第三章:剥がれ落ちた仮面
その朝も、莉子はいつものように微かな期待を込めてスマートフォンを手に取った。『リアルボイス』の通知をチェックし、コミュニティのグループチャットに朝の挨拶を投稿する。
『今日もポジティブなエネルギーで、最高の自分を更新しましょう! #ライフリデザイン #朝活 #感謝』――。入力しながら、一瞬、昨夜投稿した「いいね!」の伸びが鈍いことに胸がざわついたが、すぐに『大丈夫、午後にまた伸びるわ』と打ち消した。まだ眠っている大翔と陽向の寝息だけが聞こえる薄暗いリビングで、莉子はいつものように、作り物の光で心の隙間を埋めようとしていた。
異変は、何気なくつけていたローカル情報番組の短いニュースコーナーからもたらされた。
地域イベントの告知や天気予報の合間に、アナウンサーが事務的な口調でこう伝えたのだ。
「都内で活動している、自称自己啓発セミナーの主催者が、特定商取引法違反および詐欺の疑いで昨日逮捕されました。当該主催者は『人生を変える』などと謳い、高額なセミナー契約を結ばせていたとみられ、警察は余罪についても捜査を進めています」
その瞬間、莉子の心臓がドクンと跳ねた。『自己啓発セミナー』『高額契約』――嫌な予感が脳裏を掠める。まさか、とは思ったが、指は勝手にスマートフォンの検索窓をタップしていた。
『セミナー 主催者 逮捕』
そして表示された検索結果の羅列の中に、見慣れた名前を見つけてしまった。
『【悲報】ライフリデザイン・アカデミーの神宮寺慧、詐欺で逮捕www』
『やっぱりな!胡散臭いと思ってたんだよ、あのキラキラ集団笑』
『信者息してるー?w 養分乙!』
匿名掲示板やSNSは、既に祭りのような騒ぎになっていた。神宮寺慧の名前と共に、アカデミーの悪評、信者たちの盲信ぶりを嘲笑するコメントが、滝のように流れていく。神宮寺は一部のネットウォッチャーの間で『怪しいコミュニティの教祖』として密かに噂されており、その逮捕は格好の燃料となったのだ。コミュニティのグループチャットは、莉子が見る間もなく阿鼻叫喚の様相を呈していた。『嘘だと言って!』『先生がそんなことするはずない!』『何かの間違いだ!』と。信者たちの悲鳴が飛び交う中、莉子は血の気が引くのを感じた。
そして、その炎は容赦なく莉子個人にも襲いかかった。莉子はアカデミーの中でも特に積極的にSNSで活動し、神宮寺との関係性を匂わせる投稿も多かったため、『神宮寺の一番弟子』『詐欺の片棒担ぎ』『キラキラ詐欺師』として攻撃の的となったのだ。『リアルボイス』のコメント欄は、瞬く間に誹謗中傷の嵐で埋め尽くされた。
『お前もグルだろ!金返せ!』
『よくもまあ、あんな嘘八百の投稿できたもんだな!』
『#自分磨き じゃなくて #他人騙し だろ?』
『子供たちが可哀想。こんな母親で。許せない』
かつて承認欲求を満たしてくれた『いいね!』や称賛の言葉は跡形もなく消え去り、画面をスクロールする指が震えた。通知の着信音は悪夢の呼び鈴のように鳴り続け、莉子はたまらずスマホをソファに投げ捨てた。しかし、頭の中では、罵声と嘲笑が幻聴のように鳴り響いていた。信じていた世界の崩壊、そして自分が世間から『犯罪者の仲間』として断罪されているという現実に、思考が完全に停止した。
追い打ちをかけるように、経済的な破綻が現実のものとなって押し寄せてきた。
神宮寺逮捕の報道が広まると、アカデミー経由で紹介された数少ないクライアントたちから、返金を求める連絡がメールやDMで届き始めた。その中に、以前カウンセリングを途中で打ち切った中村さんからの、SNSのDMがあった。莉子が恐る恐る開いたそのメッセージは、冷静な文面ながらも、抑えきれない激しい憤りが滲み出ていた。
『朝比奈様。この度は神宮寺氏の件、ネットの騒ぎで知りました。やはり、という思いと同時に、あなたへの深い失望と怒りを覚えます。あの時、あなたは私の言葉のどこに耳を傾けていたのでしょうか。ただ表面をなぞったような、あの神宮寺氏の薄っぺらいポジティブという言葉を、壊れた人形のように繰り返すばかり。人の心の深淵に触れることの畏れも、責任も感じさせないあなたの姿は、滑稽でさえありました。あなたが振りまいた根拠のない大丈夫が、どれほど私を追い詰め、孤独を深めたか。今、この状況になって少しは想像できるのでしょうか。それとも、今もまだ自分も被害者だとでもお考えですか? あなたが何の自覚もなく行使していたカウンセラーという名の暴力の責任を、一体どう取るつもりなのですか。あなたにとって、私たちの悩みは、あなたの空虚な自己満足を満たすための道具に過ぎなかったのでしょうね。恥を知りなさい。』
一読して、全身から血の気が引いた。中村さんの言葉は鋭く、莉子の心の最も痛い部分を抉った。信じていたものは『空虚な自己満足』や『暴力』だった。ロールプレイングで神宮寺に「その存在そのものが、相手に勇気を与えるんですよ!」と褒められた言葉が、今は悪魔の囁きのように蘇る。自分はただ、神宮寺の操り人形として、彼の教えを盲信し、無自覚に人を傷つけていただけだったのだ。その事実に、莉子は言葉を失い、ただただ涙を流すしかなかった。
高額なセミナー代や教材費のために、子供たちには絶対に知られてはならないと誓ったはずの消費者金融からの借金は、既に雪だるま式に膨れ上がっていた。神宮寺のコミュニティでの『成功』を夢見て、収入も不安定なまま借り入れを重ねたツケが一気に回ってきたのだ。
督促の電話は日に日に激しさを増し、郵便受けには赤い文字で『最終通告』と書かれた封筒が何通も投げ込まれていた。家賃も既に数ヶ月滞納しており、大家からは内容証明郵便で立ち退き勧告が届いていた。かつて神宮寺から「子供たちの学費に手を付けてでも、この海外リトリートに参加すれば人生が変わりますよ!」と甘言を囁かれ、一瞬心が揺らいだことを思い出し、莉子は激しい自己嫌悪に襲われた。家族を犠牲にしてまで追い求めた輝きの果てが、これだった。
家の中は、莉子の心の荒廃を映すかのように荒れ果てていた。洗い物の溜まったシンク、床に散乱する洗濯物、ホコリを被った家具。かつてSNSにアップしていた、整えられたように見えた部屋が、とたんに現実味を帯びているように見えた。莉子は食事もろくに喉を通らず、夜も眠れない日が続き、数日間、ほとんど布団から出られずに過ごした。ただ虚ろな目で天井を見つめ、過去の自分の愚かさと、迫りくる破滅への恐怖に震えるだけだった。
そんな母親の姿を、子供たちは息を潜めて見ていた。特に、中学一年生の心美の目は、日に日に冷たさを増していった。彼女は、母親が信奉していた神宮寺という男の本性も、母親がSNSで見せていた虚飾も、そしてそのために家庭が崩壊していく様も、全て理解していた。母親の口から語られる『ポジティブ思考』や『自己実現』といった言葉が、いかに空虚で、現実逃避のための言い訳に過ぎなかったかを知っていたのだ。
数日後、莉子がようやく重い体を起こし、虚ろな足取りでリビングに出ると、そこには誰もいなかった。大翔と陽向は、おもちゃを広げたまま、部屋の隅で小さな声で何かを話している。心美の姿が見えない。
「心美は…?」
まだ午前中だ。疑問が口をついて出る。大翔が、不安げな目で莉子を見上げ、おずおずと姉の部屋を指さした。嫌な予感が背筋を走る。莉子は、よろけるように心美の部屋に向かった。ドアを開けると、がらんとした空気が漂っていた。ベッドは整えられ、クローゼットの扉が少し開いている。そして、机の上に、一枚のノートが開いて置かれているのが見えた。震える手でそれを手に取る。それは、心美の文字で綴られた置き手紙だった。
『ママへ
わたしは、もうママの嘘には付き合えません。
ママがいつも言っていた「キラキラした生活」よりも、わたしは普通の静かな生活がしたいです。
神宮寺さんという人がつかまって、ママはすごくつらそうだけど、わたしは正直、これでよかったのかもしれないと思っています。
大翔と陽向のことも心配だけど、わたしはもう限界です。
お父さんのところへ行きます。お父さんには、昨日電話して話しました。
ごめんなさい。
心美』
ノートが、莉子の手から滑り落ちた。
「ここみ……? 心美!」
声にならない叫びが喉の奥でつかえる。クローゼットの中を覗くと、普段使っていたリュックサックと、いくつかの衣類がなくなっているのがわかった。机の上の、大切にしていた小さなぬいぐるみだけが、ぽつんと残されている。部屋の隅には、かつて莉子に見向きもされずに置きっぱなしになっていた、『私の将来の夢』という題名の、白紙のままの作文用紙が虚しく落ちていた。莉子が絶望の淵で意識を失っている間に、心美は静かに、しかし確かな決意を持って、この家を、母親の元を去って行ったのだ。
莉子は、その場にへなへなと座り込んだ。嗚咽が漏れ、涙が止まらなかった。自分が追い求めた虚像のために、一番大切な娘を失ってしまった。娘の心の叫びに、気づくことすらできなかった。自分の愚かさが、骨身に沁みた。
残された大翔と陽向は、変わり果てた母親の姿と、姉の突然の不在に、ますます怯えるようになった。莉子が声をかけても、ビクッと肩を震わせ、小さな声で返事をするだけ。かつての明るい笑顔は完全に消え、リビングの隅で二人寄り添い、不安げな目で莉子を見つめている。その視線が、莉子の胸をさらに締め付けた。
マンションの立ち退きの期日は、刻一刻と迫っていた。手元に残されたわずかなお金では、新しい住まいを見つけることなど到底不可能だった。親戚に助けを求めることも考えたが、過保護に育てられた三女としてのプライドと、これまでの自分の振る舞いへの羞恥心、そして『失敗者』として憐れまれることへの恐怖が、電話を手に取ることをためらわせた。
かつて、神宮寺のコミュニティで『私は新しいステージに進んだ。夫はついてこれなかっただけ』と豪語した自分の姿が脳裏をよぎる。祐介が早々にコミュニティの不健全さを見抜いていたことも、今更ながらに理解できた。だが、もう遅すぎた。
数日後、雨が降りしきる早朝、莉子は眠る大翔と陽向の手を固く握りしめ、最低限の荷物だけを詰めたバッグを肩に、住み慣れたアパートを後にした。SNSで輝いていたはずの『ライフリデザイン・ナビゲーター 朝比奈莉子』は、もうどこにもいなかった。そこにいたのは、全てを失い、幼い子供二人を抱え、ただ途方に暮れるだけの、空っぽの母親だった。虚像は完全に崩れ落ち、残されたのは、底なしの絶望と、失われたものの重さだけだった。
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