EP3 脱出、疑念。ー統制の暴力ー
教室を揺るがす破壊の一撃。
背負う想いと共に、少年は逃げ出した。
だが、統治された都市が、そう易々と逃げ道を許すはずもなく──
逃走劇、開幕。
張り巡らされた監視網、そして語られる「NECTAR」の名。
涼と芽依、ふたりの足が踏み出すのは、もはや日常ではない。
⸻ ⸻ ⸻
右目の義眼が再び軋むように発熱し、涼の視界に壁の構造図が浮かび上がる。内部からわずかに浮いた鉄骨。断熱材の重なり方。素材の継ぎ目。その全てが、まるで逃げ道を示すように重なっていた。
(──ここだ)
涼は芽依を背後に庇うように立ち、全身の重心を右脚に込める。義眼が映し出す「綻び」に合わせて、思い切り拳を突き出した。
衝撃音と共に、壁が内側から崩れる。破砕されたパネルと断熱材が霧のように舞い上がり、次の瞬間、冷たい外気が流れ込んできた。
「──オイ、壁をぶち破ったぞ!」
教室内の兵士の一人が叫ぶ。軽口を叩いていた男が、楽しげに笑った。
「へぇ……結構動けるな。予想以上だ、面白い」
呟くような独白
「ちょっと待て」
続けて軽口兵士が、呼び止めた。
「取引をしよう。最初にも言ったが、手荒な真似をする気はない。お前の身柄は、こちらにとっても貴重な研究素材だ。このまま鬼ごっこを続けても、お互い損になるだけだぜ?」
涼は静かに振り向く。背後には、直立したまま動かない生徒たちがいた。目が開いているのか、閉じているのかすら分からない。呼吸も歩みもないのに、何かを“待っている”ような異様な気配を放っている。
「お前らも……統治されてるんだろ?」
涼の声は低かった。
「ナノマシンの秘密、真実。それを知らないから、こうやって俺を追う。でなければ、こんな倫理観を無視した社会を良しとするはずがない。どうなんだ……お前らは、どこまで知ってる?」
その言葉に、兵士たちが一斉に顔を見合わせた。だが、それは“意志のある反応”ではない。軽口の兵士を見つめる目には、迷いも驚きもなかった。まるで――
「……聞こえてないんだよな、この会話」
軽口の兵士が肩をすくめて言った。
「今ここにいる5人のうち、俺以外の4人は、たぶん“対象と隊長が定型確認を行っている”ぐらいの認識しかしていない。この会話の内容は、彼らには届いていない。届かないように、仕組まれてる」
「……ナノマシンの影響か」
「それにだ、さっき君が壁をぶち破ったろ? あの瞬間に通信系と監視網の一部がジャミングされた。気づかなかったか?」
涼は微かに目を見開いた。
「そう。眼帯くんは、誰かに“保護”されてる。君をサポートしている奴がいる。よく出来たAIか、それとも……本当に、優秀な奴だよ。上層も手を焼いてる」
彼は腰のホルスターから、小さなシリンジ入りの小瓶を取り出し、涼へと投げる。
「──そいつは、NECTARだ」
涼はとっさにそれを受け止めた。
「……これは?」
「ニュースで見てないか?統治を“外れる”ためのドラッグさ。だけど、お前はもともと統治の影響を受けてない。だから、こいつがどう作用するかは俺にも分からない。でもな――窮地に立たされた時、きっと助けになるはずだ」
「……なんでだ。俺は、お前たちにとって敵だろ」
「敵じゃねえ、研究対象だ。今のところは。それにさっきも言ったろ。個人的に、興味があるって」
彼は小さく笑った。
「形式上、俺たちはこの先もお前を追う。でも、もし逃げ切れたなら……お前がこの楽園をどう壊すのか、俺は見ていたい。だから、準備ができたら出ていけよ。教室の外に出た瞬間が、スタートの合図だ」
涼は拳を握り、歯を食いしばった。
「……帝国の統治が、ナノマシンによって成り立ってるなら……」
「……」
「そんなものに騙されて築いた“楽園”に、なんの意味があるんだ!」
兵士は口角を上げて、楽しげに言った。
「なら……見せてみなよ、お前のやり方を」
涼は芽依の体を担ぎ直すと、くるりと踵を返した。
涼の視線の先には、破砕された壁。その先に広がる、まだ誰の影もない空間。
涼は息を整え、背中の温もりを確かめながら、一歩を踏み出す。
「あー、それと。俺の名前はギンだ。仙台メガツリー区域管理庁第三班隊長、ギン。覚えておけよ」
その瞬間、逃走劇の第1幕が幕を開けた。
「それじゃあ改めて、始めよう……よーい……」
「ドン」
⸻
瓦礫が崩れ落ちる音と同時に、リョウは芽依の手を強く握った。破壊された壁の向こう──空気が微かに揺れている。廊下は薄暗く、照明はわずかに瞬いていた。
(行くしかない)
芽依の腕を引いて教室を飛び出す。彼女は意識こそあったが、脚の力がうまく入らず、転びそうになる体をリョウが支える。脇腹に腕を回して肩を貸し、そのまま小走りで進む。
「……涼……」
微かに、芽依が名を呼んだ。
「しゃべるな、意識だけ保て。出口までは──俺が運ぶ」
教室の背後では、まだ兵士たちの足音や会話は追ってこない。だがそれが逆に不気味だった。
(なぜ追ってこない?)
答えはすぐにわかった。義眼の視界に、左右の曲がり角、天井、壁──すべてに設置されたセンサーと監視ユニットの残留痕が浮かぶ。リョウの行動は初めから“予測されていた”。
(あらかじめ……待ち構えてるのか)
さらに進んだ先、廊下の奥には二体の警備ドローンが待機していた。普段は存在を認識していたが、起動している姿を見るのは初めてだった。
「っ──!」
冷たい金属音とともに、センサーがリョウの動きを感知する。
「身元照合開始──」
警告音と同時に、警備ドローンの一体が小型のスタンボールを射出してきた。リョウは芽依の体を抱きかかえるように伏せ、間一髪でそれを避ける。
(感情抑制だけじゃない……完全に実戦用だ。あれも“統治”の一部かよ)
義眼が自動で射線を分析し、死角となる移動ルートを描き出す。進行方向は右──その先に残された非常階段の表示。
「芽依、しっかり掴まれ」
彼女が頷くのを確認し、リョウは再び走り出す。ドローンの追撃音が背後から響く。わずかなタイミングのズレを突いて、狭い側廊へと滑り込む。
「──っ、どこへ逃げるつもりだ、対象は右に──!」
突入部隊の兵士たちの無線音が聞こえる。音だけで位置を推測し、階段までのルートを再確認。
(まだいける……まだ、間に合う)
だが、その先の扉はすでにロックされていた。義眼の解析が警告を発する。
〈通常施錠:解除不可〉
〈非常用開閉制御:非常階段解放スイッチへ接続可能〉
「……強行するしかねぇか」
リョウは芽依を一度壁に凭れさせると、自ら扉の制御盤へ義眼をかざした。義眼から走る青白い閃光が、扉内部のセキュリティを突き破っていく。
〈接続完了──非常階段開放〉
「よし!」
その瞬間、背後から迫る足音が激しくなった。兵士たちが駆け上がってくる。
「芽依っ!」
リョウは彼女を再び抱き起こし、扉を押し開ける。その向こうは薄暗く、人工灯が時折チカチカと明滅する階段室だった。
息を荒げながら駆け下りる。芽依の体重が肩に食い込む。だが、涼の足は止まらなかった。
(逃げなきゃならない。絶対に)
階段の踊り場で一度立ち止まる。芽依の顔を見る。彼女は苦しげに眉を寄せていたが、その目はまだ確かに“意志”を持っていた。
「……リョウ、ありがとう」
その言葉に、涼は小さく頷き、再び彼女を背負った。
あと少し──非常口は、もうすぐそこだ。
⸻
(進路の封鎖と最後の通路)
非常口へと通じる廊下を涼は駆けた。芽依の体をしっかりと支えながら、視線は常に先を見据えている。
「……芽依、大丈夫か」
返事はない。ただ、背中にかすかに伝わる呼吸のリズムと、肩に添えられた指先のわずかな力が、彼女が意識を保っていることを示していた。
廊下の両側に設置されたAR表示パネルが〈制圧モード発動中〉と赤く点滅し、天井を這うように配置されたセンサーが、機械的に周囲をスキャンしていた。
(……完全に封鎖されてる。出入口は全て塞がれてる)
義眼が投影するHUD上に、建物内の構造と警戒網が重なって表示される。教室から離れるほど、各ポイントのロックが濃くなっているのが一目でわかる。だが、その中に一本、微かに通れる経路があった。
〈ルート確保:成功〉
〈経路危険度:高/予想通過猶予:約3分〉
(非常階段……行ける)
進路を決めた瞬間、涼は進路を外壁寄りに修正し、荷物棚の死角を抜ける。芽依の呼吸は浅く、全身からは汗が滲んでいた。それでも彼女は、気を失うまいとするかのように、懸命に涼の背にしがみついている。
突如、天井の陰から、球体型ドローンが滑るように現れた。赤い走査光が床を舐め、低周波の音が空気を震わせる。
(……まずい!)
涼は咄嗟に備品ロッカーの裏に身を潜めた。ドローンは気づかぬ様子で前方へと進み、そのまま角を曲がって姿を消す。
息を殺し、静かに息を吐く。義眼が描き出すマップのルートラインは、着実に非常口へ近づいていた。
「芽依……もう少しだ、絶対に外に出す」
誰に聞かせるでもない独白。背負った彼女の髪が揺れ、わずかに反応を返したように思えた。
(ここを抜ければ……あとは)
その瞬間、床面から「カチリ」と低い駆動音。涼は足を止めると同時に、芽依の体を抱きかかえるようにして横へ跳ぶ。
直後、床面の一部が淡い光を発しながら封鎖ラインを描く。義眼が即座に情報を表示する。
〈局所封鎖:アクティブ〉
〈パターン照合完了:予測通路使用不可〉
(逃げ道が……潰された?)
予測されている。まるで、彼の行動を読み切ったかのような封鎖だった。
しかし、義眼のマップには、もう一筋、狭いが通行可能なサブルートが表示されていた。――非常階段まであと少し。
照明が揺れる。壁の向こうから聞こえる兵士たちの足音と無線。
〈標的、北西階段へ向かう可能性あり。隊伍を再編成〉
〈捕縛優先。対象の抵抗可能性は高〉
涼は迷わず走る。芽依を背に、警戒のラインを突き抜け、階段の非常扉前に辿り着いた。
義眼のアクセスキーを照射しながら、セキュリティパネルに手を伸ばす。
〈ロック解除進行中:完了まで残り23秒〉
追いすがる足音が背後から迫る。扉の向こうには、夕暮れの街の光が微かに漏れていた。
(間に合え……!)
芽依の体を支え直しながら、涼は祈るように扉のロック解除完了を待ち続けた。
⸻
〈ロック解除進行中:残り5秒〉
電子音が短く鳴るたび、涼の喉奥がかすかに震えた。背中の芽依は、ほとんどの意識を失っているように見えたが、それでも指先には微かに力が残っていた。
(……来る)
廊下の奥。靴音と金属の擦れる音が重なって迫ってくる。ドローンの駆動音と赤い走査光が壁や天井に揺れ、機械じみた無機質な威圧が距離を詰めてくる。
〈ロック解除完了〉
乾いた音が鳴った瞬間、涼は取っ手を引いて扉を開いた。
その直後、爆ぜるような風切り音。銃声とは違う、圧縮空気を吐き出すような発射音と共に、何かが横をかすめる。
(──ッ!)
涼は芽依の身体を庇うように身をひねり、そのまま外へ飛び出した。
直後、まるで追いすがるように放たれたもう一発の弾が、扉の外、道路向かいの街路樹に突き刺さる。
(……麻酔銃……!)
ちらりと視界の端に映る細いシリンダー型の弾体。認識と同時に、涼は振り返らずに扉を強く引き戻した。
「──うおっ!?」
鋭い叫びとともに、兵士のひとりが勢いよく扉に激突した音が背後で響く。
即座に義眼からアクセスを送り、扉のセキュリティに命令を送る。
〈扉ロック:完了〉
重々しい駆動音とともに、扉は涼と芽依の背後で完全に閉ざされた。
「……はあ、はあ……!」
涼はしばらくその場に立ち尽くした。沈む夕陽がアスファルトに長く影を落とし、じわりと汗が額から頬を伝う。
芽依の体重が背中にのしかかる。鼓動が重く、湿った空気に混じって、彼女の微かな息遣いが耳に届く。
(……出た、外に……)
ほんの数秒、涼はその場に留まった。
だが、悠長に立ち止まっていられる状況ではない。あの扉の向こうには、追手がいる。今もなお追撃の手段を模索しているだろう。
(次は、どこへ)
義眼のHUDに、周囲の簡易マップと位置情報が展開される。右方向には大通り。左は裏通りと商業ビルの搬入口が並ぶ細い道。
(目立つのは避けたい……でも、今は数が多すぎる。選べる状況じゃない)
涼は一つ息を整え、芽依を背負い直すと、視線を大通りへと向けた。
人々の波。学生、通勤者、買い物客。まばらに歩くその中へ、彼は足を踏み出す。
「……人混みに、紛れよう」
呟いたその声は、かすれていたが、明確な意志を持っていた。
夕刻の都市に、彼と芽依の姿が、静かに溶け込んでいった。
⸻
「……っ、はぁ……っ!」
都市の空は夕方のオレンジ色に染まり、街路のAR表示はどこまでも整然と輝いている。人々は日常の延長線の中で、まるで何も起きていないかのように歩いていた。
(くそ……どうなってんだ)
芽依はほとんど意識がなく、ぐったりと涼の背中に身を預けていた。体温だけが、まだ命がそこにあることを証明している。
「……おっちゃんの家まで……歩いて二時間近くか……」
本来なら、バスやリニアモーターカーを使えば三〇分もかからない距離。しかし、今はそのすべてが統治下の監視ネットワークに包まれている。通信妨害が続いているうちはまだ追われる可能性がある。頼れるのは、自分の足だけだった。
(逃げ切れるのか……?)
都市のビル群に影が差し始め、通行人の数もまばらになっていく。
扉を閉めてから、どれほど走っただろう。芽依の体重を背中に感じながら、涼は無我夢中で都市の通りを駆けていた。
涼はふと、自分の肩にぶつかってきた人を見た。謝罪の言葉も視線すらない。次にすれ違った老人も、彼の存在を無視して歩き去る。
(……今、ぶつかったよな?)
芽依を背負っているにも関わらず、誰も二人を視界に入れていない。完全に「いないもの」として処理されている。
(俺たちが……見えてない?)
その考えが頭に浮かんだ瞬間、全身に寒気が走った。まるで世界に自分たち二人だけが取り残されているような、圧倒的な孤独と恐怖。
(……違う、違う。ここで止まったら終わりだ)
それでも、芽依の体温は確かだった。彼女を守り抜く。それが今の自分のすべて。
そう思った矢先、路地の向こうに黒い影がちらついた。
「──ッ!」
統治局の兵士たち。周囲を囲むように配置され、すでに追いついてきていた。
(まずい!)
涼は建物の壁沿いに進路を変え、混雑する交差点へと突入する。市民の流れに逆らって進む二人に、兵士たちの追跡が迫る──だが、兵士たちもまた、市民に阻まれて満足に動けない。
「ほう……ナノマシンの認識阻害を逆手にとるか。やっぱりただもんじゃねぇな」
軽口の兵士がつぶやいた。
「……隊長、追いますか?」
「いや、深追いは禁物だ」
指揮していた兵士が、周囲を見回しながら言う。
「ここから先は、相手のホームだ。俺たちが不利だってのは明らかだろ」
「でも、このまま見逃したら青柳副管理長に──」
「うるせぇな。……ここも、サポーターのジャミングがかかってる。今の会話、どうせ聞こえちゃいねぇよ。さっさと撤収するぞ」
その直後、追跡用のドローンが一体、上空から低空飛行で接近した──が。
バチバチッ!
周囲の空気が弾け、ドローンは激しく火花を散らして墜落した。常田の家の周囲に展開されているジャミングフィールド。その有効範囲へと、二人は足を踏み入れたのだ。
「……ほらな…」
軽口の兵士は笑い、仲間たちに手振りで撤退を指示する。
兵士たちの気配が遠のいた。
そのとき、涼の視界の先に見えたのは、住宅街の一角──
「……もうすぐだ、おっちゃんの家……!」
彼は最後の力を振り絞って、芽依を背負ったまま門扉へと駆け込んでいった
⸻ ⸻ ⸻
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
制圧部隊の真意。動かない生徒たち。
そして、差し出されたひとつの“ドラッグ”──NECTAR。
支配の構造が次第に明かされる中で、涼は一歩を踏み出しました。
しかし、逃げた先に待つのは安息ではなく、
「誰が味方で、誰が敵なのか」すら見えなくなるような、
さらに深い霧の中。
次回、第4話。
少年が見たものは、“家”の変化と、“ある準備”の痕跡──。
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