第二章:万華鏡の旋律

午前二時の柔らかなスマートフォンの光は、莉子のささくれた心に麻酔のように作用していた。


昨夜投稿した『新しい仲間との出会いに感謝! 高め合えるって最高! #ライフリデザイン #自分革命 #次のステージへ』という投稿には、すでに予想を超える『いいね!』と『莉子さん、いつも輝いていますね!』『応援しています!』といったコメントが並んでいる。その一つ一つが、莉子の疲弊した神経に染み渡る甘い蜜だった。これがなければ、自分はとっくに潰れていたかもしれない。


神宮寺慧の主宰する『ライフリデザイン・アカデミー』のコミュニティ活動は、莉子の日常を急速に侵食していった。週末に開催される『特別フォローアップセミナー』は、もはや莉子の生活の中心だった。午前中から始まるそれは、休憩を挟みつつも夜遅くまで続くことが常だった。神宮寺は壇上で、時に涙ながらに、時に力強く、参加者たちの『潜在能力』を賛美し、過去のトラウマからの解放を謳った。


「皆さんは、ダイヤモンドの原石なんです! 磨けば必ず光る! 私が、この神宮寺慧が、その輝きを保証します!」


その言葉に、会場は熱狂的な拍手と歓声で応える。


「みんな一緒に!」「やったね!」


拳を突き上げ、声を揃える。莉子もその輪の中にいた。ここでは誰も自分を否定しない。誰もが「素晴らしい」「莉子さんならできる」と称賛してくれる。学校のPTAや近所のママ友たちの、値踏みするような視線や、噂話のひそひそ声とは無縁の世界。日常で感じる疎外感が深まるほど、莉子はこの全肯定の空間に強く惹きつけられていった。


しかし、その肯定は、時に異様なほどの画一性を伴った。神宮寺が「ネガティブな感情は、成功を遠ざける最大の敵です!」と宣言すれば、参加者たちは一斉に頷き、SNSには『#ネガティブ思考撲滅』『#ポジティブシンキング実践中』といったハッシュタグが溢れた。

コミュニティ内のグループチャットでは、誰かが教えに異論を唱えるものなら、『それは神宮寺先生の教えに反してます!しっかりと理解を深めましょう!』『ネガティブモードになってますよ!もっと前向きに!』のようなコメントが並ぶ。いつしか、それは信者同士の相互監視のような雰囲気を帯び始めていたが、熱狂の中にいる莉子には、その歪みが見えなかった。


念願の『ライフリデザイン・ナビゲーター』として、莉子はついに個別のカウンセリングも始めた。アカデミーから紹介された数少ないクライアント。初回の面談では、神宮寺に褒められた『存在そのものがカウンセリング』という言葉を胸に、自信満々で臨んだ。


最初のクライアントは、中村と名乗る40代の女性だった。夫とのコミュニケーションがうまくいかず、孤独感を深めているという。莉子は、神宮寺のセミナーで学んだ『傾聴』のテクニック通り、神妙な顔で頷き続けた。


「夫は、私が何を言っても『またその話か』と聞く耳を持ってくれないんです。仕事で疲れているのはわかるんですけど、私も毎日、家事と育児で…もう、何のために一緒にいるのか…」


中村さんの声は震え、目には涙が滲んでいた。その姿に、莉子はかつての自分を重ねた。離婚前の祐介との冷え切った関係。そして、祐介が自分の『進化』についてこられなかったのだという、自分本位な解釈。


「わかる!わかりますよ、そのお気持ち!」


莉子は、中村さんの言葉を遮るように、力強く言った。


「でもね、中村さん。ご主人に変わってもらおうなんて思ったらダメなんです。まずは中村さん自身が輝くこと! 中村さんがライフリデザインを実践して、キラキラ輝けば、ご主人もきっと気づいてくれます! 私もそうだったんですから!」


莉子は、アカデミーで叩き込まれた成功体験。正確には、そう信じ込まされた自分の体験を熱っぽく語った。中村さんは、最初こそ戸惑ったような表情を浮かべていたが、やがて伏し目がちに口を開いた。


「でも…私はただ、夫に話を聞いてほしいだけで…そんな、キラキラとか…」

「ダメですよ、そんな弱気じゃ! 神宮寺先生も仰っています。『思考が現実を創る』って! 中村さんが『どうせ無理』って思っていたら、何も変わりません! さあ、私と一緒に新しい扉を開きましょう!」


莉子の言葉は、一方的だった。神宮寺から渡された教材には『クライアントの可能性を100%信じ、力強く背中を押すこと』とあった。その通りに実践しているつもりだった。しかし、中村さんは、二度目のカウンセリングの予約をキャンセルしてきた。メールには、たった一言、『求めているものと違いました』とだけ書かれていた。莉子は一瞬戸惑ったものの、「まだ本気で変わりたくない人だったのね。残念だわ」とすぐに思考を切り替えた。自分は間違っていない。神宮寺先生の教えは絶対なのだから。


その後も、数人のクライアントが莉子の元を訪れたが、長続きする者はいなかった。莉子のカウンセリングは、相手の心の深層に寄り添うことなく、表面的な励ましと、神宮寺の教えの受け売りに終始した。誰かの悩みに耳を傾けているはずなのに、気づけば自分の『成功体験』やコミュニティの素晴らしさを語っていることが多かった。それは、誰よりも莉子自身が、その『成功』を信じたがっていたからかもしれない。


SNS『リアルボイス』での莉子は、ますます『活躍する私』を演出し続けた。


『今日は朝から晩までクライアント様とのセッション! 皆様の笑顔が私のエネルギーの源です♡ #ライフリデザインナビゲーター #やりがい #感謝しかない #今日も最幸』


実際には、ドタキャンや継続拒否が相次ぎ、スケジュール帳はスカスカだったが、そんな現実は微塵も見せない。セミナー仲間との華やかなランチミーティングの写真、神宮寺先生とのツーショットを載せ続けた。神宮寺とは、偶然撮れたものを、あたかも親密であるかのようにストーリー立てたものだ。


『#人生楽しんだもん勝ち』『#ママだって輝ける』『#憧れの私になる』といったハッシュタグが、空虚な現実を覆い隠すベールのように莉子を包んだ。


しかし、そのベールは薄く、実生活での孤立は確実に進行していた。以前は挨拶を交わしていた近所のママ友たちは、莉子の異様なまでのハイテンションなSNS投稿や、子供たちの送迎時にまで手放さないスマホ、そしてどこか浮世離れした言動に、次第に距離を置くようになっていた。学校の保護者会の集まりに誘われることもなくなり、スーパーで顔を合わせても、気まずそうな笑顔で会釈されるだけになった。莉子はそれを、『ステージの違う人たちには、もう私のことは理解できないのよ!』と強気で解釈しようとしたが、ふとした瞬間に襲ってくる孤独感は、SNSの『いいね!』では埋めきれなかった。


その歪みは、家庭内にも暗い影を落とし始めていた。


「ママ、またスマホ? 心美の宿題、見てくれないの?」


リビングのソファに深く身を沈め、一心不乱に『リアルボイス』のタイムラインを追いかける莉子に、中学一年生の長女・心美が不機嫌そうな声をかけた。莉子は、画面から目を離さないまま、上の空で答える。


「ごめんごめん、ママ今、大事なクライアントさんからの連絡待ってるから。後でね」

「……いつも後でじゃん」


心美の呟きは小さく、莉子の耳には届かなかったか、あるいは届いても意に介さなかった。彼女の表情には、諦めと、母親への軽蔑にも似た冷めた色が浮かんでいた。幼い頃は「ママ大好き!」と無邪気にまとわりついてきた長女は、いつの間にか母親の言動を冷静に観察するようになっていた。莉子がSNSに投稿する、現実とはかけ離れた『キラキラした日常』や、子供たちに向けられるべき時間でさえも、神宮寺や見ず知らずの『信者』たちのために費やされていることにも気づいていた。


食卓に並ぶのはスーパーの惣菜が増え、朝食が菓子パンだった日もあった。部屋は散らかり放題だが、撮影用によく使うスペースだけは小綺麗に整頓されている。母親の口から出るのは、神宮寺先生という人物の言葉と、コミュニティの自慢話ばかり。心美は、母親が語る『輝く未来』よりも、ただ静かで穏やかな普通の毎日を渇望していた。


ある晩、莉子は神宮寺から『特別選抜メンバー限定』と称する、高額な海外リトリートの告知を受け取った。『自分をさらに高め、真のリーダーへと進化するための究極の投資』と謳われたその参加費は、莉子の乏しい貯金では到底足りず、子供たちのためにコツコツと貯めてきた学資保険に手を付けなければならないほどの金額だった。一瞬、心が揺れた。これを払えば、もっとすごい自分になれるのかもしれない。神宮寺先生にもっと認めてもらえるかもしれない。子供たちの将来も大事だけど、私がもっと輝けば、結局は子供たちのためになるんじゃないか……。その危険な思考に、莉子は危うく飲み込まれそうになった。かろうじて踏みとどまったものの、自分の心がそこまで金銭感覚を麻痺させていることに、薄ら寒いものを感じた。だが、その感覚も、すぐにコミュニティの熱狂と、神宮寺の甘言によって上書きされていった。


大翔と陽向は、そんな母親の不安定な状態を敏感に感じ取っていた。以前はよく笑っていた大翔は、リビングで母親がSNS用の自撮りを繰り返す姿を怯えた目で見つめ、陽向は些細なことで癇癪を起すことが増えた。莉子が作り笑顔でカメラに向かって『今日も最幸の私!みんなに愛と光を届けるよー!』とポーズをとる傍らで、子供たちの心は静かに冷え、凍りついていく。


コミュニティという名の閉鎖的な空間では称賛と共感を得られても、一歩外に出れば、莉子を取り巻くのは冷ややかな視線と、積み重なる現実の問題だった。SNSの『いいね!』の数が増えるほど、家族との心の距離は開き、実生活の基盤はもろく崩れていく。莉子は、その矛盾に気づかないふりをし、ますますコミュニティの教えにしがみついた。加速する孤立の螺旋階段を、彼女は止まることなく進み続けていた。その先にあるのが、底なしの暗闇だとも知らずに。部屋の隅には、心美が母親に見向きもされずに置きっぱなしにした、書きかけの作文が落ちている。『私の将来の夢』という題名のそれは、白紙のままだった。

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