第20話

ランプの灯りが、ゆっくりと壁に揺れていた。

食器はすでに片づけられ、テーブルの上には何も残っていない。黒青は椅子の背に深くもたれ、静かな吐息を落とした。部屋の空気は穏やかだったが、その胸の奥には、まだ言葉にしきれない感情が渦を巻いていた。


「……世界は悲しすぎる」

ふと、呟くように黒青が言った。

「悲しみに……満ち満ちてる。そう思ってた」


猫娘のメイドは立ち止まり、振り返った。その表情は、優しくもどこか遠くを見ているようだった。


「私もです」

その声は、まるで誰かの記憶の底に落ちた水音のように、静かに響いた。

「でもそれを、自分のことのように考える人は少ない。悲しみは……他人のこと。

自分とは関係ないって、切り離さなければ生きていけませんから。生命って、そういうものです」


黒青はその言葉を聞きながら、手のひらを見つめた。

しわのひとつひとつが、遠い歴史の地図のように思えた。


「……歴史の“二重性”を拒否するっていう、未来の人たちの考えは……」

言葉を選ぶように、静かに続けた。

「……それって、いつから存在してたの?」


猫娘のメイドは少し考える素振りを見せ、そして小さく微笑んだ。


「あなたが生まれた時からですよ」

その声には、もう疑いの余地がなかった。

「おそらく、それは“可能性”という、小さな種が発芽するように……。すべては、予定通りなんです。あなたが存在することによって、必ず分岐が起こる。それは……“予言”されていた、というより、すでに歴史の中に“織り込み済み”なんです」


黒青は驚きも否定もせず、ただ、ぽつりと呟いた。


「……私が、生まれたのは……」


その問いかけに、猫娘のメイドはふわりと笑って、そっと目を細めた。


「さっきですよ。ついさっき」

そして、優しい声で言った。

「あなた、生まれたんです」


その言葉には、始まりと終わりの両方が込められていた。

新たな時の扉が、そっと開いた気がした。


「おやすみなさい――お嬢様」


そう言って、猫娘のメイドは一礼し、静かに部屋を後にした。

扉がゆっくりと閉じられる音がした後、部屋には深い静寂だけが残った。


黒青は、しばらくそのまま座っていた。

自分の胸の奥から、何かが解けていくような感覚を抱えながら――

やがて、立ち上がり、ベッドに向かった。


夜は、ただ静かに、そこにあった。

まるで、何も知らぬふりをして、世界を包んでいた。

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