【第16話 問いの代償】


 火山を後にした三人と記録官は、断崖沿いの冷たい風が吹きつける尾根道を歩いていた。


 その途中、ゴブの前に記録官が立ち止まり、手にした古びた羊皮紙の束を差し出す。


「これは、“知の者”の痕跡が記された記録だ。次なる鍵が眠る地への道標でもある」


 ゴブは羊皮紙を手に取り、目を丸くした。幾何学的な文字と図形が描かれたその紙片は、何かを封じたような冷たい気配を放っていた。


「……でも、これは……読めないのだ」


「当然だ。それには“契約”が必要だ。君が問いを乗り越えた者である証を、魔力の枷として刻むことでのみ、その封は解かれる」


 記録官の目はいつになく真剣で、低く張りつめた声には、ほんの僅かな哀しみの色もあった。


「“枷”とは、力の代償を知り、それを己の中に受け入れる証だ。知は解放であると同時に、重荷となる」


 そう言って懐から取り出されたのは、小さな銀の短剣だった。


「契約の印を、君の指先に刻もう。痛みは一瞬だが、決して消えることはない」


 ゴブは一瞬だけ視線を泳がせた。

 その刹那、かつて自身が恐れていた過去の影が胸をよぎる。問いに向き合うことさえ怖くて、ただ逃げ続けていた日々。

 けれど、そのすべてを乗り越えてきたのだと、いまの自分に言い聞かせる。


「……ボクは、“問い”に答えたのだ。だから、進みたい……もっと、知りたいのだ、ゴブ」


 記録官は黙ってうなずき、短剣の刃でゴブの指先に印を刻んだ。

 小さな痛みとともに、淡い光が浮かび、羊皮紙がひとりでに開かれ始める。


「これが……“知の者”が残した、道……なのだ……」


 その場に居合わせたミレイは、感嘆の息を漏らした。


「ゴブ……本当に……すごいよ。ちゃんと、自分の力で前に進んでる」


 だが、後ろから微かな吐息が聞こえた。

 振り返ると、シンが腕を組み、少し距離を取った場所に立っていた。


「……勝手な真似を……また傷を増やして、何がしたいんだよ……」


 その声には、怒りよりも迷いと不安が滲んでいた。

 何かを失うことを恐れているような、言葉の奥の震え。


「シン……」


 ゴブが言葉をかけようとしたとき、シンはくるりと背を向け、何も言わず歩き出した。


 ミレイは黙ってその背中を見送りながら、ポツリと呟いた。


「……でも、それだけ真剣にゴブのことを見てるってことだよ」


 風が、山の向こうから吹き上げてきた。これから訪れる試練の気配を含んで。


 尾根を越えて一行がたどり着いたのは、谷あいにひっそりと佇む村の廃墟だった。

 石造りの家々は崩れ、草が生い茂り、かつての生活の痕跡は風化していた。


「ここ……誰もいないのだ」


 ゴブがぽつりと呟くと、記録官が村の中央に立ち、目を細めた。


「この地もまた、“問い”を受け入れた場所だ。そして、代償を払った村でもある」


 記録官の言葉に、ミレイが眉をひそめる。


「代償って……どういう意味?」


 記録官は一瞬だけ遠い目をしたのち、静かに口を閉じ、村の奥にある建物を指差した。


「そこに、“知の者”が一時期滞在していた記録があるかもしれない。調べてみるといい」


 ゴブたちは分かれて村を調査することになった。


 ミレイは井戸の跡に立ち止まり、指先でその縁をなぞる。その瞳には、どこか遠い記憶がよぎっていた。


(こんな風に、昔も……)


 水面が揺れたような心のざわめきを振り払い、彼女は歩みを進めた。


 一方ゴブは、広場の中心にある朽ちた掲示板を見つけ、丁寧に手で埃を払った。


 掲示板の裏に貼られていた紙片はすでに風化して読めなかったが、その紙の裏に微かな刻印を見つけた。


「……“見る者、問いに触れよ”……なのだ?」


 その文字に触れた刹那、ゴブの視界に一瞬だけ白い光が走った。

 燃え落ちる村、空を裂くような叫び声、そして、崩れ落ちる塔の幻影。


「い、今のは……?」


 幻はすぐに消え、風が吹き抜ける。


 そのとき、シンは村の外れにある墓地を見つけていた。


 彼はひとり、誰に告げることもなくその中へ入っていく。

 苔むした墓標がいくつも並ぶその中で、ひときわ新しい、しかし名を刻まれていない墓石の前に立ち止まった。


 その墓石の下草には、朽ちた小さな剣と風化した手帳の切れ端が添えられていた。

 そこには震える筆跡で、こう記されていた。


『……問われることなく終わるのが、一番幸せだったのかもしれない』


 シンは読みながら、拳を握りしめた。


「問いってのは……ほんとに、誰にでも必要なもんかよ……」


 その声は、風と共に墓地の静寂に吸い込まれていった。


 墓地から戻ってきたシンの表情は、どこか晴れなかった。

 ミレイが声をかけようとするが、彼は視線を逸らし、小さく首を振った。


 その空気を破るように、記録官が口を開く。


「見つけたようだな、“鍵”を」


 記録官が指さしたのは、村の広場の隅、半ば地面に埋もれた石造りの井戸だった。

 苔むした井戸の周囲には、うっすらと風紋のような魔力の痕跡が残っていた。


 ゴブが近づき、注意深く覗き込むと、底には鉄製の蓋があるのが見えた。


「これは……扉、なのだ?」


 記録官が頷く。


「“知の者”が用いた隠し通路のひとつだ。次なる“問い”が、その下に眠っている」


 蓋には魔法式の封印が刻まれており、淡く青い光が脈打っている。時折、封印の輪郭が微かに揺れ、低く唸るような音が聞こえる。


 ミレイが小声で尋ねる。


「……でも、今開けるの? まだ、気持ちの整理も……」


 その言葉に、ゴブが深く頷いた。


「……うん、でも……ボク、進みたいのだ。

 この“問い”を、また置いていったら……次、きっと逃げちゃうから……」


 その言葉に、記録官が静かに呟いた。


「問いは逃げない。だが、問いから逃げる者の心を蝕む。

 私も、かつて……それを忘れた者の末路を見たことがある」


 その一言に、記録官の瞳の奥にわずかな影が落ちる。


 シンが、ふいにゴブの隣に立った。


「……おまえは、いつもそうやって、まっすぐなんだよな」


 その目には、迷いの中にも決意の光が宿っていた。


「勝手に突っ走って、周りを巻き込んで、でも……それでも、間違ってるって言えないくらい、本気だから……」


 シンは静かに剣の柄に手を置く。


「だからオレも行く。黙って見てるだけなんて……もうごめんだ」


 ミレイもまた、ゴブの反対側に並び、微笑んだ。


「じゃあ、三人で行こう。怖くても、痛くても、一緒にいたら大丈夫」


 ゴブはゆっくりと頷き、三人で蓋に手を添えた。


 記録官が最後に静かに言う。


「問いの答えは、ただの情報ではない。“君自身”を形作る、真実だ。

 そして、それは……戻れぬ変化をもたらすだろう」


 魔法式が淡く輝き、蓋が音もなく開いていく。

 開かれた瞬間、地の底から冷たい風が吹き上がり、古びた金属と湿った石の匂いが鼻をついた。


 地下へと続く階段の闇が、彼らを迎えていた。


 ――問いの先にあるのは、さらなる真実か、あるいは喪失か。

 それは、まだ誰にも分からない。

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