第18話

部屋の中には食事の香りがまだ残っていたが、黒青はもうフォークを置き、静かに椅子の背に身を預けていた。


猫娘のメイドはその横に立ち、視線をまっすぐ彼女に向けたまま、静かに口を開いた。


「いつの時代でしたか……ある科学者が言いました。“神はサイコロを振らない”と」

彼女の言葉は、まるで教会の奥でささやかれる祈りのように静かだった。

「けれど、私は思うんです。サイコロ自体が神なのかもしれない。振る者ではなく、揺れる存在そのものが、決定を司る可能性がある」


彼女の瞳は、どこか遠くを見ていた。

「もし、あなたがそのサイコロになったとしたら――」


「それはまだ、決まったことじゃないでしょ」

黒青が遮った。穏やかながら、芯のある声だった。


猫娘のメイドの耳がぴくりと動く。


「……お嬢様を“介入”や“消去”の対象にさせないためにも、私は必要なんです。

あなたが分岐させたこの歴史は、私たちが守らなければならない。

再分岐の試行は、60%の確率で失敗する可能性があるんです」


「60%……」黒青はつぶやいた。

それは高い数字だろうか。それとも、低いと言えるのか。

けれど、確実に言えるのは――「50%を超えている」。

眉をひそめた黒青は、淡く笑うような、苦笑のような顔で続ける。


「そんな危ない分岐を、私が選ぶとでも?」


猫娘のメイドは、一歩前に出た。影がわずかに黒青の足元に落ちる。


「可能性は低いと報告されています。ですが、分岐した場合の処置については、お嬢様もご存知のはずです」


重たい沈黙が、二人の間を覆った。


黒青は目を閉じてから、ゆっくりと開いた。瞳の奥には疲れの色が浮かんでいた。

「私は……これ以上の混乱を望んではいない。分岐の果てに何が残るか、その重さは十分知っているから」


猫娘のメイドの尾が、ゆっくりと左右に揺れた。


「……今の発言で、分岐の可能性が40%近く低下しました」

わずかに微笑んだような声色だった。

「私がこうしてお話しして良かったと……今、報告書が上がりました」


黒青は、天井を見上げた。広く、高い天井。その真ん中に、丸い装飾のシャンデリアが静かに揺れていた。


「報告書、ね。……じゃあ、もう少し話してくれる?」


猫娘のメイドは、そっと小さく会釈した。


「はい、お嬢様。お望みとあらば、何度でも」


その声には、命令では動かない意志と、プログラムではない感情のようなものが宿っていた。

もしかすると、それもまた、黒青が分岐させた世界の“副産物”なのかもしれなかった。

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