグマのように湧き上がる強い怒りが、菜々美の全身を貫いた。ミカの、これまでの数々の騒動が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。常に誰かの注目を集めたがり、周囲に「特別な存在だ」と認識してもらいたくて、過激な言動をエスカレートさせてきたミカ。結局、今回のこの小説も、その歪みきった自己顕示欲の延長線上に過ぎないのだろうか。ただ、今回は、明らかに一線を越えている。言葉の暴力という領域を遥かに超え、他者を物理的、精神的に破滅させようとする具体的な意図が、生々しく感じられた。
(助けてほしい? 誰かに気づいてほしいサイン? そんなわけがない。これは、ただの悪趣味な売名行為、いや、もはや犯罪予告に近い。注目を集めるためなら、どんな手段も厭わないという、彼女の歪んだ倫理観の醜悪な表れだ)
菜々美は、握りしめたスマートフォンが軋むほど、さらに力を込めた。ミカの顔が、鮮明に目に浮かぶ。いつもどこか不安げで、それでいて他人を見下すような、あのアンビバレントな表情。何かを訴えかけるような瞳の奥に隠された、満たされることのない承認欲求の飢餓感。
「……絶対に、許さない」
小さく呟いた言葉は、カフェの喧騒にかき消された。しかし、菜々美の胸の内では、今まで感じたことのないほど鮮烈な怒りの炎が、静かに、しかし確実に燃え上がり始めていた。それは、友人に対する失望や悲しみといった曖昧な感情ではなく、明確な拒絶の意思であり、ある種の使命感にも似た決意だった。
立ち上がり、カフェを出る。早足で自宅へと向かいながら、菜々美は一瞬、ミカのSNSアカウントをブロックしようかと考えた。だが、すぐにその衝動を抑え込んだ。そんなことをしても、根本的な解決にはならない。これは、見て見ぬふりをすることはできない問題だ。彼女の行動は、単なる個人的な問題ではなく、ネットの闇が生み出した社会的な悪意の萌芽であり、放置すればさらに危険な方向へ増殖していくかもしれない――そんな直感が働いたからだ。
自宅に辿り着くと同時に、菜々美は迷わずスマートフォンを取り出し、ミカの電話番号をタップした。数回の呼び出し音の後、ミカが気怠そうな、どこか他人事のような、それでいて微かに期待を滲ませたような声で応答する。
「……なに? 菜々美じゃん。珍しいね、どうしたの? もしかして、あれ見た?」
その声音を聞いた瞬間、菜々美の胸に渦巻いていた怒りは、さらに激しさを増した。まるで、自分の書いたものが引き起こしているであろう騒動を、遠い世界の出来事のように、あるいは何かのゲームの成果のように捉えているような、その無神経さが許せなかった。
「ミカ。あんた、あの小説サイトの投稿、一体何なの? 説明しなさい」
「あー、あれ? 見たんだ、やっぱり。どう? 結構バズってんだけど」ミカの声は妙に明るいが、その奥に一瞬、得体の知れない冷たい刃のようなものが煌めいたのを菜々美は聞き逃さなかった。「それに、あれで私のこと、みんな見てくれるようになったし……色んな人がね、興味持ってくれてるみたい」
「色んな人」という言葉に、菜々美は爬虫類的な冷たさを感じ、微かな引っかかりを覚えた。
「バズってる、ですって……? あんた、自分が何を書いたか、本当に分かってるの!? いくらフィクションだって、あんなもの……!」
「えー、だって表現は自由でしょ? フィクションじゃん。それに、あれで私のこと、みんな見てくれるようになったし。菜々美だって、こうして電話してきたわけだし」
ミカは全く悪びれる様子もなく、むしろどこか誇らしげに、そして挑発するような口調で続けた。その態度が、菜々美の中に残っていた最後の理性という名の細い糸を、ぷつりと断ち切った。
「ふざけないで! あれはただの悪意の塊よ! 自己顕示欲も大概にしなさい! あんたのやっていることは、誰かを深く傷つけるだけだって、どうして分からないの!? それとも、分かっててやってるの!?」
電話口で、抑えきれない怒りをぶつける菜々美に、ミカは一瞬、言葉を詰まらせた。そして、次の瞬間、まるで面白い冗談でも聞いたかのように、堪えきれないといった様子で、くすくすと乾いた笑い声を漏らし始めた。その笑い声は、どこか壊れていて、菜々美の耳には不気味に響き渡った。
「……やっぱり菜々美は真面目ちゃんだね。そんなにカリカリしなくてもいいじゃん。面白いって言ってくれる人もいるんだからさ。理解してくれる人も」
「面白い、で済む問題じゃない! あんたは……あんたは、もう私の知ってるミカじゃない!」
言いかけた言葉を、ミカが遮った。その声には、先ほどの嘲笑とは異なる、わずかな震えと、しかし確固たる何かが混じっていた。
「じゃあ、どうすればよかったの? こうでもしないと、誰も私のことなんて、見てくれないんでしょ? 本当の意味では」
それは、まるで開き直りのような、それでいてどこか悲痛な叫びのようにも聞こえた。だが、菜々美には、それすらも計算された、相手の同情を引こうとする演技のように感じられた。一瞬の沈黙の後、絞り出すように言ったその声は、しかしどこか芝居がかって菜々美には聞こえた。彼女の心は、すでにミカに対する信頼を完全に失っていた。
(ああ、もう駄目だ。この子とは、根本的に分かり合えない。彼女の心の奥底には、私には到底理解できない、深く、そして危険な闇が広がっているのかもしれない)
菜々美は深く息を吸い込み、押し殺した、しかし決然とした声で、静かに告げた。
「もう、あんたには関わらない。それだけ。でも、もしあんたがこれ以上一線を越えるなら、私は……」
言葉を最後まで紡ぐ前に、一方的に通話を終え、スマートフォンをまるで熱い鉄塊のように、近くのテーブルに投げ出した。画面が一瞬点灯し、ミカの小説サイトのコメント欄が目に入る。そこには、『神降臨』『計画実行はいつですか?同志より』『こういうのを待っていた!』といった、明らかに異常な熱を帯びたコメントが、数秒の間にいくつも、まるで黒い蟲のように流れ込んでいた。
ぞくり、と悪寒が背筋を走り、鳥肌が立つ。
窓の外は、徐々に夕闇に包まれ始めている。まるで、世界の終わりが近づいているかのように。
(本当に、これでよかったのだろうか……? 見捨てるような真似をして。でも、私に何ができる?)
一瞬、脳裏をよぎった迷いを振り払うように、菜々美は強く目を閉じた。だが、ミカのあの小説の、妙に具体的な計画の数々、そして電話での「色んな人がね」という言葉、最後の「理解してくれる人も」という不気味な響きが、頭の中で反響する。無意識のうちに、彼女はその言葉の裏にある意図や、ミカの行動パターン、そして彼女に群がる「同志」たちの存在を分析しようとしている自分に気づき、愕然とした。友人だったはずの相手に対して、まるで潜在的な犯罪者グループのプロファイルをしているかのように冷静な自分がいることに、言いようのない戸惑いと嫌悪感を覚えたのだ。
彼女の知らないところで、ミカという名の「ノイズ」は、もはや制御不能なほど大きな不協和音となって、社会の片隅で共鳴し、拡散し始めていた。それは、聞く者の精神を静かに侵食し、現実と虚構の輪郭すら曖昧にさせるような、悪質な響きを伴って――。そして、その歪んだ音色は、やがて菜々美自身の日常にも、予期せぬ形で、より深刻な影を落として忍び寄ってくることになるだろう。
【第一話 了】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます