『NECTAR ―この世界は、感情を管理されている―』

デスロール志村

プロローグ:決意

EP1 初夏、日常。ー絶望の始まりー

ようこそ、『NECTAR(ネクター)』の世界へ。


物語の舞台は、崩壊を経て再構築された巨大都市〈メガツリー〉。

支配と安全が隣り合うこの塔の中で、少年・涼の日常は、ほんの一滴の“違和感”から静かに揺らぎはじめる。


整然とした朝、当たり前の授業、語られる“常識”。

だがその裏側には、誰もが見て見ぬふりをしてきた、ある「構造」が隠されていた。


⸻ ⸻ ⸻


 午前六時二十二分。仙台メガツリー第四層・外縁の居住区に、人工の夏の朝が訪れる。


 

いつもの朝。しかし自分だけが切り離されたような、そんな朝。


 カーテン越しに射す光は、人工太陽が緩やかに生み出す夏の陽射しだった。肌を焼くような強さではなく、心地よい温もりをもって網膜を刺激する。部屋の隅では空調が微かに稼働し、涼風が吹き抜けていた。設定された季節は「夏期・盛夏」。四層全体の湿度と気温は、統治システムによってきめ細かく制御されている。


 涼はいつものように、目覚ましよりも早く目を覚ました。淡い光に照らされた天井を見つめたまま、数秒の静寂を味わい、それから勢いよく布団を跳ね飛ばした。


「……今日も暑くなりそうだな」


 独りごちる声は掠れていた。道着に袖を通すと、部屋を抜け、家の奥にある道場へ向かう。白木の床、壁際に整然と並ぶ木刀と模擬武具。常田家の地下には、まるで時間を忘れたような“静寂の箱”が存在している。


 朝の鍛錬は日課だ。涼は特別な理由を持って武術を学んでいるわけではない。強くなりたいという明確な欲求も、昔はなかった。けれど、常田の無言の眼差しと、道場の空気が、それを“当然のこと”として彼の身体に染み込ませた。


 五十分後。冷水を浴びて汗を流し、右目の義眼のメンテナンスをする。そして、Tシャツと短パンに着替える。朝食は常田がすでに用意してくれていた。栄養素のバランスを徹底したメニューに、彼の几帳面さが滲んでいる。テレビの代わりに、壁面のARモニターが起動する。画面上には「帝国朝報」のロゴとともに、朝の情報がゆっくりと流れ始めた。


「本日の仙台は晴れ。最高気温は三十度。第四層は湿度四十二パーセントで安定しています」

「昨晩発表された経済統計によると、帝国のGDPは一九年連続世界一位を記録──」

「東京メガツリーでは、英雄・滝谷皐月の銅像が完成。除幕式には総帥・鷹宮玄道も出席予定です」

「……また一部地域では、“真実が見えるようになる薬”という噂が広まり、青少年の間で奇妙な薬物が流通している模様です。名称不明、既に数十件の摘発が──」


 帝国の情報は、いつも明快で、整然としていた。だがその整いすぎた秩序が、涼にとってはどこか紙芝居めいて映る。


 そのとき、玄関のインターホンが鳴った。タイミングはいつも通り。ARに手をかざし、画面をスライドすると、玄関先に立つ少女の姿が映し出された。


「おはよー、リョウ。今日も元気そうね」


 明るい声と共に映ったのは、橘芽依。髪は肩で揺れる程度の長さにまとめられ、制服のスカートは少し短め。涼しげなリネン素材の上着は、夏季用に調整された生地だ。足元には薄く輝くエアスルー素材のソックス。汗ばむ季節でも清涼感を保つ、第四層の最新機能素材である。


「メイ、朝から元気だな」

「それ、毎朝言ってるけど。たまには“美しい”とか褒めてもバチ当たらないと思うけど?」

「……時間の無駄」


 涼が靴を履き終えるのを待って、ふたりは一緒に家を出た。メガツリー第四層の居住区は、巨大な屋内都市であることを忘れさせるほど、自然に満ちている。空には雲が流れ、微風が木々の葉を揺らす。足元には滑らかな石畳が敷かれ、周囲には季節の草花が色を添えている。


 通学路には、整備された並木道の先に、大小さまざまな建築物が並んでいた。カフェの軒先に吊るされた風鈴が軽やかに音を立て、ベランダに干された洗濯物が朝の光に揺れている。都市でありながら、そこに流れるのはどこか“田舎的な”時間だった。


「ほら、今日も教会に人が多いわね」

「ああ。朝の礼拝の時間か」


 通学路にある白亜の聖堂。統治信仰の教会だ。ステンドグラスから射し込む光は、内部を柔らかく包み込んでいた。逆三角形の中に十時が添えられたシンボルが、入口の上に掲げられている。中では老夫婦が手を合わせて祈っていた。願うのではない。ただ、今日という平穏な一日に「ありがとう」と感謝を捧げるような祈りだ。


「宗教って、なんで若い人には流行らないのかしら」

「強制されてないからだろ。信じても信じなくても困らないなら、そりゃみんな……」


 涼の言葉は途中で途切れた。人工湖のほとりに差しかかる。光を受けて波が煌めく湖の中央には、かつての戦争を鎮めた“英雄たち”の銅像が建っていた。メガツリーを設計した科学者、ドロスウイルスに立ち向かった医療開発者、経済復興の旗手──どれも、涼にとっては“どこかで見た顔”でしかなかった。


「……ねぇ、リョウ。今日の歴史、またあの話よ」

「第三次世界大戦と、エデンワクチンか」

「うん。今さらだけど、同じことばかりよね。まるで“思い出すため”にあるみたいな」


 ふたりの足は、磁力式電車のホームへと向かう。白く輝くプラットフォームには、既に通学客が並んでいた。天井は高く、夏空のAR映像が青く広がっている。吹き抜ける風は、人工とは思えないほど心地よかった。遠くには、中心層へと延びる大橋が白い光に溶け込んでいた。


 扉が開く。ふたりは並んで乗車した。


 電車は、中心部へと向けて、静かに走り出す──。







 登校後最初の授業は「歴史」だった。黒板の代わりに壁一面のARパネルが発光し、柔らかな白光を教室に満たしている。すでにほとんどの生徒が席に着き、雑談の余韻が空気の中に漂っていた。


 時間ぴったりに、担当教員が入ってくる。五十代ほどの女性で、淡いベージュのスーツを身に纏っていた。教員証には「四宮」とある。


「それでは一限目の歴史を始めます。今日は第三次世界大戦とエデンワクチンの成立についての復習です」


 教員の声と同時に、ARパネルに国際地図が浮かび上がった。かつての日本列島、その中央部に位置する関東、東北、近畿の三地域が赤く染まっている。


「第三次世界大戦の終盤、敵性国家から発射された三発の核弾頭が、我が国の三大都市──東京、大阪、仙台──を直撃する予定でした。しかし、誰もが知るように、ある一人のクラッカーによってその軌道が見事に逸らされました」


 ここで四宮が生徒の一人に目をやる。


「葛城くん、軌道をずらされた核は最終的にどこに落ちたか、答えられますか?」


 指名された葛城という男子生徒が、軽く頷いて立ち上がる。


「はい。仙台に向かっていた核は岩手県下部へ、東京に向かっていたものは栃木県全域、大阪に向けられていたものは京都府全域に落下し、それぞれの地域は消滅しました」


「その通りです。現在、岩手県北部はかろうじて健在ですが、広範囲が汚染地域として封鎖され、外部との行き来は厳しく制限されています」


 パネルには、放射能除去の進行状況を示すグラフと、封鎖線の航空写真が表示される。だがその一方で、表情を曇らせる生徒は一人もいなかった。それが“日常”だったからだ。


「しかしながら、第一層の物流エリア、第二層の畜産農耕エリアにて広大な物資の確保に成功した我々は、外界や諸外国に依存しないライフラインを築き上げることに成功しました。現在も外界の汚染除去作業は続けられていますが、仮にそれが未達に終わったとしても、我々の築いた文明は確実に維持されるでしょう」


 そこまで語ったところで、四宮はふと口調を変えた。


「では、話をエデンワクチンに移しましょう」


 背景の映像が切り替わり、今度はドロスウイルスの感染被害を示す過去の統計が表示される。世界地図上に広がる赤い波紋。それが収束へと変わっていく様子。


「ドロスウイルスはかつて、世界人口の四分の一を脅かした致死性ウイルスでした。ですが、帝国医療機関が開発した“エデンワクチン”によって、我々は滅亡の危機から救われたのです」


 画面には、白衣を着た科学者たちのAR映像が映る。拍手を浴びながら壇上に立つその姿は、まるで宗教画のように神々しかった。


「エデンワクチンはその後、全市民に接種されました。それにより、感染の再拡大は完全に防がれ、我々の暮らしは再び取り戻されたのです」


 どの生徒も当然のこととして、淡々と頷いている。疑問を挟む隙間もない“常識”だった。涼もまた、手元のノートを開いたまま、静かにその講義を受けていた。


「リョウ、最近のニュース、見た?」


 隣の席のメイが小声で話しかけてきた。


「何のことだ」


「“真実が見えるようになる薬”の噂。あれ、ちょっと話題になってるみたい」


「……ああ、ネクターのことか」


「名前、まだついてなかったと思うけど?」


「いや、ただの俗称。中身は不明。でも、あれ使って捕まった人も、結構いるらしいな」


 涼は短くそう答えた。話題を掘り下げようとはしなかったが、心の奥で、何かが引っかかっていた。


 講義の終盤、四宮は板書のようなジェスチャーでARノートに課題を送信した。


「では各自、今日の授業を踏まえ、『帝国における自立化とワクチン政策の意義』をテーマに、五百字のレポートを明日までに提出してください」


 教室の空調が少し強くなる。盛夏の熱気を冷ますように、吹き抜ける風が窓辺をなぞった。





 昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気はぱっと色づいた。AR黒板が静かに消灯し、教師が姿を消すと同時に、生徒たちは各々の島へと散っていく。


「メイちゃん、購買行くならついでにジュース買ってきてー」


「それ言い出したら、リョウが両手に荷物持たされる未来しか見えないけど?」


「絶対そうなる」


 芽依が笑って手を振ると、クラスメイトたちが楽しげに返して席を離れた。そんな中、隣の席からひょいと顔を出したのは、三枝悠。いつもと変わらぬ気安さで、当然のように涼と芽依に話しかける。


「なあ、お前らっていっつも一緒に飯食ってるよな。もう夫婦かよ」


「……からかうな」


 涼がパンの包みを破る横で、芽依が苦笑する。


「昔からの付き合いだもんね。でもさ、三枝くんこそ、ひとりで食べないの?」


「今日は学校終わってから教会寄るからさ。礼拝堂で食べるつもり」


「え? 教会?」


 芽依が目を丸くする。


「宗教とか興味なかったんじゃ……」


「だったんだけどさ。最近ちょっと聖典読むようになってさ、あれ結構おもしろいんだよ。ストーリーとして」


 軽い口調で、三枝はタブレット型のARノートを立ち上げ、聖典の詩篇の一節を映し出した。


「“天より三つの楔が落ち、大地を貫きて巨樹と化した”──これ、メガツリーのことだろ? 見立てがうまいよな、神話って」


 映像には荘厳な筆致で描かれた天界と、そこから降り注ぐ光柱のイメージが投影されていた。


「あとね、“銀面の神”が“網”を授けて、人々の心をひとつに結んだって箇所もあってさ。ちょっとSFっぽいよなーとか思って」


 その口ぶりはどこか楽しげで、信じているというより、物語として惹かれている印象だった。


「へえ……聖典、ちゃんと読んだことある?」


 芽依が少し驚いた声で問いかける。涼も自然とそちらへ視線を向けていた。


「俺? いや、正直ちゃんとはないな」


「私も……」


 二人の声が重なった。


 三枝は「まあ、読み物として面白いってだけ」と軽く笑って席を立つ。


「じゃ、俺行くわ。またなー」


 その後ろ姿が教室の外に消えていく。教会へ向かう生徒がひとり、またひとりとそのあとに続いていく。


 静かになった教室で、涼がふと口を開いた。


「さっきのさ……“網で心を繋ぐ”ってやつ、ちょっと気にならなかったか?」


「んー、たぶん……比喩? 何かを隠してるような言い回し、ではあったかも」


 芽依は、窓の外に視線を向けながら、ぽつりと言った。


「……私、今度ちゃんと読んでみようかな。聖典」


「宗教に興味なかったのに?」


「うん、興味があるってわけじゃないけど……そういう話を聞いた後だと、ちょっと気になってきた。ほら、文章の裏って、けっこう面白いじゃない?」


 涼はしばらく沈黙して、パンの残りを口に運んだ。


「……わかる。でも、ああいうのを“普通に面白い”って感じてるやつが増えてきたのって……ちょっと怖くねえか?」


「……うん。でも、そういうの、言っちゃいけない空気もあるよね」


 二人のやり取りを、教室の天井に浮かぶ小さな黒点──無音の監視ドローンが静かに記録していた。壁の端では、警備システムのステータスランプが一定のリズムで明滅を繰り返している。


 芽依はその赤い光に一瞬だけ目をやり、何も言わずに視線を戻した。


「次、宗教学だよね。……またあの詩篇、読むのかな」


「たぶん」


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。ふたりは席を立ち、ノートと教材を手に取った。


 静かに始まる午後。けれど、微かに何かが揺れていた。





 午後二時。夏の陽が傾き始める時刻、第五限目の授業──宗教学が始まった。


 教室には涼やかな空調が流れ、生徒たちは皆、机上に開かれた電子聖典をARホログラムで映し出していた。教師である河野は、その中央に立ち、穏やかな口調で語りはじめる。


「今日取り扱うのは、詩篇第九十六節Trinitas Excelsa──“至高なる三柱”についての章です。これは、我々が信仰を通して秩序と恩寵を知る上で最も基本的な教えのひとつです」


 空中に柔らかい光の粒が集まり、天井から三本の光の柱が天を貫くように出現した。ARによる神話の再現だ。


「《Trinitas》とは、神の意思によりこの世に降り立った三つの聖なる柱を指します。“光”をもたらすルミエル、“律”を授けるオルド、“命”を繋ぐヴェルミス。この三柱が、それぞれ異なる地を浄化し、魂の道標となったのです」


 生徒のひとり──三枝が手を挙げる。


「先生。三柱が降り立った地って、今も何か意味があるんですか?」


 河野は穏やかに頷いた。


「ええ。いずれも《禁域》とされ、一般の立ち入りは禁じられています。神の“意志”が今も宿る場所であり、我々の文明が“試される場”として聖典に記されています」


 その言葉に重ねるように、ARにはかすかに焦げついた大地と、そこに立つ巨大な光の柱の幻像が浮かび上がる。


「古の時代、堕落した者たちは天の火を呼び、その業火は三度、地に墜ちました。地は焼かれ、命は絶たれ──大地の一部は聖なる“再構築”を余儀なくされました。そこに神々は“塔”を建て、人々を護る囲いを授けたのです」


 光の塔と禁域の描写の傍らに、もう一つの映像が重ねられた。それは、剣を携え、顔を覆った白い鎧の群像──彼らは、神の御使いとして描かれている。


「また、神は天より兵を遣わしました。《Ensis Dei》──“神の剣”と呼ばれる存在です。神々に仇なす悪しき者たちに対抗し、均衡を守るために現れる“無言の使者”。その姿はすべてを焼き尽くす純白の光とされ、その一撃は罪ある影を打ち払うと記されています」


 生徒たちは一斉に映像を見つめていた。その“神の剣”は、人間の形をしていたが、どこか生身とは違う。感情のない仮面、寸分違わぬ動作、そして完璧に統一された戦列──涼はその姿に言い知れぬ“圧”のようなものを感じた。


「彼らはただの守護者ではありません。“神の意志”を最も純粋な形で体現する存在です。ゆえに、聖典において彼らは《裁きの体現》とも、《終わりの刃》とも呼ばれています」


 光の柱が消え、次の章──《Fragmenta Perditionis》(六つの堕罪の影)が浮かび上がる。


「これは、神に背きし六体の堕天存在。いずれも悪しき契約を結びし“深淵の徒”として、世界に災厄をもたらすと記されています」


 ホログラムには、ぼんやりとした影──六つの異形が投影される。仮面、鎧、爪、翼。どれも人に似て非なる姿をしていた。


「とくに“第二の影”──《Secundus Exsecrata》は《Apocalypsis》、いわゆる“黙示録”の鍵を握る存在です。終末の戦火をもたらす存在として記され、その目覚めは“神の塔”を崩壊へと導く。これを防ぐことこそ、信徒たちの祈りの対象なのです」


 画面が切り替わり、再び淡く浮かび上がる──天より遣わされた神々と、世界を巡る四つの勢力。


「この物語に登場する四つの勢力について、皆さんは既に学習済みですが、復習しておきましょう」


 河野の声に合わせ、ホログラムにはそれぞれ異なる象徴が現れる。


「第一に、《Dominus Caeli》──至高の神々。世界に秩序と恩寵を授け、人々を導く存在です。第二に、《Exsecratae Sex》──六つの破片、かつて神に背いた六体の悪魔。その影は未だに世界の均衡を脅かしています」


 画面には、それぞれ違う紋章が重なる。天を象る逆三角、断ち割れた剣、反転した光輪、自身を尾を喰む蛇。


「第三に、《Legati Silentes》──審判を下さぬ傍観の者たち。天と地の間に在り、口を閉ざしたまま世界の均衡を見つめる“沈黙の使徒”。そして最後に、《Milites Tenebrarum》──闇に従う堕天たち。彼らは“律”を否定し、光の塔を陥落せしめんと動いたとされる者たちです」


 三枝が机に肘をついたまま、興味深げに呟いた。


「最近、“塔をめぐる四つの勢力の衝突”って章読んだんだけどさ──第二の影が目覚めたら、聖なる塔は崩れ、世界は再構築されるってあって。けっこう話として面白いんだよ。黙示録に至るまでの道筋もすげぇ細かくてさ」


 リョウは頷きも否定もしなかった。ただ、視線をARの浮かぶ幻影の中に置いたまま、目を細めていた。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。ホログラムがすっと消え、教室の空気が動き出す。


 生徒たちは、物語を物語として受け入れたまま、何の疑問も抱かずに、次の授業へと移動していく。





夜の足音が、仙台メガツリー第四層にゆるやかに満ちていく。


 中心部から外縁へと戻る磁力式電車の中、涼は窓の外に広がるARの夕景をぼんやりと眺めていた。人工の空には茜色が広がり、白く光る雲が溶けるように流れている。都市の上層部にかかる橋梁が夕陽に照らされ、鈍く輝いていた。


 降車してからの帰路、街は変わらず穏やかだった。カフェのテラスでは夫婦が食後のコーヒーを楽しみ、犬を連れた子どもたちが、笑い声を立てながら人工湖の縁を走っていく。


 自宅に着く頃には、四層全体の照明が夜モードへと切り替わっていた。淡いオレンジ色の光が街路樹の葉を照らし、静けさが徐々に空気を満たしていく。


 扉を開け、靴を脱いだ瞬間、奥から張り詰めた声が飛んできた。


「遅いぞ、涼。時間の感覚が甘いままだ」


 声の主は常田だった。道着のまま、既に道場に立っている。手には木刀。白木の床に彼の足がしっかりと根を張っているように見えた。


 涼もまた、無言で道着に着替え、道場へ向かう。無駄な言い訳は通じないことを、彼はよく知っていた。


「構えろ」


 その一言で、空気が張り詰める。木刀が交差するたび、乾いた音が静寂を裂いた。


「踏み込みが甘い。左足、二寸前。腕の力で振るな。腰からだ、腰で斬れ!」


 常田の指導は、厳しさを超えて苛烈とすら言えた。だが、そこには焦りにも似た緊張感があった。いつもより長い稽古時間。いつもより深い沈黙。涼は、その感覚の変化を肌で感じ取っていた。


 やがて、道場に立ち込めていた熱が冷めはじめた頃、台所から微かに声が届く。


「涼、ご飯できてるよー」


 それは、常田の妻──涼の“仮の母”のような存在の声だった。


 「はい」とだけ返し、涼は木刀を脇に置いて額の汗を拭う。張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。



 道場を出て、水場へ向かう途中──彼の視線がふと、右手の引き戸に向いた。





 開け放たれたままの書斎。木製の書棚には、整然と並んだ書物。奥の机の上には、一冊だけ異質な空気を放つ分厚い冊子があった。


 背表紙には、墨で

《禁忌目録》

とだけ記されている。


 リョウは、足を止めた。


 決して、立ち入ってはいけない。常田からそう言われた覚えはない。けれど、その空気が、そう語っていた。


 ──だが、その夜、彼は、ほんのわずかな“違和感”に突き動かされた。


 吸い寄せられるように、足が書斎の敷居をまたぐ。


 部屋には、紙の匂いと、時間の澱のような空気が漂っていた。禁忌目録の表紙にそっと触れる。硬質な革の感触。冷たくも、どこか血のような温度。


 ページを開く。


 書き手は、「K.S」という頭文字を名乗る科学者だった。名前は伏せられていたが、記述の内容と精緻さから、筆者が只者ではないと確信させられるだけの重みがあった。


 そこには、明確に、冷徹に──だが揺るぎない筆致で書かれていた。


 “ナノマシンの設計者として、私はこの技術が未来を救うと信じていた”


 “だが、これは誤用されている。人々を癒やすために作られたものが、今や統治の道具となっている”


 “各メガツリー中枢、最上階中央に設置された〈塔の心臓(コア)〉は、統治波を発している。それを体内に巡るナノマシンが受信し──人々の感情を、判断を、行動を──選別している”


 “それが、今の『平穏』の正体だ”


 涼の視線がページを追いながら、手のひらにじっとりと汗が滲む。


「……は? なにこれ……陰謀論か? カルト本……」


 乾いた笑いが、かすかに喉を漏れる。


 だが、笑ったはずの唇は引き攣っていた。手はページを捲るたびに小さく震え、鼓動が内側から突き上げるように速まっていく。


 ──信じられるわけがない。


 ──馬鹿馬鹿しい。こんなこと、現実にあるはずがない。


 無理矢理に笑みを浮かべた口元。だが、その否定と裏腹に、脳裏のどこかが、ひたひたと不快な確信を囁いてくる。


 (……でも、もし、これが全部、本当だったら?)


 (…エデンワクチンが、ナノマシン)


 (それじゃあパンデミックは、ドロスウイルスの蔓延は情報操作?虚偽?)


 あまりに静かで、あまりに整いすぎた世界。


 笑い声が溢れ、礼拝が日常にあり、あらゆる問題が“存在しない”都市。


 ──その違和感は、これまでも、どこかで感じていた。


「涼ー? 冷めちゃうよー」


 現実に引き戻された彼は、慌てて表紙を閉じた。


 その瞬間、視界の端で、小さな赤い光が一瞬点滅した。


 それは、書斎の梁にひっそりと設置された、監視用の小型カメラだった。


 リョウは表情を保ったまま、そっと背を向ける。


 鼓動だけが、まだ、鎮まりそうになかった。


⸻ ⸻ ⸻


ご閲覧ありがとうございました。

第一話では、整えられた「日常」の中に潜む、かすかな“綻び”を描きました。


涼が触れた一冊の記録──それは、ただのカルト本か、それとも。


次回、彼の胸に芽生えた疑念が、現実と交錯しはじめます。

何気ない行動のひとつひとつが、静かに“監視”されているとしたら……。


物語は、日常から一歩、外れ始めます。

どうか引き続きお付き合いください。


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