グラニド戦記
砂雨
第1話 幸せを抱いて
ひどい、ひどい光景だった。
人が一瞬で死体となり、踏みつけられ、肉塊となった。むせかえるような内臓の匂いと、鉄と汗の混ざったいやな匂いがした。
「げぇっっ! がぁっ……ぁ……」
ラボールは、吐き、からえずきを繰り返した。
覚悟が足りなかったと、ようやく気付いた。
戦場に来る覚悟。
自分があの肉塊になるという覚悟が——
連峰を戴く大国チェリオは、大陸南端に突き出た長大な海岸線を持つ。
チェリオ東部——山脈の裾野に栄えるザレラ領の採石場で、少年がこんもりと石を積んだ手押し車を、身体全体でぶつかるようにして、僅かずつ前へ動かしていた。
「ハァ……ハァ……」
少年は、がりがりの頬に荒れた黒髪、澄んだ赤色の目をしていた。粗末な服で、痛々しいほど痩せていたが、前腕と太腿、そして背の筋肉は硬く引き締まり、何らかの鍛錬の形跡が見える。
「うゎっ……!」
あるところで石につまづき、少年の手から離れた手押し車が、がしゃんと音をたてて横転した。立ちつくす少年の元に、立派な服を着た現場監督の男が、まなじりをつり上げてやってきた。
「早く詰めなおせ、ガキ! ったく、こんな簡単なこともできねえのか」
少年は奥歯をかみしめながら膝をつき、散らばった石を手押し車に再び積み始めた。しかしその乾いた小さな手の甲を、厚底のブーツが鋭く踏みつけた。少年は痛みに顔をしかめた。
「どうした、早く詰めろよ、ラボール」
ぼろをまとった中年の男が、冷たい目で彼を見下ろしていた。
またあんたか、とラボールは思った。このおじさんはどうやら、ラボールを痛めつけることを生きがいにしているようだった。
ラボールはこの男が嫌いだったが、同じくらい哀れにも思っていた。この狭い採石場で自分の力を誇示するのは、それ以外にすがるものが無いからだ。
ラボールは手を踏みつけられたまま、静かに男を見上げた。
とたんに思い切り顔を殴られ、ラボールは吹っ飛んだ。ごつごつした石で肌が切れ、身体のあちこちに血がにじんだ。
「何なんだその顔は! 親もいねェ住む家もねェ、底辺のくせによォ!」
男は激昂してラボールを何度も殴った。
「お前は一生こうやって!」
周りで働く十数人の男たちは、こちらを見もしない。他人を気にする、そんな心の余裕は彼らになかった。
ここにいる誰もが、どうすれば明日、飢えずに済むかで頭がいっぱいだった。
「みじめに!」
ラボールは奥歯をかみしめ、降ってくる拳に耐え続けた。
「はいつくばって生きていくんだよ!」
理不尽な暴力だが、幼く、なんの後ろ盾もないラボールは、それを受けても仕方がない存在だと、その場の全員が——彼自身さえもが——分かっていた。
「これだけ?」
仕事終わり、監督にもらった報酬は、銅貨一枚だけだった。これではパンどこかチーズすら買えない。
いつもなら、銅貨二枚はもらえるのに……。
「あ?」
口ごたえされた監督は、いらいらした様子でぎろりとラボールを睨みつける。
「お前、俺が見てない所でもめてたらしいじゃねえか。だから減給だ」
「あれはおれじゃなくて……」
突然監督の太い手が、ラボールの首をがしりと掴んだ。
「ぐっ!」
「勘違いするな」宙吊りになってもがきながら、ラボールは監督の目を見てぞっとした。それは家畜を見る目だった。
「お前みたいな身寄りのないガキ、いつでも首にできるんだ。金を貰えるだけ感謝しろよ」
意識が途切れる寸前で、ラボールは解放され、石だらけの地面にしりもちをついた。
「ゲホッゲホッ」
荒い咳がようやく収まっても、ラボールは身体が震えて立ち上がれなかった。みじめで、悔しくて、腹が立って仕方がなかった。
——なによりも、無力な自分に。
「くそ……」
銅貨を握りしめた手の甲に水滴が落ち、傷口をなぞって鈍く痛んだ。
仕事が終わったのは夜明けだったが、ラボールは眠らずにザレラの中央街を横切り、山を登ってある場所に向かった。
しばらく道なき道を歩き、日が昇りきったころ、こぢんまりとした小屋が現れた。小屋の前には二十人ほどの人が集まっていて、杖をついた老人が一人、嬉しそうに何やら喋っている。
「なんとなんと。老いぼれの道楽に付き合ってくれる人が、今日もこんなに。ありがたいことじゃ」
「わたしゃこれが生きがいでねぇ」
最前列にいた優しげな老婆が微笑み、
「ジオ爺、早く始めて~」
後ろの小さな男の子が元気に手をあげた。
「ひょっひょっひょ。わかったわかった。ちょっとまっとれよ……」
老人は一度小屋に入り、大きな籠を引きずってまた出てきた。籠の中には多種多様な武器が入っている。
武器と言っても殺傷力は無く、全て柔らかい木材で作られている事をラボールは知っていた。
ラボールも列に加わり、目当ての武器を手に入れる。彼が槍と呼ぶそれは、ただの長い木の棒だ。
「ではまず、基本の構えから——」
人々は、小屋の前に点在する練習用の柱に向かって、思い思いに武器を打ちつけた。ラボールも、腰を落として棒で柱を突いた。
ここは、ジオ老師が営む〝戦闘教室〟だった。ただ実際のところは、暇を持て余した婦人や子供のための〝習い事〟と言ってよく、騎士や兵士を養成する場所ではない。
それでもラボールはこの場所が気に入っていた。生徒の皆は有り得ないほど優しいし、参加するためのお金も要らない。それに——
「ラボール、もう少し脇を締めてみたらどうじゃ」
「ジオ先生……」
老人がいつの間にか横にいた。ラボールは言われた通りにしてもう一度突きを放った。
柱が揺れ、強い手ごたえを感じた。
「そうじゃ! その調子じゃ」
老人は笑って、次の生徒にアドバイスをしに行った。ラボールもつられて少し笑う。
——それに、ラボールはジオ老師に教わるのが好きだった。
「また最後の一人になったのォ、ラボール」
夕方。一人、また一人と生徒が帰り、残っているのはジオとラボールのみとなった。
「儂は楽しいが、少し根を詰めすぎじゃぞ。もっと身体を大切にしなさい」
疲弊して腕が鉛のようになったラボールに、ジオは休むように促した。しかし彼は頑固に柱を突き続ける。
ジオはため息をついて、小屋の脇にある切り株に腰をおろした。
しばらく腕を動かしていたラボールは、やがてぽつりと口を開いた。
「おれ……おれは、自分がカスだって知ってる」
声が震えた。
——採石場であんな扱いを受けて、どうして自分に価値があると思えるだろう?
「だから……せめて、ここに来るみんなだけには……ちゃんとした人間だって思われたい……」
それでも、ここにいる間だけは、嫌なことを忘れることができるんだ。
ジオが腰をさすりながら立ちあがり、ラボールの肩に手を置いた。
「歳を取ると食が細くなってのう」
にやりと笑う。
「酒のツマミが余っとるんじゃが、食べるのを手伝ってくれんかの?」
ラボールが何か言う前に、腹がぐう~と鳴った。耳まで赤くなり、溢れた唾を飲み込んで、彼はやけっぽく言った。
「手伝う!」
二人は仲良く、温かくて明るい小屋に入っていった。
ジオ先生がいなければ、ラボールはとっくに、採石場の空を舞う鴉のエサになっていたことだろう。
ラボールはジオに、言い表せないほど感謝していたが、受けた恩に対して何も返せないことと、少年特有の気恥ずかしさとが邪魔をして、なかなか言葉にできないでいた。
一ヶ月後、ラボールがいつものようにジオの小屋に行くと、生徒たちに混じって、軍服の大男がジオと会話していた。ラボールが邪魔しないように二人の横を黙って通り過ぎたとき、こんな会話が聞こえた。
「足の具合はどうだ」
「ぼちぼちじゃ」
「どうしても教官として戻る気はないのか?」
「無理じゃて。年寄りを労わらんかい」
「そうか……。だが俺はいつまでも待っているぞ」
知り合いだろうか? ラボールは気になったが、何も聞かずに武器を取って練習を始めた。ジオ先生にも聞かれたくないことはあると分かっていたからだ。
ラボールが汗だくになったころ、ジオと共に遠巻きに生徒たちを観察していた大男が、ぽつりと聞いた。
「……ジー、彼の名は?」
「ラボールじゃ」
ジオは短く答えた。大男はじっと、木の棒を巧みに操る少年を見すえた。
彼の突きは丁寧だった。一打一打、噛みしめるように柱を揺らしている。
——緩急、打点、握り。どれも一定ではない。一打ごとに〝試して〟いるな。……惜しむらくは理想が無いこと、か。
「面白い」
大男はラボールに近づき、いきなりその武器を奪い取った。ラボールはびくっとして大男を見た。
大男はラボールの手のひらにある無数のマメをみて口角をあげ、棒を構えて腰を深く落とした。地面を踏みしめた左足が、ダンと小気味よい音を鳴らす。彼の揺るぎない大木のような構えに、ラボールの目が釘付けになった。
「よく見ていなさい」
言うやいなや、大男は棒を突き出した。
——その一撃は、ラボールの記憶に深く刻まれ、生涯消えることはなかった。
大男が目にもとまらぬ速さで踏み込んだ。ラボールは硬い柱を、柔らかいはずの棒の
先端が、するりと穿つのを見た。
大男が柱から棒を引き抜き、元の美しい構
えに戻った後も、柱は微動だにしなかった。
というか、棒が穿たれたその瞬間すら、柱は揺れなかった。
ラボールは戦慄した。背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
——ありえない。そんなこと……。
柱は、まるで打たれたことにすら気づいていないようだった。
大男は全く同じ瞬間に、全く同じ力で突き、そして引き抜いた。
「どうやったら……あなたを……倒せる?」
気づいたら、ラボールはそう口走っていた。言ってしまってから、慌てて口を押さえたが、遅すぎた。
大男の力量は明白だった。生意気な子供の命など、蝋燭の火よりも簡単に吹き飛ばせるだろう。
大男はきょとんとした顔でラボールを見つめ、それから胸をそらして大笑した。
「はっはっはっは!」
今度はラボールが困惑する番だった。大男は目に涙を浮かべて笑っている。
「倒す? この私をか!」
やっと落ち着くと、少し真剣な眼差しを向けてきた。
「歳はいくつだ?」
「十」
ラボールが答えると、大男はうなずき、槍を返してきた。
「二年後、西部カレサス区の兵舎に来なさい。そこで入隊試験を受け、私の隊に入ることだ」
「なんで?」とラボールが言った。
「ここで修行を続けても、未来永劫私に勝つことなどできん。戦場に出て、死線を越えなければ。私の隊に入れ、ラボール。お前は見込みがある。戦場で輝く星となる素質が」
大男は一切のてらいなく、そう言い切った。
ラボールの心が震えた。全身が、手足の先までもが、発火したように熱くなった。こんなすごい人が、おれを認めてくれた。
絶対に無理だと思っていたこと。本当は心の底で望んでいたこと。
——本当は、おれだって……自分を信じてみたかった……。
「あなたの名前は?」
もう伝えることはないとばかりに、大股で立ち去ろうとする大男に、ラボールは最後に尋ねた。
大男は散々もったいぶった後、朗々と、歌うように答えた。
「よく覚えておけ。私はグレン。ビゴット公の懐刀にして、グラニド大陸全土に威を放つ、将の中の将——紫将だ!」
大男がいなくなると、ラボールはジオにこう宣言した。
「ジオ先生。おれ、紫将になりたい」
「やっかいなのに憧れたのう」
ジオはため息をつき、強い光をたたえた目でラボールを流し見た。
「本気なんじゃな?」
ラボールが頷くと、ジオは小屋の奥から、木の棒を持ってきて、構えた。
それは静かで、熟練と気迫を感じさせる所作だった。この瞬間から、ラボールは生徒ではなく、兵士を目指す者になったのだ。老師の構えがそれを伝えてくる。
のぞむところだ、とラボールは思った。
「構えぃ。二年などあっという間じゃ」
本当にあっという間だった。二年間の——厳しくなったジオの〝居残り指導〟は総じて楽しく……採掘場での仕事は吐き気がするほど辛かった。
夜更けから朝方まで石を集め、山で修行し、ジオの小屋、もしくは野山か街角で死んだように眠る。ラボールの日々は、大体このようなルーティーンの繰り返しだった。
たまに他の生徒から差し入れを貰ったり、監督に殴られて顔を腫らしたりといった、イレギュラーなことが起こりはしたが……。
グレンもたまにやってきて、気まぐれに技を披露してくれた。
花の月の二十二日、グレンに会ってちょうど二年後の今日、ラボールは支度をすませて小屋の前でジオと向き合っていた。
数日前、グレン隊兵舎の地図と、入隊試験の案内、そして道中の旅費が鳥によって届けられた。
いよいよ、ラボールの挑戦が始まるのだ。
それは同時に、もし入隊できれば、当分の間ジオと会えなくなることを意味していた。
「ジオ先生。今まで本当に……」
そこまで言って、ラボールは言葉に詰まった。鼻がツンとして、唇が震える。……あまり寝てないせいかもしれない。
うつむいてしまったラボールの肩に、ジオは気楽に手を置いた。まるでピクニックに行く若者を送り出すように、
「辛くなったら、いつでも帰ってくるんじゃよ。ここがおぬしの家で——儂はおぬしの親も同然なんじゃからな」と言った。
ラボールは、がばっと顔を上げ、老師のしわだらけの手を両手で握った。彼は優しく笑っていた。
——この人は、おれに、帰る場所と確かな技をくれた。おれはもう、自分に価値が無いなんて思わない。この人にもらった幸せを、抱きしめながら生きてこう。
「ありがとう……ございましたっ……!」
口から出た言葉はひどく小さかった。それでもジオは大きく頷いてくれた。
師弟は最後に抱擁を交わし、ようやくラボールは旅路についた。
「行ってきます」
山の半ばまで下ったところで、ラボールは山腹を振り仰いだ。すると小屋の前で名残りおしげにたたずむ、腰の曲がった老人の姿が見えたので、またごしごしと目元をぬぐわなければならなかった。
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