憧れとの訣別 | エッセイ
シロハル(Mitsuru・Hikari)
憧れとの訣別
「憧れるのを辞めましょう」
WBC決勝戦前の大谷選手の有名なスピーチの言葉だ。当時、彼らの活躍をテレビで観ていた私は、彼の素晴らしい精神と言葉選びに胸を打たれたのを覚えている。
憧れとは、時に嫉妬を生むが、人を向上させてくれる美しいものだ。
が、今回、私が綴る“憧れ”は、そんな美しいものではない。憧れは光を帯びるほど、鋭い刃となる。
「俺に憧れているなんて二度と言うな」
十三年ぶりに会話を交わした憧れの人から、そんな言葉を浴びせられた。
つい先日の話である。
私には長年会っていなかった憧れのミュージシャンがいる。九十年代後半、一世風靡したロックバンドのヴォーカル、Sさんだ。
彼と最後に共演したのは、ちょうど十三年前の五月である。それ以来、ずっと会っていなかった。近年、Sさんのライブ活動は明らかに減りつつあるが、それでも今も多くのファンの支持を集め、SNSなどで発信を続けている。
それに比べて、私は音楽からずいぶんと長いこと離れてしまっていた。気がつけば遠いところにいた。私が音楽をやっていたなんて周囲に話したら、きっとひどく驚かれるだろう。私自身、当時の自分が別人のように感じることがある。
この状況に後ろめたさがあり、どうしても自分からSさんに連絡することができないでいた。だが、会っていない間も、彼の動向を追い、その音楽をひたすら聴き続けてきた。それほど、Sさんの音楽を愛していたし、尊敬していたのだ。遠くなる背中を見失わないように追い続けていた。
「お前がステージに戻ってきたとき、また勝負しよう」
東京での私のラストライブ。あの日、Sさんがステージで放った言葉が、いつまでも私の心に刻まれている。あの約束が、心の深いところで引っ掛かったまま渦巻いていた。約束を果たしたい気持ちと、ステージに立つことができない現状に葛藤し、ずっと自分に苛立っていた。
Sさんは五月に毎年恒例のライブイベントを開催している。彼はSNSで、「もう来年はやらない」と宣言していた。長年続けてきた大切なこのイベントに終止符を打つというのだ。今年が最後のチャンスだ。勇気を出さなければ、心はくすぶったまま、もう二度とチャンスはやってこないかもしれない。葛藤の末、私はついにこのイベントに参加することを決意した。
東京に住む音楽仲間のYも誘い、私たちはイベント情報が更新されるのを待った。しかし、いつまで経ってもライブに関する詳細は出てこない。こんなことは今までなかった。どうしたのだろう。Sさんの体調が心配になった。
特に進展がないままイベントの前日を迎えた。しびれを切らした私は、Yに相談すると、彼がSさんのスタッフに問い合わせてくれることになった。
それがこの後に大きな問題となるとは知らずに。
「みっちゃん、今すぐSさんに連絡して!」
部屋で読書をしながら気楽に待っていた私に、Yからの緊迫したメッセージが飛び込んできた。
彼がSさんのスタッフのSNSにDMを送ると、電話がかかってきたようだ。電話越しにSさんの声が聞こえ、「なんで、みつるから直接連絡してこないのか」「みつるじゃないと話をする気はない」と激しい剣幕だったという。友人は、私に急いでSさんへ連絡するよう促した。
私は慌てながらも、スマートフォンの連絡先一覧から彼を探し出す。もう十数年もかけていなかった電話番号。今も同じなのかわからない。思い切って発信ボタンを押す。が、何度かけても出ることはなかった。彼のスタッフの方へ連絡するも、なぜか応答してもらえない。
困惑しながらも、Yの説得によって、なんとか電話が繋がった。ところが、Sさんの第一声は思わぬ言葉だった。
「誰、お前?」
心臓が俄かにばくばく鳴り始めた。
「あの、十三年前、何度かSさんと共演させていただいた、みつるです」
「知らねえよ。お前、アマチュアだろ? プロの俺がアマチュアのミュージシャンなんて覚えてるわけねえじゃん」
本当だろうか。もし、これが本当だったら悲しすぎる。絶対に嘘だ。嘘だと信じたい。きっと私が直接連絡しなかったから、怒っているのだ。
「なんで直接かけてこねえんだよ。さっき電話してきた奴は、お前のパシリなのか? お前はそんな偉いのか? このアマチュアが」
「いえ、まったくそんなつもりはありませんでした。本当に申し訳ございませんでした。明日のイベントに、僕らも参加させていただきたいと思いまして……」
「は? 大事なイベントなんだよ。くそ野郎なんて呼んでねえんだよ。舐めんなよ。ガキが。おい、いいか。俺に憧れているなんて二度と言うな。お前なんて、さっきのくそ野郎と一緒に消えろよ」
「えっ……」
胸がびりびりと切り裂かれる音が聞こえるようだった。
思春期の頃、見上げた空のように抱き続けた憧憬。
東京から故郷に帰ってから、密かに抱き続けてきた後ろめたさと尊敬。
彼と交わした、約束に対する強い想い。
すべてがぶち壊されるようだった。
何十年もの間、Sさんの歌を聴くたびに勇気をもらい、救われてきた。が、その声が今、私の心を突き刺している。
あの約束は、私の音楽の灯だった。
「お前の音楽も人生も、一生アマチュアだ。一人でやってろ、クソが。話してる時間も無駄だわ。じゃあな」
電話が切れた。
冷たい汗が滲む手でスマートフォンを握り締めながら、私の体は震えていた。窓の外の雨音だけが、静寂を埋める。心臓が握りつぶされるような思いだった。
これが最後のチャンスだと思っていた。ついに再会が実現するものと信じていた。その日に向けて、彼の曲の歌とギターを練習し、高まる緊張を抑えていた。しかし、この大切にしてきた熱い想いは、ほんの数分で儚く砕け散ってしまった。
悔しくて悲しくて堪らない。しばらく誰とも、何も話したくない。
かつての約束はどこに行ったのだろう?
Yは自分のせいだと、ひたすら私に謝っていた。Sさんはずっと、私からの連絡を待っていた。だから、直接連絡が来なかったことが寂しかったのだろうという。彼は、私とSさんの関係がいつか修復すると信じているようだった。
なぜ、Sさんは「二度と憧れるな」と言い放ったのだろう。もしかしたら、Yの言うとおり、それほどまでに私を待っていてくれたのかもしれない。彼は人情や責任、一貫性を重んじる人だ。だからこそ、私からではなく、Yから連絡があったことが許せなかったのだろう。
Sさんにお世話になった私から連絡しなかったのは、本当に申し訳なく思っている。だが、私にもプライドがある。かつて師のように慕っていたからといって、何を言われてもいいわけではない。十数年、音楽から離れていたとは言え、ずっと音楽を愛してきた。プロを目指していたあの頃から、ミュージシャンとしての矜持だけは捨てていないのだ。
今回の件は、大きな亀裂、断絶を生む出来事だった。
私たちは、ちょっとしたすれ違いで、人間関係が破綻してしまう。
絆や信頼といった言葉は、いくつかの折れやすい柱の上に成り立っている。その柱の上は時間が経つほど美しいものに見える。肝心の柱は、老朽化するか、強度を保っているか、私たちの思いで変わってくる。だが、一つの柱が折れたら、崩れ落ちてしまう。
まるで、転がる石のように。
それでも、あのメロディが、あの歌声が、私の心の奥で響き続けている。きっと永遠に止むことはない。音楽は死なないのだから。あの音が残り続ける限り、Sさんへの憧れは完全に消えることはないのだろう。
私たちの命があるうちに再び、彼と向かい合えるだろうか。
そしていつか、言える日が来るだろうか。
私と勝負してください、と。
憧れとの訣別 | エッセイ シロハル(Mitsuru・Hikari) @shiroharu0726
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