第四章:アスファルトに咲く

昼過ぎに住み慣れたマンションを追われた時、空にはまだ薄日が差していた。だが、莉子の心は鉛色の雲に覆われたまま、行き先も定まらぬまま子供たちの手を引いて歩き続けていた。


なけなしの金で買ったパンを公園のベンチで分け合い、子供たちには『ちょっとお散歩が長くなっちゃっただけ』と虚勢を張った。しかし、夕刻が近づくにつれ、空は急速にその表情を変え、冷たい風が吹き始めたかと思うと、ぽつりぽつりと大粒の雨が落ちてきた。あっという間に本降りになった雨を避けるため、莉子たちは公園の古びた東屋に身を寄せた。


冷たいベンチに座り、莉子は小さな大翔と陽向を自分のコートで必死に包み込もうとした。しかし、湿った空気は容赦なく体温を奪っていく。


「ママ……寒いよぅ……」


陽向が震える声で訴え、莉子の腕にしがみつく。


「おうち、帰りたい……おなかすいた……」


大翔も、目に涙を浮かべて莉子を見上げた。その言葉が、ぐさりと莉子の胸に突き刺さる。帰る家など、もうないのだ。


「ごめんね……もうちょっとだけ、ここで待ってようね……雨、止むかもしれないから……」


そう言うのが精一杯だった。荒れ果てた部屋、督促状の束、そして心美の置き手紙――脳裏に焼き付いた光景が、莉子を責め立てる。かつてSNSで切り取っていたキラキラした日常は、あまりにも脆く、あまりにも遠い幻想だった。


どうすればいいのか。この子たちをどうやって守ればいいのか。五人姉妹の三女として、常に誰かの顔色を窺い、褒められることでしか自分の価値を見出せなかった自分。情報を表面的にしか捉えられず、甘い言葉に安易に飛びついた結果がこれだ。子供たちの純粋な訴えに、莉子はただ唇を噛みしめることしかできなかった。


その時、雨音に混じって、か細い泣き声が聞こえてきたのは。


「……ママ……どこ……?」


東屋の入り口に近い、雨に濡れた植え込みの影から、小さな女の子が震えながら顔を覗かせた。年の頃は、陽向と同じくらいだろうか。雨に打たれてびしょ濡れになり、小さな肩を震わせている。


莉子は、ハッとして息を飲んだ。その怯えた瞳は、先程までの我が子たちの表情と重なり、胸が締め付けられる。そして、次の瞬間、莉子の心の中で何かが弾けた。それは、損得勘定でも、誰かへのアピールでもない、もっと根源的な衝動だった。


「大丈夫……? どうしたの?」


莉子は、我知らず声をかけていた。大翔と陽向に「ちょっと待っててね」と声をかけると、ゆっくりと少女に近づく。少女は警戒するように後ずさったが、莉子の必死な、しかし穏やかな声に、少しだけ動きを止めた。


「お母さんとはぐれちゃったの? 寒かったでしょう」


莉子の声は震えていた。それは、自分がこれまで身につけてきた「カウンセラー」の仮面を被った声ではなかった。ただ、目の前の小さな命を心配する、一人の人間としての声だった。


東屋に女の子を連れていき、莉子は自分の薄汚れたコートのボタンをいくつか外し、少女の小さな体を自分の体温で温めようとそっと引き寄せた。そして、先ほど自動販売機で自分のために買った、まだほんのり温かい缶のココアを思い出した。それは自分と子供たちで分け合おうと思っていたなけなしのものだったが、迷うことなくバッグから取り出し、蓋を開けて少女の冷え切った小さな手にそっと握らせた。


「これ、少し温かいから飲んで。ゆっくりね」

「ママ……えーん……」


温かい飲み物に少し安心したのか、少女はココアを一口飲むと、莉子の胸に顔をうずめ、声を上げて泣き出した。


「大丈夫、大丈夫よ。きっとすぐに見つかるから」


莉子は、少女の背中を優しくさすりながら、何度もそう繰り返した。その言葉は、かつてクライアントに向けていた、中身のない励ましとは全く違う響きを持っていた。それは、今の自分には何の根拠もない言葉のはずなのに、不思議と自分自身をも励ますように心に染み渡った。


大翔と陽向もそばに寄り、不安そうに、しかし心配そうにその様子を見ていた。莉子が少女を介抱する姿を見て、何かを感じ取ったのだろうか。大翔は、自分のポケットから、昼間に莉子が買ってくれたパンの、まだ食べていなかったひとかけらをそっと取り出し、おずおずと少女に差し出した。


「……これ、たべる?」


陽向も、自分の小さな手を少女の濡れた手にそっと重ねた。


その光景に、莉子の目から熱いものが込み上げてきた。これが、本当の『寄り添う』ということなのかもしれない。資格も、肩書も、SNSの『いいね!』も、ここには何もない。ただ、目の前の小さな痛みに、必死で手を差し伸べようとする想いがあるだけだ。


しばらくして、若い母親が血相を変えて公園に駆け込んできた。


「さくら! さくら!」


「ママ!」


少女は莉子の腕から飛び出すと、母親の元へ駆け寄った。


母親は泣きながら娘を抱きしめ、何度も安否を確かめると、深々と莉子に頭を下げた。


「本当に……本当にありがとうございました……! なんとお礼を申し上げたら……このココアまで……」


その言葉は、何の飾り気もない、心からの感謝だった。莉子は、ただ小さく首を横に振った。少女が、母親に促されて莉子の前に立った。


「おねえさん、ありがとう。あったかかったよ」


小さな手が、莉子の冷え切った手に触れる。その瞬間、温かいものが、莉子の心の中にじんわりと広がっていくのを感じた。それは、神宮寺のセミナーで感じた高揚感でも、SNSで『いいね!』がついた時の刹那的な満足感でもない、もっと深く、確かな温もりだった。


「どういたしまして。よかったね、お母さんに会えて」


莉子は、自然と微笑んでいた。その笑顔は、SNSに投稿するために作られたものではない、心からのものだった。


少女と母親が去った後、莉子は、震える手でスマートフォンを取り出した。祐介の番号を呼び出す。コール音が数回鳴った後、ぶっきらぼうだが、聞き慣れた声が聞こえた。


「……はい」


「……祐介? 私……莉子です」


莉子は、声を震わせながら、途切れ途切れに今の状況を話した。神宮寺のことも、家を追われたことも、心美が彼の元へ行ったことも。長い沈黙の後、祐介が重い口を開いた。


「……心美からは、話は聞いた。……わかった。子供たちのことだ、無下にはできん。夜になるが、迎えに行く」


その声には怒りと失望、そして疲労の色が濃かった。


「だがな、莉子。これはあんたのためじゃない。子供たちのためだ。あんた自身の問題は、あんた自身で何とかするんだな」


夜の帳が下りる頃、雨は上がっていた。しかし、街灯の光は湿った空気に滲み、不気味なほど静かな夜だった。祐介は約束通り、古いが手入れの行き届いた車で迎えに来てくれた。後部座席には、心美の姿もあった。彼女は莉子と目を合わせようとせず、ただ窓の外を暗い目で見つめていた。大翔と陽向は、父親の姿を見てほっとしたように駆け寄り、すぐに車に乗り込んだ。


「子供たちのことは心配するな。それより、お前自身の生活を立て直せ。それができなければ、母親として子供たちの前に立つ資格はない」


それが、祐介が莉子にかけた最後の言葉だった。車のテールランプが遠ざかっていくのを見送りながら、莉子は一人、闇の中に残された。


行く当てもなく、ただ足を前に進める。雨上がりの冷たい空気が肌を刺す。自分がどれほど愚かだったのか、どれほど多くのものを失ったのか、その実感が重くのしかかる。疲れ果て、ふと気づくと、どこかの公園の薄暗いベンチに力なく腰掛けていた。冷え切った体に、もう一歩も動けないほどの疲労感が襲う。


「……あんた、こんなとこでどうしたんだい」


しわがれた声に顔を上げると、年の頃は七十代だろうか、身なりの粗末な高齢の女性が立っていた。その目は、しかし、濁ってはおらず、じっと莉子を見据えている。ホームレスの人だろうか、と莉子は直感した。


「……寒そうだね。よかったら、こっちへ来なさい。雨風くらいはしのげるよ」


女性はそう言うと、莉子の返事を待たずにゆっくりと歩き出した。莉子は、何かに導かれるように、ふらつきながらその後を追った。


案内されたのは、公園の隅、大きな木の陰に段ボールやブルーシートで巧みに作られた小さな空間だった。中は意外なほど整頓されており、わずかな生活用品が置かれている。


「さ、おあがり。とりあえずこれでも食べて暖まりな」


女性はそう言って、古びたリュックから乾パンの袋と、少し潰れたおにぎりを差し出した。莉子が戸惑っていると、「遠慮はいらないよ。人間、食わなきゃ始まらないからね」とぶっきらぼうに笑った。


女性は、莉子の事情を深くは聞こうとしなかった。ただ、黙って隣に座り、自分も少し残っていたパンを齧っている。その無言の優しさが、かえって莉子の心に染みた。誰かに見せるためでも、何かを得るためでもない、ただそこにある善意。


その夜、莉子は女性の寝床の隅を借り、硬い段ボールの上で久しぶりに浅い眠りについた。誰かに評価されることも、誰かを騙すこともない、ただ息をしているだけの自分。そのことが、不思議な安堵感をもたらした。


翌朝、小鳥のさえずりで目を覚ますと、隣の女性はもう起きてどこかへ出かけた後らしかった。莉子が身じろぎすると、足元に散らばっていた古新聞や雑誌の間に、一冊のくしゃくしゃになった求人情報誌が挟まっているのが目に入った。


『清掃スタッフ募集、未経験者歓迎、資格不問』


その文字が、ぼんやりとしていた莉子の意識を鮮明にした。昨夜の出来事、迷子の少女の笑顔、祐介の厳しい言葉、そして名も知らぬ高齢女性の無償の優しさ。それらが一気に胸にこみ上げてくる。資格も肩書も、今は何もない。いや、元々自分には、実体のない虚像しかなかったのかもしれない。だが、今の自分には、昨夜分けてもらったパンの味と、段ボールの温もりが、確かなものとして残っている。


「……清掃の仕事……」


莉子は、その求人情報誌を震える手で拾い上げた。


五人姉妹の三女として、常に誰かと比較され、承認を求めてきた自分。これからは、誰のためでもない、自分自身の価値を、自分の力で見つけていくのだ。その道は険しく、遠いだろう。それでも、もう逃げるのはやめようと思った。


ふと顔を上げると、東の空が白み始め、昨日までの雨が嘘のように晴れ渡っていた。そして、その空に、淡く、小さな虹がかかっていた。それは、あまりにもささやかで、すぐに消えてしまいそうな光だったが、今の莉子にとっては、何よりも力強い希望の兆しに見えた。

空っぽだったはずの心に、雨上がりの小さな光が、確かに差し込み始めていた。物語は、まだ終わらない。朝比奈莉子の、本当の人生のリデザインが、今、静かに始まろうとしていた。

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空っぽのカウンセラー Mid Night @CROW02

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