火鉢

四谷軒

元治元年――江戸、ある冬の日

 およし火鉢ひばちの炭をじっと見ていた。

 火鉢から目を離してはいけない。

 火鉢を扱う時の、初歩の初歩だ。

 そう父から教えられた。


「観察が大事なのだな」


 隣にいる男が言う。

 お芳は、この隣にいる男の情婦だ。

 武士として、かなりの名門の末裔にあたる男で、町人であるお芳からすると、情婦になることすら僥倖なのかもしれない。

 でもお芳の場合、男から乞われて情婦になった。

 男には京から来た正室がいるので、側室にと言われた。ちなみに、側室は他にもたくさんいるらしい。

 かなりの言いようだが、変に嘘をついて正室にしてやるとか、お前だけだと言われるよりは、ずっといい。

 お芳はそう思って、男を受け入れた。

 父は苦笑していたが、おめえが決めたんなら、それでいいぜと言ってくれた。



 男はかなり面白く、あまり武家らしくなく、いろいろとみずから手働きすることを好んだ。

 炊事、洗濯、縫物。

 火鉢のこともそうだ。

 どうやって火をおこすのか、火を保つのか。

 最後はどうやって火を消すのか。

 それが見たいと言って、お芳の家に来た。

 そういう手働きをしたいときに、男はいつもお芳の家に来る。

 そうして。


「観察とは、観ること、察すること。それをするのが、一番、落ち着く」


 手働きもそうだが、そういうことをすると、頭がスッとするらしい。



「実は、京に行くことになった」


 火鉢の火を消すため、火消し壺に炭を入れた時、男はそんなことを言って来た。

 聞くと、京で天朝さまを守る仕事をやることになったらしい。


「それだけじゃないんだが……まあ、そういうことだ」


 男はごろりと床の上に横になった。

 お芳もその隣にごろりとしたくなったが、抑えた。

 火消し壺の炭がちゃんと消えたかを確かめねば。


「観察するのだな。やはりお父上の教えがいている。いいことだ」


 男は微笑んだ。

 そして京は危ないから、ついて来なくていいと言った。


「でも、けいきサン」


 お芳は男に言った。

 元治元年――つまりは幕末、京は魔境である。

 男の方が危ないんじゃないか。


「家族はみんな、置いていく」


 台命たいめい(将軍の命令のこと)、いや、勅命だから仕方ないと男は頭をいた。

 火消し壺の炭の火が消えた。

 それをしおに男は立ち上がった。


「すまない。辰五郎……いや、お父上によろしくな」


「お待ちなせえやし」


 お芳は、ここで男を行かせたら、二度と会えないような気がした。

 だから、その袖をつかみ、逃がさないようにする。


「おいおい」


「このお芳、が火中に飛び込もうってのに、置いてかれるほど、人ができてやせん。お供いたします」


「いいのか」


 男が振り返った。

 その笑顔に、お芳はほくそ笑む。

 あたしの勝ちサ、と。


「そしたら、おっつぁんもついてきますよ」


「そうか、辰五郎もか」


 それは心強いと、男は喜んだ。

 これが、決め手となった。

 まあ、使えるものは使わなきゃと、お芳は舌を出した。


「だって、せっかくのだもの。逃がす手はないサ」


 男は――では後ほど、正式に使いを寄越すと言って、あわただしく出て行った。

 どうやら、京へ行くのは間近。

 それでも、お芳に会いに来てくれたらしい。

 火鉢は消えたのに、お芳は体がぽかぽかする気分だった。


「……さて、おっつぁんに話ィしとかないとね」


 お芳は家を出て、裾をからげて駆け出した。


「どいたどいたッ! を組の新門辰五郎の娘のお通りだい!」


 ……こうしてお芳は父・新門辰五郎とその子分二五〇名と共に上洛、二条城に滞在し、「けいきサン」こと、禁裏御守衛総督・徳川慶喜の寵愛を得たという。


【了】

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火鉢 四谷軒 @gyro

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