第19話

食後の部屋は、柔らかい静寂に包まれていた。

器の中にはまだ少しだけ温もりの残るスープが、名残のように揺れている。テーブルには黒青が使ったカトラリーが丁寧に並べ直され、食事という儀式が終わったことを告げていた。


猫娘のメイドは、食器の片づけをしながら、ふと視線を黒青に向けた。


「報告書には私がサインしておきますから、お嬢様はお食事が済みましたらお休みなさってもよろしいですよ」

彼女の声はやわらかく、まるで毛並みの整った尻尾が夜の空気を撫でるようだった。

「……もし、眠れないのであれば、私もお付き合いしますけれども」


黒青は椅子にもたれ、背中でため息をついた。目を閉じると、胃の奥からじんわりと幸福が湧き上がってくるのを感じた。


「……面白い話が聞けたし、美味しいものも食べられた。だから……なんか、幸せ」

微笑んだ黒青の言葉には、どこか震えるような余韻があった。

「……ここに来たときは、ほんとうに寒かったの。夜だったし、風も強くて、

こんな寒い場所で一人で生きていかなきゃいけないって思ったら……泣きそうだった」

視線をふと窓の外に投げる。そこには今も、しんとした夜が広がっている。


「それが、こんなふうに……自分の子供と会えたりして、ここまで来られた。

何て言うか……不思議なんだよね。奇跡って、ああいうのを言うのかなって」


猫娘のメイドは、黒青のそばに立ち、静かに頷いた。


「それは、あなたの“正しい選択”と、“解釈”、そして“理解”がこの状況を生んだのです」

彼女の瞳は金色に光り、まるで夜の湖面に浮かぶ星のようだった。

「自信を持ってください。あなたの時間は、正しく進んでいます」


黒青は小さく鼻を鳴らした。


「……“ありがとう”とは言わないけど、感謝はしてる。皮肉じゃなくてね」

肩をすくめながらも、その声には確かな熱がこもっていた。


猫娘のメイドは、わずかに笑みを浮かべた。くすくすと喉の奥で笑うように。


「……十分、皮肉だと思いますよ。でも、そこがあなたらしい」

そっと黒青の前に膝をつき、まっすぐに彼女を見上げて言った。

「人間は、感謝するときに“ありがとう”って言うんですよ。猫の世界も、そうです。

ありがとうって言葉は、皮肉じゃありません。世界に対する、愛情です」


黒青はその言葉に、すぐ返事をしなかった。

ただ小さく頷いて、テーブルの上のランプを見つめた。


光は弱く、けれど確かに温かく、

夜の中で二人を包み込んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る