火鉢
四谷軒
元治元年――江戸、ある冬の日
お
火鉢から目を離してはいけない。
火鉢を扱う時の、初歩の初歩だ。
そう父から教えられた。
「観察が大事なのだな」
隣にいる男が言う。
お芳は、この隣にいる男の情婦だ。
武士として、かなりの名門の末裔にあたる男で、町人であるお芳からすると、情婦になることすら僥倖なのかもしれない。
でもお芳の場合、男から乞われて情婦になった。
男には京から来た正室がいるので、側室にと言われた。ちなみに、側室は他にもたくさんいるらしい。
かなりの言い
お芳はそう思って、男を受け入れた。
父は苦笑していたが、お
*
男はかなり面白く、あまり武家らしくなく、いろいろとみずから手働きすることを好んだ。
炊事、洗濯、縫物。
火鉢のこともそうだ。
どうやって火を
最後はどうやって火を消すのか。
それが見たいと言って、お芳の家に来た。
そういう手働きをしたいときに、男はいつもお芳の家に来る。
そうして。
「観察とは、観ること、察すること。それをするのが、一番、落ち着く」
手働きもそうだが、そういうことをすると、頭がスッとするらしい。
*
「実は、京に行くことになった」
火鉢の火を消すため、火消し壺に炭を入れた時、男はそんなことを言って来た。
聞くと、京で天朝さまを守る仕事をやることになったらしい。
「それだけじゃないんだが……まあ、そういうことだ」
男はごろりと床の上に横になった。
お芳もその隣にごろりとしたくなったが、抑えた。
火消し壺の炭がちゃんと消えたかを確かめねば。
「観察するのだな。やはりお父上の教えが
男は微笑んだ。
そして京は危ないから、ついて来なくていいと言った。
「でも、けいきサン」
お芳は男に言った。
元治元年――つまりは幕末、京は魔境である。
男の方が危ないんじゃないか。
「家族はみんな、置いていく」
火消し壺の炭の火が消えた。
それを
「すまない。辰五郎……いや、お父上によろしくな」
「お待ちなせえやし」
お芳は、ここで男を行かせたら、二度と会えないような気がした。
だから、その袖をつかみ、逃がさないようにする。
「おいおい」
「このお芳、いい人が火中に飛び込もうってのに、置いてかれるほど、人ができてやせん。お供いたします」
「いいのか」
男が振り返った。
その笑顔に、お芳はほくそ笑む。
「そしたら、お
「そうか、辰五郎もか」
それは心強いと、男は喜んだ。
これが、決め手となった。
まあ、使えるものは使わなきゃと、お芳は舌を出した。
「だって、せっかくのいい人だもの。逃がす手はないサ」
男は――では後ほど、正式に使いを寄越すと言って、あわただしく出て行った。
どうやら、京へ行くのは間近。
それでも、お芳に会いに来てくれたらしい。
火鉢は消えたのに、お芳は体がぽかぽかする気分だった。
「……さて、お
お芳は家を出て、裾をからげて駆け出した。
「どいたどいたッ! を組の新門辰五郎の娘のお通りだい!」
……こうしてお芳は父・新門辰五郎とその子分二五〇名と共に上洛、二条城に滞在し、「けいきサン」こと、禁裏御守衛総督・徳川慶喜の寵愛を得たという。
【了】
火鉢 四谷軒 @gyro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます