EP2 差違、襲撃。ー違和感の加速ー


“知ってしまった”少年が、最初に向き合うのは、

「誰に話すか」「誰を信じるか」という現実だった。


第2話では、禁忌目録を読んだ涼が、初めて芽依に真実を語ろうとします。

だが、支配の網は想像以上に深く、そして静かに──確実に、動き始めていた。


⸻ ⸻ ⸻


 人工照明がゆるやかに宵の明るさへと移行する頃、涼はそっと書斎の扉を閉じた。


 まだ微かに残る指先の熱は、禁忌目録の表紙に触れたときのそれだ。硬質な革の感触、沈んだ黒い墨の跡。そして、目を背けたくなるような――だが、どこか惹きつけられてしまう現実の文字列たち。


 世界は、思っていたようなものではなかった。


 その一歩を越えてしまった実感が、皮膚の下でじわじわと広がっていく。


 リビングからは、箸が茶碗に触れる音が聞こえてくる。炊き立ての米の香り、出汁の柔らかな香りが空気を包んでいる。ふと、常田の落ち着いた声が耳に届いた。


「タキ子さん、今日も夕飯とても美味しいよ。いつもありがとうな」


 変わらぬ穏やかな声音。心からの感謝が滲んでいて、そこに嘘はなかった。


 涼は、わずかに足を止める。扉の向こうにいる常田という存在が、今や、以前と同じようには見えない。


 (……あの人も、“統治”されてるのか?)


 疑うべきではない。けれど、目録に書かれていた情報が、否応なく“基準”を変えていく。


 食卓につくと、“仮の母”がにこやかに笑って皿を差し出した。肉じゃが、焼き魚、味噌汁、白米。何気ない夕飯。けれど、すべてが規格的で、どこか“模範的”すぎた。


 「涼、味噌汁、足りてるか?」


 常田の声に顔を上げる。相変わらずの穏やかさ。厳しい武道の師でありながら、食卓では家庭の父親だった。


 (……違和感は、ない)


 だからこそ、なおさら不可解だった。あれほどの“事実”を目にしてしまった後で、こんなにも変わらず人間らしく振る舞うこの男は、いったい何者なのか。


 (じゃあ……“俺”は?)


 涼の胸に、別の疑問が湧き上がる。


 (もし、ナノマシンと統治波によって、人々の思考や行動が“管理”されてるっていうなら……)


 (なぜ、俺はあんな“良くないこと”を考えることができる?)


 目録を読み終えてから、ずっと頭の奥でざわついている疑問。


 (俺は、何かが違うのか?)


 (それとも、統治がうまくいってないだけか? あるいは――俺にだけ、影響していない……?)


 湯気の向こうに見える常田は、まったく変わらず、優しい目で箸を進めていた。


 (……おっちゃんは、どうなんだ)


 そう思って観察してみても、どこにも“異常”はない。ただ静かに、正しく、日々を生きている。


 だが、涼の中には確かに“異常”が生まれていた。


 思考のどこかにひっかかっている記憶。明確に思い出せるわけではない。だが――。


 (肩を……抱かれた記憶がある)


 (「お前が世界を救うんだ」って、誰かが……いや、父さんが……?)


 幼い頃。まだすべてを知らず、何もわからないまま、大人の言葉に頷くだけだった自分。


 右目の義眼の奥に浮かぶのは、かすかに反応する赤い光。母を庇って倒れたときの、あの激しい痛み。砕けた視界、響く鼓動、そして抱き上げられた身体。


 (……なんなんだ、これ)


 目録の記述と、断片的な記憶が、ひとつの輪郭を形作り始めていた。


 (やっぱり……“俺”は、普通じゃないのかもしれない)


 (この世界の中で、“例外”なんじゃないのか)


 箸を置いた常田が、ふと涼に目をやる。


 「……疲れた顔してるな。食欲ないのか。」


 その言葉は、あまりにも自然で優しい。だが、今の涼には、どこか“演技”のように思えてしまう。


 その夜、涼は眠れなかった。


 暗闇の中、天井を見つめながら、何度も心の中で問う。


 (この世界は……何なんだ?)


 (そして、俺は……いったい“何者”なんだ?)





 翌朝。


 整いすぎた空が、今日も“夏らしさ”を模していた。人工太陽が生み出す熱と光は昨日と変わらず、第四層は湿度42%で安定。ARによって強調された蝉の声が街路樹から響き、道路脇のベンチには、涼しげな光を帯びた花が咲いている。


 けれど――


 「……嘘みたいに、いつも通りだな」


 通学路を歩きながら、涼は独りごちた。


 禁忌目録を読んだ。それは「読む」などという表層的な行為ではなく、“叩き込まれた”と表現すべき衝撃だった。


 だが、この街の人々は昨日と変わらず笑い、通勤し、信仰を捧げ、配給されたニュースに頷いている。常田も、芽依も、クラスメイトも、教師たちも。


 (……本当に、あれだけのことがこの世界の裏側にあるっていうのか?)


 揺らぎがあった。疑いもあった。だが、目にした事実の数々が、今目の前の「何も変わらない日常」と、あまりにも綺麗に噛み合っていた。


 “継ぎ目のない嘘”。“計算された秩序”。


 (もしも、統治波が、ナノマシンが、感情や思考を制御しているのだとしたら――)


 (なぜ、俺は……疑えている?)


 誰もが違和感を抱かずに生きているこの街で、自分だけが何かを疑っている。見えてはいけないものを見てしまったかのような、背筋の冷えを感じる。


 (じゃあ……俺は、他の奴らとは違うのか?)


 その自問は、恐怖に近かった。


 まるで、自分だけが世界から浮かされてしまったような。


 そして、その日、涼は昼休みに芽依を人気のない渡り廊下に呼び出した。



「昼休みにわざわざこんなところに呼び出して……どうしたのよ?」


 芽依がやや怪訝そうに訊ねる。涼は、しばらく無言だった。


 風が吹き抜ける。校舎の裏手、植物観察区域の端。人気はなく、遠くからは昼食を楽しむクラスメイトたちの笑い声が響いていた。


 やがて、涼はゆっくりと口を開いた。


「芽依……お前、《禁忌目録》って知ってるか?」


「……なにそれ?」


 即答だった。眉をひそめながらも、芽依の反応は自然だった。


「昨日、それを読んだ。……おっちゃんの書斎で。」


 涼は言葉を選びながら、まるで何かに怯えるように言葉を続ける。


「正直、内容は突飛だった。パンデミックは虚偽で、ワクチンは思考と行動を操作する為のナノマシン。メガツリーの外…外界にはまだ生活している人がいる。ありえない。陰謀論にしか見えなかった。最初は……笑ったよ。でも、考えれば考えるほど、整合性が……取れすぎてて」


「整合性?」


「ああ。あの記録に書かれてたこと、いちいち今の現実と……合いすぎてるんだ。あんなに嘘っぽい話なのに。――でももし、本当に、あれが真実だったらって」


 芽依は黙って話を聞いていた。涼は続ける。


「お前は……違和感を覚えたこと、ないか? 戦前の歴史資料によれば、年間2万人の自殺者がいたってのに、今では年間100人未満。テロや暴動、暴力装置による訴えを生まれてから見たことは?帝国内の会社の年間倒産率は?テストの点数は?たとえば、もっと宗教とか、英雄とか……“神の剣”とか…全てが、戦前の歴史資料に比べて“出来すぎている”……」


「……」


「昨日まで、俺もただ流されてた。でもさ――昨日読んでから、街が……全部“貼り付けたもの”に見える。なにもかもが、演出された安心感っていうか……」


「…………ありえない話じゃないね」


 ぽつりと、芽依が言った。


 涼は驚いたように芽依を見た。


「え?」


「私も……ときどき思ってた。おかしいって。なんで誰も疑問に思わないんだろうって。昔、家でテレビ見てたらね、急に画面が切り替わって、何か……音だけの警告が流れたの。でも、次の瞬間には私……なにが流れてたか、思い出せなかったの。母さんも父さんも一緒に見てたはずなのに、なんのことだって…」


 芽依の目が細められる。


「だから、その《禁忌目録》、私も見てみたい――」


 その瞬間、芽依が額を押さえ、身体をよろめかせた。


「……っ、あれ、なに……?」


「芽依!?」


 涼が慌てて駆け寄り、体を支える。


 芽依は苦しげに眉を寄せたまま、力なく笑った。


「あれ……ごめん、なんの話、してたっけ?」


 その言葉に、涼の背筋に冷たいものが走る。


「お前……」


「私……ちょっと、疲れてるのかな」


 やっぱり、ナノマシンの影響だ。思考の矛先を逸らし、記憶を遮断する、目録に書き記されていた機能。


 芽依は、軽く頭を振った。


 だが、次の瞬間。彼女の表情が再び強張る。


「……っ、う……!」


 強烈な頭痛に襲われる。呻き声を漏らしながら、その場に膝をつく。


「芽依っ!」


 抱き止めようとする涼の腕を、震えながら彼女は掴んだ。


「でも……違う。やっぱり違うの。私は、あなたを……それでも信じたい……」


 震える声だった。ナノマシンの制御を振り切るかのように、絞り出すような意思の言葉。


「もういい……! もう、いいんだ! ごめん、こんな話して!」


 涼は芽依の肩を抱き寄せた。震える身体を支えながら、全身から汗が滲む。



 その後、芽依は涼に背負われ、医務室に運ばれた。


 ベッドにゆっくりと寝かされると、彼女は浅く呼吸を繰り返しながら、微かな寝息を立てはじめた。


 涼は椅子に腰を下ろし、しばらく無言でその寝顔を見つめていた。


 (……ナノマシンによる制御が、本当に現実なら)


 (彼女の言葉、苦しみ、あれは……)


 昨日まで信じていた世界の“常識”が、今もなお嘘か本当かの境界線にある。


 けれど、芽依のあの声だけは――“本物”だった。そう思えた。


 (……俺は何者なんだ)


 (なぜ、俺だけがこんな疑問を持てた? なぜ、芽依も“普通”じゃないのか……?)


 世界の真実なんて、まだ何も分からない。自分が何をするべきなのかも。


 でも、それでも――


 (……確かめなくちゃいけない)


 涼は、ゆっくりと視線を落とした。芽依の手の甲が、彼の手の中にそっと収まっていた。


 ――これが、現実なら。


 ――この世界が、偽物じゃないなら。


 俺が、それをこの目で確かめてやる。





 夜明け前の静寂。

 仙台メガツリー第四層、居住区の一角にある常田邸の灯りが、ごく微かに滲んでいた。


 書斎の扉が音もなく開く。

 常田政宗は、静かに机に向かい、ひとつの引き出しを手前に引いた。底板の奥に指をかけると、内部で微かな“カチリ”という音がする。仕掛けられた二重底が開き、そこから布に包まれた物体を取り出す。


 布の包みを解くと、古びたM1911が現れた。

 使い込まれた鋼鉄は黒く沈み、無言の信頼と覚悟を物語る。常田はスライドを引いて作動確認を行い、弾倉を装填。革のホルスターに収め、上着の内側へと装着した。


 (……涼)


 その名を、心の中で呟く。


 禁忌目録に触れた少年の姿は、すでに監視映像で確認していた。

 だが、その映像を見ていたのは常田だけではなかった。


 ――区域管理庁。

 政府軍の中枢にして、最も厳格な情報統制を担う機関。すでに、常田邸への関心を強めている。


 数日前、自宅の監視ネットワークに、区域管理庁による潜入ログが残されていた。映像そのものはすでに消去されていたが、アクセス痕跡は誤魔化せなかった。


 (もう、時間はない)


 常田は、机の上にふたつの小さな物を並べた。

 ひとつは親指ほどのマイクロチップ。

 もうひとつは、年季の入った二輪バイクの鍵。


 どちらも、涼のために用意されたものだった。


 「……タキ子」


 低く、静かな声が廊下に届く。

 足音も軽やかに、台所の奥からタキ子が現れた。部屋着姿の彼女は、何も言わずに常田の背に立つ。


 「今夜は随分と遅いのね」


 その声は、やわらかく、穏やかなものだった。



 「ああ」


 短く頷いた常田は、僅かに視線を落とした。


 「この前……政府軍の区域管理庁が、俺の所在ログに潜ってた痕跡があった」


 その一言で、タキ子の瞳が一瞬だけ揺れた。

 だがすぐに、口元に笑みを浮かべて――むしろ、どこか晴れやかに言った。


 「じゃあ……あなたも行ってしまうのね?」


 微笑みの中に、深い覚悟があった。


 「ああ……すまない。最後まで、そばにいてやれなくて」


 常田の声は変わらず穏やかだった。だが、その指先にほんの僅かな力が入っているのを、タキ子は見逃さなかった。


 彼女は、変わらぬ笑顔で頷いた。


 「そんなの……あなたと一緒になるって決めたときから、わかっていたわ。覚悟なんて、とっくの昔にできてるのよ」


 タキ子はそう言いながら、少しだけ背を伸ばし、常田の胸に手を置いた。

 その目は笑っていたが、どこか潤んでいるようでもあった。


 常田はその手を優しく握り、かすかに目を伏せた。


 「……タキ子さん、ごめんな。ごめん……本当に」


 それ以上、言葉はなかった。

 気丈に振る舞う常田の背中が、わずかに震えていた。


 それでも、涙は見せなかった。


 静かな時間が流れる。


 「準備は整った。……俺も、そろそろ出る」


 常田が扉へと歩き出す。背を向けるその姿に、タキ子は何も言わず見送っていた。


 そして――


 「あなた」


 タキ子の声が、ふと背中を呼び止めた。


 常田の足が、ゆっくりと止まる。だが振り返らない。


 タキ子は、その背に向けて、小さく、けれど深く囁いた。


 「…心の底から、愛しております」


 常田は応えることなく、ただ一歩を踏み出した。





 仙台区域・政府軍区域管理庁第2戦略棟。地下一階に設けられたブリーフィングルームには、凍りついたような空気が張りつめていた。


 戦術会議中のホログラムに浮かぶのは、統治システム上で更新されたばかりの特異個体リスト。その中央に記された名は――


 【CANDIDATE-AK:佐藤涼】


 統治波の干渉下にありながら、思考制御反応が確認されない“例外”。


 「……佐藤涼。常田政宗の養子。統合ナノプレーン反応は基準値内で推移していたにもかかわらず、行動・言語・発話パターンに明確な逸脱が観測されました」


 冷静な口調で状況を報告するのは、仙台区域副管理長・青柳シヲン。黒髪を低く束ねた彼女は、冷ややかな眼差しでホログラムを指し示す。


 「行動ログを照合した結果、禁忌情報に属する区域外関連ファイルへの視線遷移と、内部記録資料へのアクセスが確認されました。義眼の視覚記録は保護された設計系統下にあり、現在も解析不能。ただし、反応値には“微細な揺らぎ”が検出されています」


 「……“揺らぎ”ね」


 静かに立ち上がるのは、仙台区域管理長・葛西大悟。背部の義体駆動部からわずかに駆動音が響く。


 「気に食わんな。義眼が外部アクセス不能、統治波の影響も弾くってのは、ただの偶然じゃねぇ」


 青柳はわずかに頷いた。


 「統一検査ログを精査した結果、涼は出生以来、毎年ナノマシンプレーンの反応自体には異常がなく、制御可能と判断されていました。にもかかわらず、統治波の作用に対する反応が一貫して不活性。理由は不明ですが……おそらく、通常のナノマシンとは異なる因子が体内に存在する可能性があります」


 「……抗体ナノマシンか」


 葛西が低く呟く。


 「理論上、存在しないはずのな」


 青柳の声に、室内の軍務官たちは言葉を失う。抗体ナノマシンは設計上“存在しない”。それは統治波に抗うという概念自体が“否定されている”からだ。だが、それが事実ならば――。


 「常田政宗の素性は?」


 葛西が声を低めた。


 青柳はすぐさま回答する。


 「元・東北方面軍第六戦術班所属。啓吾・佐藤と接点あり。除隊後も極秘裏に情報の授受があったと推定され、かねてより監視対象に設定されています」


 葛西は鼻を鳴らす。


 「なるほどな……あの男が一線から退いた理由、ようやく腑に落ちた。あいつは軍を抜けても“戦ってた”ってことか」


 青柳は操作パネルを指で滑らせ、新たなホログラムを浮かべた。そこには涼の書斎侵入記録、視線の推移、教師やクラスメイトとの会話ログが並んでいた。


 「“見た”可能性の高い資料は一点、《禁忌目録》。彼の動向と精神状態は、その閲覧以後、明確に変化しています」


 「で、どうする?」


 葛西が問う。


 青柳は一呼吸置き、告げた。


 「本件は、すでに鷹宮総帥に報告済みです。“異常個体を放置すれば、支配構造そのものが瓦解する”――との指示。統治安定維持のため、即時隔離、あるいは物理的処理の対象とすることが承認されました」


 「ようやく、動くときが来たか」


 葛西の眼光が鋭くなる。ブーツの音が床に響き、軍務官たちが一斉に直立する。


 「常田の家は?」


 「監視網に遮断波形あり。内部から手動でブラインド処理を施された痕跡があります。逃走の兆候ありと判断、すでに周辺に追跡班を配置済み」


 「よし。動員班は第5〜第7に分割。A班は涼の行動半径を封鎖、B班は書斎記録の物理回収。C班は常田の進路遮断。捕獲優先だが、抵抗ある場合は排除を許可する」


 「了解しました」


 「……あいつの背中には、確かに戦争の火が残ってる。だからこそ、今度はこっちが“焼き尽くす”番だ」


 葛西の瞳が細く鋭くなる。突き刺すような瞳孔は、確かに常田と涼の背中を見つめていた。





 午後、「社会」の授業が始まっていた。


 講壇に立つのは歴史担当の四宮。だが本日は、統治学の一環として「社会の安全性」についての講義が割り当てられている。


 「我々の社会が“安全”でいられるのは、帝国の尽力と、国民一人ひとりの“自律”によるものです。現在、第四層での暴力犯罪発生率は、統治前の0.007%。この数字は、先進国家平均の1/1,000以下にあたります」


 壁一面に展開されたARスクリーンには、安定した統治下の街並み、笑顔で通勤する市民たち、満足度調査のグラフといった“安全”を印象づけるビジュアルが次々と映し出されていた。


 (……)


 涼は、教室の一番後方で、ぼんやりとスクリーンを眺めていた。


 芽依との昼休みの会話が、頭の中で何度も再生されていた。ナノマシン。統治波。意識の制御。禁忌目録に記された、現実とは思えない情報。


 (本当なのだろうか。でも……)


 芽依の頭痛、言葉の遮断、感情の抑制。そのすべてが目録の記述と一致していた。


 (これはもう、疑念じゃない……)


 (確信だ)


 不意に、芽依が医務室から戻ってきた。教室の扉を静かに開け、何事もなかったかのように席へと腰を下ろす。


 しかし涼は、その動作の端々に違和感を覚えた。


 (動きが重い……いや、“抑え込まれてる”みたいな……)


 芽依と目が合う。彼女はうっすらと微笑み、何も語らない。


 そのときだった。



 「……ん……」


 前の席の女子生徒が、静かに机に突っ伏した。


 (……体調不良か?……)


 「長谷部さん? どうかしましたか?」


 四宮が声をかけるが、返事はない。この声色には明らかな動揺が滲む。


 左の生徒、右の生徒──まるで連鎖するように、教室のあちこちで生徒たちが静かに意識を落としていく。



 (………???…)


 (……こんなこと、今まで……)


 頭の片隅に浮かぶのは、禁忌目録の一節。


 ──ナノマシン。精神と行動を“制御”する技術。





 涼が芽依と目を合わせた瞬間、胸に冷たい戦慄が走る。


 (まずい!!)


 その刹那、右目に熱を感じた。


 「っ……!」


 涼は反射的に眼帯へと手を伸ばし、剥ぎ取る。


 義眼が熱を持ち、細かく駆動音を立てながら戦闘モードで起動する。


 〈生体ガス検出:ナノマシンα〉

 〈拡散経路:空調・換気口〉

 〈特性:無臭・無色・神経抑制型〉


 (こんな機能が……あったのか!?)


 芽依も、咄嗟に換気口に目をやり、ハンカチを口元に押し当てる。


 涼は教室の扉へ駆け寄った。だが──


 ガチャッ。


 「……鍵が、かかってる」


 ドアを何度も押すが、完全にロックされている。


 (閉じ込められた……!)


 「窓……から逃げられない?」


 芽依が焦るように窓を指差す


 「ダメだ! 怪我したら……走って逃げられない!」


 涼は首を横に振った。




 次の瞬間──


 ガチャンッ!!!


 教室の窓ガラスが外側から破砕された。


 空調音を割くように、黒い影が次々と侵入してくる。


 「!??」


 動揺を隠しきれない二人を他所に、兵士の一人がゆるりと立ち上がり、にやりと口を開いた。



 「……涼くん? だよね」


 先頭の兵士が、ヘッドギア越しに声をかける。嘲るような軽い口調。


 「抵抗しないでね。痛くはしないからさ………て、立ってるのもう一人いるじゃん」


 その背後から、無線の音が漏れ聞こえる。


 〈やはり、ナノマシンに対する耐性を確認〉

 〈アルファの効果は限定的。情報の信憑性は高い〉

 〈隣の女子生徒も捕縛対象とする〉



 涼の義眼の視界に、情報ウィンドウが展開される。


 〈目標数:5名〉

 〈装備:低出力スタン、ワイヤー拘束、催眠装置〉

 〈装甲レベル:中程度/動作性:高/視界:クリア〉


 (相手は五人。装備は全て非殺傷武器。俺を子どもだと侮ってる…?)


 (距離を詰めれば、あるいは……)


 (……勝てるのか? 本当に?)


 (俺には実戦経験なんてない。……でも──でも、やるしかない!!)


 「クソッッ!」


 涼が踏み出そうとした、その瞬間だった。



 「な、なんだ!??」


 床に倒れていたはずの生徒たちが、よろよろと立ち上がり、無言で涼たちの前に立ち塞がる。




 「嘘だろ………操られてる?…のか?」


 兵士たちの無線がまた響く。


 〈ご学友を“盾”にするなど……意地が悪いですね〉

 〈その為に、アルファを使った。佐藤啓吾の系譜だとすれば当然。お前らも絶対に油断するなよ〉


 (……逃げ場がない)


 (三階。俺一人なら窓から逃げられるかもしれない……でも、芽依が……)


 義眼が駆動を続け、視界の隅に教室の壁面構造が次々と浮かび上がる。


 涼は、ほんの一瞬、息を呑んだ。


 (──ここから出る手段は、まだある)


 そう、確信めいた思考が脳裏に走った。


 物語は今、確実に“覚醒”へと突入し始めていた。



⸻ ⸻ ⸻


ご覧いただきありがとうございました。


涼が芽依にだけ打ち明けた“真実”。

それは、信じたい気持ちと、疑ってはいけない現実の間に、ひとつの裂け目を生みました。


だが、まだ誰も気づいていない。

その裂け目は、静かに──確実に、広がっている。


次回、第3話。

日常に仕込まれていた“選別”が発動し、塔の秩序が動き出します。

それは、統治が“真の支配”を開始する合図でもあるのです。


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