4章
機巧人形のポラリスが傾く_1
――暗闇の中、遠くで何かが聞こえた気がした。
(……何?)
暗くて、深い、海の中。
音がくぐもって、ぼやけて、輪郭を持たない。
ここは静かだ。
何も考えなくて良い……。
彼女は深い海に沈む。
「……リディア」
(…………私?)
微かに、低くて、あたたかい声。
それが、何度も。何度も、繰り返されていた。
「……もう一度、君の声が聞きたい」
暗い海のなかに、かすかに光が差した。
(ああ……この声、知ってる)
触れるような、掴めないような、やさしい気配。
***
身体が重い。その違和感が最初に来た。
見覚えのない天井。静かな空間。
寝室のようだが調度品は少なく、綺麗に整えられている。
リディアはゆっくりと身を起こしかけて、ベッドの隣に腰掛けていた人影に気づき、小さく息を呑んだ。
「少佐……?」
カイルだった。椅子に座り、腕を組んで目を閉じていたが、声に反応して目を開けた。
「良かった……体調はどうだ」
すぐに身を乗り出し、リディアの顔を覗き込む。
その顔には、はっきりと安堵の色が浮かんでいた。
(いや……ち、近い……)
カイルの手がそっとリディアの頬に触れかけ、そして一瞬、止まる。
ためらいののち、彼は静かに両手でリディアの頬を包んだ。
光を纏った碧翠色の瞳がまっすぐとこちらを見る。何度も見てきたはずなのに――その目だけは、どうにも慣れそうになかった。
寝起きの顔をまじまじと見られて、リディアはすぐにでも布団に潜り込みたくなった。
「あ、あの……大丈夫ですから……」
なので離してください、と言外に呟いた。
カイルのような美しい顔に、こんな距離で見せられるような顔など持ち合わせていない。
その意を汲んだのか、カイルはそっと手を放し、椅子へと腰を戻した。
「本当にすまなかった。……あんなこと、許されるとは思っていない」
静かに、深く頭を下げる。その謝罪に、リディアは言葉を失った。
ゆっくりと、首筋に手を当てる。うっすらと残る痛みが、確かにあった。
「少佐は何も悪くありません。こうやって生きてますし、気にしないでください」
喉の痛みはまだ残っているようだったが、とくに問題もなさそうだ。
(……よかった。もし、止められなかったら、この人はどれだけ自分を責めただろう。――こんなに美しくて、優しい人に、そんなかげりができなくて……本当によかった)
本心から、リディアはそう思った。
「君には、頭が上がらない。やっと……長く求めていた答えにたどり着けた」
リディアはゆっくり頷いた。
「あの時……ヴェルナー先生が装置を操作していました。少佐はどこまで覚えてますか?」
「それが……」
珍しく言葉を濁し、目を逸らすカイルに、リディアは首を傾げた。
「君の声が、したんだ」
「私の声?」
「名前を呼ばれて、それで、気づいたら君の首を。あれは……」
「いえ、それは少佐の意志ではありません」
リディアはきっぱりと断言する。
「あの時、声がして止めようとしているうちに……急に自由が利くようになった」
リディアは起き上がり、壁にかけられていたジャケットのポケットから波型調律機を取り出した。
「私はあの時、これを操作しました。装置の魔力波に干渉させて安全装置を作動させるんです」
「安全装置?」
「私が保管庫に侵入した方法と仕組みは同じです。緊急時の状態を魔力波への干渉で擬似的に作れます」
「……君ってやつは」
カイルの表情に、呆れとも感心ともつかない色が浮かぶ。リディアは見なかったことにした。
「けれど、これを作動させる前に、少し、力が弱まった気がしたんです。……少佐が、自分の力で抗っていたような。災厄と言われた……あの日もあれと同じだったんでしょう。誰かが少佐を操っていた。でも今回は、少佐の意志で止められたんですね」
完全ではなかったかもしれませんが、とリディアは続ける。
カイルは言葉なく、自身の両手を見つめた。
「……それでも、君を傷つけた」
「少佐は私のこと、そんなに殺したかったんですか?」
リディアは俯いたカイルの視線に割り込んで聞いた。カイルははっとした顔で見返す。
「そんなわけないだろう」
「なら、もう気にしないでください。私も助けていただいて感謝してます。何も許せないことなどありません」
それよりも、とリディアは周りを見渡す。
窓から差す陽光がまぶしい。
ベッドはひとつ。カイルはずっと椅子に座ってたのだろうか、とリディアは気付く。申し訳なさと同時に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ここは……どこですか?」
「帝都の外れ、昔買った貸間だ。あまり使っていないが、しばらくは安全だろう」
カイルは茶を淹れると言って、寝室から出て行く。リディアもそのままついて行くことにした。
(……誰かに知られる前に、ひとまず落ち着ける場所を選んだのかもしれない……本当なら、もう仕事に行かないといけないのに)
けれど、今あの職場に顔を出す勇気はなかった。
魔技研の上層部に、ヴェルナーの研究所にいたことが知られていたら――それだけで、処分対象になる可能性もある。
公式の立場では、あの部屋は存在していないことになっているのかもしれない。
いっそ自分の行動そのものが見逃されていれば……と思わずにはいられなかった。
「……昨日、どうしてあの場所に来たんですか?」
リディアが尋ねると、湯を沸かしていたカイルが一度だけ振り返った。
「……報告書が出ていなかった。君が期限を守らないなんてことをするとは思えなかった」
ぽこぽこと湯が沸き始める音が、室内に満ちる。
「君とヴェルナーのやり取りを思い出した。まさかとは思ったが……また、一人で行ったんじゃないかと」
言葉がそこで途切れた。カイルは視線を落とし、小さく吐息をついた。
「……放っておけなかった」
その一言が、静かに胸に染み込んだ。
(……でも、それだけであそこまで来られるものだろうか。命令があったとは思えない。もしそうなら、少佐も……)
軍の規律を破ってまで、あの場に来たのだとしたら。
彼は、自分の立場を危うくしてまで――。
リディアは、罪悪感を覚える。
カイルが差し出してくれた紅茶のカップからは、優しい香りが立ちのぼっていた。リディアの好きな香りだった。
(こんなふうに、誰かに心配されるのなんて……いつ以来だろう)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……ありがとうございます。来ていただけて、本当によかったです」
「……中にいたあの被験者の男を放っておくわけにはいかない。だが、あの実験室が正式な許可のもとで動いていたなら、通報だけでは揉み消される。……確実な証拠と後ろ盾が要る」
リディアは小さく頷いた。防御装置の中で意識を奪われていたあの男――兵士か、捕虜か、あるいは……。
(でも、急がないと……命が危ない)
「あの装置にいた者も、操作されていたのか?」
カイルが問う。リディアは頷きかけ、すぐに口を開いた。
「……おそらく。耐久実験だと言ってました。ただ、防御装置そのものに人を操作する機構はないはずなんです。中の人と繋がる回路もなかった。だから、別の装置か、何かを身に着けていた可能性が」
ふと、カイルの左手に視線が向く。
「……少佐。普段、身につけている装備って、その指輪だけですか?」
「指輪は常にだな。携行用の装備はいくつかあるが、昨日はあと魔導銃くらいだ。……なぜだ?」
「……あの彼も、似たものを着けていたのかもしれません。少佐、その指輪……いつから?」
「災厄などと呼ばれるようになった少し前だから……三年、いや、四年近くになるか」
リディアは指輪をじっと見た。太めの銀色の指輪に、琥珀色の石が据え付けられている。その石が魔導核なのだろう。
「外したことは?」
カイルは一瞬だけ考え、わずかに眉を寄せた。
「……以前一度だけ試そうとした。だが、魔力が乱れて干渉が起きた。適合が崩れるとか何とか言われて……それ以来ずっと着けたままだ」
リディアの表情が、わずかに揺れた。
(あのとき、調律を戻したとき、波形がぶつかった。それが解除の引き金になったのかもしれない)
「……今は、どうですか?」
「今?」
カイルは指輪に視線を落とす。
「……特に何も。干渉も感じないし、気配も静かだ。……何か変か?」
静かにそう言ってから、カイルはほんのわずかに逡巡し、右手を上げた。
そして、そっと指輪を外す。
リディアは息を呑む。
「……大丈夫、だな。今は何も起きない」
カイルの声には、ほのかな安堵が混じっていた。
「いえ、ただ……魔力干渉で止まっているなら、指輪への干渉も解けている可能性があります」
リディアは息を呑んだ。脳裏に浮かぶのは、ヴェルナーが言っていた新型兵装の式典。
昨日、制御室で見せられたものは、父の回路とは異なっていた。
(私が助言したと言っていたもの――あれは小型防御装置と似た機構だから、安全弁が切れる……)
そして、カイルの言うその頃──五年前、父の亡くなった頃の話だ。
手にしたカップが、きゅっと鳴った。紅茶の表面が揺れる。
寒気に似た感覚が、リディアの背筋を撫でた。
「ラズロ・ノヴァーク……聞いたことがあるか?」
カイルの問いに、リディアは顔を上げる。
「博士と一緒に基礎研究をしていた男だ。だが、五年前に失踪した。軍でも追跡はしていたが、結局消息不明とされている」
「失踪……」
(でも、じゃあなぜ……)
リディアの胸に、ふとひとつの記憶がよぎる。
「……そういえば昔、父が技術者仲間の集まりがあると言ってた場所があって。ときどき足を運んでました。小さな技術館で……私は詳しく知らないんですが……」
カイルは、ゆっくりと頷いた。
「行こう。……確かめる価値はある」
リディアは驚いたように目を見開いた。そんな彼女に、カイルは少しだけ口元を緩める。
「……もう、一人で乗り込むのはやめてくれ。心臓に悪い」
その苦笑が、リディアの胸にじんと染み込んだ。
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