空っぽのカウンセラー

Mid Night

第一章:渇望のプリズム

湿った夜気がリビングに満ちる。シンクには、夕食の片付けを先延ばしにした食器が小さな山を築き、洗い物を諦めた莉子の疲労感を物語っていた。三人の子供たちが寝静まった後、ようやく訪れる束の間の静寂。しかし、それは莉子にとって安らぎではなく、底なしの不安と焦燥感が際立つだけの時間だった。34歳、シングルマザーの朝比奈莉子は、指紋で曇ったスマートフォンの画面を漫然と滑らせていた。


『リアルボイス』と名付けられたSNSのタイムラインには、きらびやかな日常を切り取った投稿が洪水のように流れてくる。有名カフェのラテアート、海外旅行の美しい風景、ブランド物の新作バッグ。そして、『#自分磨き』『#なりたい自分になる』『#今日のコーデ』といったハッシュタグと共にアップされる、自信に満ち溢れた笑顔の自撮り。このSNSはコミュニティ作成機能もあり、オンラインサロンなどの空間としても活用されている。


「はあ……」


深いため息が、リビングの冷めた空気にかき消えた。自分だけが、こんな薄暗い部屋で、出口の見えないトンネルをさまよっているような気がしてならなかった。5人姉妹の三女として育った莉子は、常に姉や妹と比較され、褒められることで自分の価値を見出してきた。しかし、大人になるにつれて、誰かに認められる機会は減り、自己肯定感は知らず知らずのうちにすり減っていた。幼い頃から、物事の本質よりも、周囲の評価や目に見える成果に心を奪われがちな傾向があった。その自覚は薄く、ただ漠然とした生きづらさを抱えていた。


3年前、元夫・祐介との離婚が成立した。それは莉子にとって、人生の計画が大きく狂った瞬間であり、同時に『失敗者』の烙印を押されたような感覚に苛まれた出来事だった。生活は一変し、パートタイムの仕事を掛け持ちしても家計は常に火の車。


三人の子供たち、中学一年生の心美(ここみ)、小学四年生の大翔(ひろと)、そして小学1年生の陽向(ひなた)を一人で育てるという現実は、想像を絶するほど重く莉子の肩にのしかかっていた。子供たちの前では気丈に振る舞おうとしても、ふとした瞬間に襲ってくる絶望感は、莉子の心をじわじわと蝕んでいった。


「なんとかしなきゃ……このままじゃダメだ……」


その思いが強くなればなるほど、莉子はSNSの世界に救いを求めた。そして、ある日、画面に踊る広告のコピーが、彼女の目に強く焼き付いた。


『人生をリデザインする! 輝く未来を手に入れるための第一歩。ライフリデザイン・ナビゲーター養成講座、無料セミナー開催中!』


主催者は、神宮寺慧(けい)。写真の中の彼は、柔和な笑みを浮かべ、揺るぎない自信を湛えた瞳をしていた。スーツを着こなす姿を見てカリスマという言葉が、これほど自然に当てはまる人物も珍しいだろう、と莉子は直感的に思った。


藁にもすがりたい、という表現がこれほどしっくりくる瞬間はなかった。無料ならば、と軽い気持ちで申し込んだセミナー会場は、独特の熱気と期待感に満ちていた。集まったのは、莉子と同じように現状に何らかの不満や不安を抱え、変化を渇望しているような目をした男女がほとんどだった。


神宮寺慧は、ステージ上で、まるで魔法をかけるかのように言葉を紡いだ。彼の話術は巧みで、参加者の心を揺さぶるエピソードが散りばめられ、時折ユーモアを交えながらも、聴衆を飽きさせない。何時間にも及ぶセミナーだったが、会場全体が神宮寺の言葉に引き込まれ、不思議な一体感に包まれているように感じられた。


「あなたも変われるんです!」

「過去の自分にさよならを告げましょう!」


彼の力強い言葉が響き渡る。会場のあちこちから、嗚咽ともつかない声が漏れ聞こえた。そして、神宮寺の呼びかけに応えるように、「みんな一緒に!」「やったね!」という、会場全体で繰り返される力強いコール&レスポンス。莉子は、日常の閉塞感から解放されるような、不思議な高揚感を覚えていた。まるで、今まで見えなかった新しい扉が、目の前に現れたかのような感覚だった。


セミナーの最後、満を持して発表されたのが『ライフリデザイン・ナビゲーター』資格取得のための本講座だった。その受講料は、今の莉子には到底支払えるはずもない高額なものだった。


一瞬、現実が冷や水を浴びせるように意識をよぎる。しかし、神宮寺は穏やかながらも有無を言わせぬ口調で語りかける。


「これは投資です。未来の自分への最高の投資。このチャンスを掴むか否かで、あなたの未来は大きく変わるでしょう!」


周囲を見渡せば、興奮冷めやらぬ様子の参加者たちが、次々と契約書にサインしていくのが見えた。会場がざわつく中「契約書に名前を書くだけでも成功なんです!」と神宮寺の声が響き渡った。その熱気に押され、そして何よりも『変わりたい』『このまま終わりたくない』という強い思いに突き動かされ、莉子は、輝かしい未来への切符を手にしたような高揚感に包まれていた。気がつけば、彼女も契約書に震える手でサインをしていた。頭の片隅で、子供たちの顔がちらついたが、『これは子供たちのためでもあるんだ。私が輝けば、子供たちも幸せになれる』と自分に言い聞かせた。


足りない受講料の算段は、すぐにはつかなかった。しかし、ここで諦めたら何も変わらない、その一心で、祐介や子供たちには絶対に知られてはならない方法で資金を準備することを決意した。消費者金融の冷たいドアノブを握りしめた時の、指先の震えと、背徳感にも似た高揚感を、莉子は鮮明に記憶している。


神宮寺の一部の講座は無料参加枠があるという。その回には祐介も巻き込んで、一緒に参加した。同期のメンバーと写真を撮ったり、笑顔があふれるキラキラした時間に莉子は陶酔した。祐介は最初こそ熱気溢れる参加者に圧倒されつつも、そこに溶け込むように立ち振る舞っていた。しかし、次第に講座に参加することは少なくなっていった。


資格取得の勉強が始まると、莉子はSNS『リアルボイス』への投稿を通じて、新しい自分を表現しようと試みた。


『新しい学びをスタートしました! 未来の私、カモーン! #ライフリデザイン #自分磨き #夢を叶える』

『今日は仲間たちとスキルアップセミナー! ポジティブなエネルギーで満たされた一日でした♡ #自己投資 #キラキラ女子 #感謝』


そういった前向きな言葉と、セミナー仲間との充実した時間の写真は、少しずつだが確実に『いいね!』を集めた。それは莉子にとって、見えないトンネルの中に差し込む微かな光のように感じられた。誰かに認められている、応援されている。その感覚が、渇いた心を満たしていくようだった。コミュニティ内にはありのままの自分も晒し、全体公開の投稿にはキラキラした自分のポートフォリオが連なっていた。


しかし、その一方で、子供たちとの時間は確実に削られていった。


「ママ、またスマホ?」

「ねえ、今日の夕飯なあに?」


子供たちの声は、新しい世界に夢中な莉子の耳には、以前よりも遠く響くようになっていた。


祐介との離婚の原因は、複雑だった。もちろん、一つの出来事だけが理由ではない。しかし、莉子が神宮寺のコミュニティに足を踏み入れたことも、その引き金の一つではあっただろう。ある日のオンラインミーティングで、他の参加者に向けて莉子はこう発言してしまったのだ。


「私、このライフリデザイン・ナビゲーターの学びを始めてから、本当に毎日が充実していて。それってきっと新しい自分に生まれ変わったんです。以前の私とは違うステージに立ってて、夫とのパワーバランスが崩れてしまってるんです」


その言葉は、莉子にとっては率直な気持ちの吐露だったが、間接的にそれを知った祐介のプライドを深く傷つけた。祐介は最初こそ、神宮寺のオーラや熱意のある参加者達に影響を受け、参加した後はどこか元気が湧いてくるような感覚を抱いていた。しかし、だんだんと言葉にならない違和感を覚えて、講座に参加することに後ろ向きになっていた。


そんな中で、コミュニティメンバーから莉子の発言を知った祐介は、静かに、しかし確かな怒りを見せた。それからというもの、家の中での口論が増え、ある晩、些細なことで口論になった末に祐介がリビングの壁を殴りつけるという事件が起きた。それ以降、夫婦関係は急速に冷え込み、修復不可能な状態に陥ったのだ。莉子は、祐介が自分の変化を受け入れられなかったのだと感じていた。もっと輝く自分になれば、いつか祐介もわかってくれるかもしれない。そんな淡い期待と、もう後戻りはできないという決意がないまぜになっていた。


神宮寺のコミュニティ内では、カウンセリングのロールプレイングも行われた。ある日、莉子はカウンセラー役を割り当てられた。クライアント役の女性が、夫との関係に悩んでいると打ち明ける。


「夫が私の気持ちを全然わかってくれなくて……。話しかけても、いつも上の空で。もう、どうしたらいいのか……」


女性が悲しげに訴える言葉を聞きながら、莉子は強く共感した。そして、自分の経験を踏まえ、力強く言った。


「わかる!わかりますよ、その気持ち! でもね、そこで立ち止まっていたら何も変わらない! もっと自分を信じて、一歩踏み出す勇気を持たなきゃ! 大丈夫、私が全力でサポートしますから、あなたも絶対変われます!」


彼女の言葉には、迷いがなかった。ロールプレイングを監督していた神宮寺は、満足そうに頷き、莉子に声をかけた。


「素晴らしい! さすが莉子さん! その揺るぎない自信、その輝きこそが、人を導くんです! 細かいテクニックよりも、莉子さんのその存在そのものが、相手に勇気を与えるんですよ!」


神宮寺の言葉は、莉子の胸に温かい自信として染み渡った。自分でも誰かの役に立てるかもしれない。そんな確かな手応えを感じていた。莉子は、神宮寺の言葉を深く胸に刻んだ。理屈ではなく、自分のありのままの輝きで人を導く。それが自分のスタイルなのだと。


莉子のカウンセラーとしての第一歩は、こうして、確かな希望の光に照らされているかのように踏み出された。それが、やがて自分の足元をすくうことになる底なし沼への入り口だとは、まだ知る由もなかった。リビングの時計が午前二時を指し、莉子は少しでも多くの『いいね!』がつくような、魅力的な投稿の文面を考えながら、スマートフォンの柔らかな光を見つめていた。窓の外では、都会の夜が深い闇に包まれていたが、莉子の心は、明日への期待で微かに明るんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る