第5話

黒青は、足を止めて森を見渡していた。彼女が一歩進むたびに、目の前の木々がふわりと霧のように消え、振り返れば再び後ろに森が現れる。

「完全に……ホログラフィーか……」

自分が動くことで景色が変化するという仕組みに、彼女は驚きながらも、ある種の整合性を感じていた。誰かが――もしくは何かが――この空間を管理している。

「視覚認識連動型の環境制御装置……それとももっと原始的な心理誘導技術?」

そんな仮説が、頭の中に浮かんでは消えていく。


黒青はそのまま、また静かに歩き始めた。風はすっかり止み、聞こえるのは彼女の足音だけだった。やがて、森の奥に埋もれるようにして建っていたマンションが全貌を現した。コンクリートの外壁は、どこかくすんでいて、時間が止まったように静かだった。そのくせ、どこか“人工的な生命”を持っているように思える。まるで建物そのものが、息を潜めて黒青を見ているようだった。


そんなマンションの入り口付近で、何かが動いた。

……誰かが、手を振っている。


黒青は警戒しつつも、そっと足を速めた。近づいて、ようやくその姿がはっきりした。

それは、7歳くらいの小さな女の子だった。背が小さく、髪は長く、まるでこの世界の中でもひときわ柔らかい存在のように思えた。ただ、その背には赤ん坊が括りつけられていて、女の子がその重みに少し疲れたような表情をしているのが見て取れた。


少女は、黒青を見るなり、まるで待ち合わせに遅れてきた友人を責めるような口調で言った。

「やっと交代の人が来たの。何でこんなに遅いのかなーって思ってたけど……あれ? なんか変な服着てるね」

その目は大きくて無垢だったが、同時にどこか“役割を全うする者”のような確固たる意志が宿っているようにも感じられた。


黒青は困惑しながらも、丁寧な声で応じた。

「あの……すみません。私、上の世界から来た者なんですけれども……あなた、誰ですか?」


しかし、少女はその言葉に全く動じなかった。まるで黒青の言葉が重要ではないことのように、ひらひらと片手を振りながら、こう言った。

「そんなのはどうでもいいの。交代のシフトはちゃんと守ってもらわないと困るんだよ、OK?? じゃあ、この赤ちゃん、よろしくね」


それだけ言うと、少女はくるりと背を向けた。

赤ちゃんはもう彼女の背からおろされ、いつの間にか黒青の腕に抱かれていた。何がどうなってそうなったのかもわからないまま、黒青はその温もりと重みを腕に感じていた。


少女は振り返りもせずに、すっとマンションの中へ入っていった。その背中には、まるで「もう何も説明する必要はない」とでも言いたげな確信が漂っていた。


黒青は、ぽかんと立ち尽くしたまま、腕の中で静かに眠る赤ん坊を見下ろした。赤ん坊の頬はやわらかく、ゆっくりと呼吸をしている。まるで、世界の混乱とはまったく無縁のように。


「……これ、どういう……ことなの……?」


彼女の声は風に吸い込まれていった。マンションの入り口はすでに閉じられており、彼女のもとには赤ん坊と、どこまでも静かな昼の世界だけが残されていた。

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