第35話

「香月!」


光溢れるやさしい空間に現れた玄侑が、香月を抱いていた玄侑を炎でなぎ払った。その一閃でやさしかった空間は瓦解し、もとの憎悪溢れる嘆きの造り上げた空間に戻った。香月を抱いていた玄侑は、姿を変えて、嘆きを宿した浩次朗の顔に戻る。

香月は本物の玄侑に抱きかかえられながら、大丈夫か、と彼に声を掛けられたが、頷きたくても、差し伸べられた手を取りたくても、四肢に力が入らず、体をだらんとさせた。


「はははは! もう遅い! 君は良い入り口を付けてくれた。実に僕との親和性が高かった。その娘はすでに抜け殻も同然」


彼はひょいっと虚空へ飛び、そのまま姿を消した。香月の意識はもうろうとする。香月の中に、彼が根付きすぎた。香月が彼の呼びかけに応じて手を取ってしまったから、彼は香月の願望に応える代わりに、香月の中に根を張った。大きく力を吸った彼は、香月なしでも空間を膨らませ、世界を覆い尽くそうとしている。


(私が嘆きの手を取らなければ、この空間はこんなにも大きくならなかったかもしれないのに……)


香月は、玄侑の歩むべき道に受け入れられない辛さから逃げてしまった自分の選択を慚愧し、己を呪った。


「玄……、侑、さま……」


力を振り絞って、目の前の焦がれる人の名を呼ぶ。

夢を、見ていた。やさしく、みんなが香月を受け入れてくれる夢。

涙が溢れて零れていく。あれは確かに香月の望みだった。でも、この涙が、それを裏切る。

だって、あの夢は悲しい夢だと、分かってしまったから。

閉じられた世界でしか得られない、泡沫の夢。どの未来にもつながらない、むなしい夢想。

嘆きの見せた夢を幸せだと思ったからこそ分かる。彼も、自分と同じだったのだと。

ならば自分は、二度と過去を振り返らず、困難があっても玄侑の為に前に進む未来を選びたい。

運命の糸などなくても、玄侑は香月を見つけてくれた。ならば、それを信じたい。


「玄侑さま……」


香月は渾身の力で微笑みを浮かべる。

私はあなたに、約束をした。あなたを照らす、月でありたいと。

であれば、あなたの為に、力を尽くしましょう。たとえこの身を犠牲にしても。

そして髪に挿しているかんざしを抜くと、己が胸に狙いを定める。香月の意図を悟った玄侑は、目を見開きその手を止めた。


「香月! そんなことをしたら、君が……!」


動揺の色濃く叫ぶ玄侑に、しかし嘆きを止めるにはこれしかない、と思う。


「ですが、彼は私の奥深くに根付いて居るのです……。彼を止めなければ、この世界が膨張し続け、人世も神世も飲み込まれてしまう……」


夢の中で香月の手を握った嘆きは、香月の奥底から力を吸い上げ続けている。もういくらも残っていないと思うけれど、それでも。


「それに玄侑さまも彼が居続けることで、彼の影響を受けてしまいます……。それでは神たるあなたの未来を照らせない……」


約束を果たして、契約を終えよう。それが私の最期の願い。

目に力を籠めて、玄侑を見つめる。彼は苦悩にこぶしを震わせ、暫く無言で居たのちに、しかしゆっくりとかぶりを振って、やわらかく香月の手を撫でた。


「俺は君に出会ったことを悲嘆していない。それは君を得たことで希望を持ったからだ」


希望、夢。願望、憧れ。

それはいつも香月と遠いところにあった。香月には悲しみと嘆きしかなかった。

でも、玄侑と出会って、生きる希望を持った。幸せな時間を送る夢を持った。玄侑とともに歩む願望を持った。帝都の人々のように穏やかに過ごす憧れを持った。

香月のために嘆きに傾く玄侑も、香月と過ごして希望を得たというのなら。

ふと、手が緩む。かんざしが落ちないよう、玄侑が支えてくれる。そして香月の目を見つめて、囁く言葉は。


「俺は君と過ごした全ての時間を愛している。どの欠片も・・・・・、今この時になくてはならない破片だ」


彼の静かな言葉で、固い音が耳に蘇る。黒々と輝いた、あれは欠片。

玄侑に言われて、あのときのことを思い出す。そしてゆっくり頷くと、かんざしを平行に持ち替え、胸に当てた。玄侑が右手を握ってくれる。


「君を、絶対、離さない」


甘い低音に、頷き返す。

今この世界は、弱い自分の証。

悲しみ、嘆き。憎しみ、恨み。香月の中にもあったそれらは、嘆きが見せてくれたあの夢を望んでいたから。

望み、憧れ。希望、夢。それらが陰を生み出すというのなら。


(わたしも、両方抱えて生きていこう)


過去のあの青年も、彼が飲み込んだ嘆きも、世界に求められない空しさを抱えて泣いていた。人と違うものが視えるからとか、人々に好意を持って受け入れられないとか。その辛さは香月の抱えていたものと同じだった。

でもそれに絶望するだけが人生ではないと玄侑が教えてくれたから、香月は前を向く術を覚えることが出来た。彼らがもし未来を拓くなら、自分がその一助になれないだろうか。

目を閉じて探るのは、己が内の彼の力。やさしく語りかけてくれた、彼の声。よどむ内を辿って、辿って。


(かわいそうなあなた。そして、わたし。今、あなたたちを救うから)


さまよう指先が、己の奥深くでふと何かに触れる。

ぐっと、掴んだ。彼の、一端。目を見開き、香月は叫んだ。


「お願い! 玄侑さまと未来へ行かせて!」


体の中の力を全て手のひらに集中させる。身の内の濁流が香月の握ったその一端に集中する。

どんどん。どんどん、どんどん、彼に力を注いでいく。虚空から苦し気なうめき声が聞こえた。


「う……、ああ……、や、……め、ろ……」


声と共に彼が姿を現した。目を見開き、くせ毛の頭を抱えてのたうち回り、丸眼鏡を手に引っかけて顔から落とす。果ては自らが造った空間から逃れようとした。その脚が、ぐっと引き留められる。


「くっ、貴様! 裏切ったのか!」


鬼の形相で彼が睨み付けるその先に、鷹宵が居た。玄侑の背後で、彼の影の先端を際の鈴鐘で刺している。鷹宵は口許に笑みを浮かべて応えた。


「裏切る? 最初から私の主は玄侑さまただ一人ですよ」

「貴様ああああ!」


彼が怒りをあらわにこちらへ突進し、怒気の全てを凶つ刀に変じて振りかぶってくる。まるで過去のあの青年のように。このままでは彼の怒りに三人とも、あの刃で斬られてしまう。


(そんなの、駄目)


玄侑との未来を描くために。


「香月」


力強く呼びかける玄侑の手からも、力が入ってくる。そして玄侑は嘆きに呼びかけた。


「来い。お前の凶つ力を俺の責任で滅し、封印する」


圧倒的な、まがまがしいものを消し去る力が香月の中に入っていく。香月は玄侑の助力を得ると、決意を持って最後の力を振り絞り、身の内に力を叩きこんだ。


「――――……っ!」


瞬間。

バン! と大きな破裂音がし、香月たちを閉じ込めていた空間が粉々に砕け散る。浩次朗の体は意識を失ったかのようにその場に倒れ込んだ。

パラパラと落ちる欠片は外の月光に輝いて。

辺りには鈴鐘の音が響いていた。


りん。りん。りん。


涼やかな音が荒れていた空気を穏やかに変じていく。規則正しく鳴るその音が支配する空間に、しばし身を置いた。


(この音……。先代さまが鳴らしてらした、鈴の音……)

「先代は……、奴の中にもいたのか……」


玄侑の呟きに合点がいく。嘆きが見せた夢で鳴っていたのも、この音だった。彼女は彼の身の内にありながら、それでも彼を正そうとした。彼女も心残りだったのだろう。


「先代さまにも助けて頂きました……」


静かなる黒き神。宵闇に美しいその存在に、香月は改めて畏敬の念を抱く。しかし、それ以上に。


「でも、玄侑さまが支えて下さったからこそ、私は今、ここに居られます」


未来を指し示してくれた玄侑に、感謝を伝える。彼は香月の頭にほおずりをして、君が頑張ったからだ、と静かに言った。

香月は玄侑に抱き締められながら、まばゆく月光の照らす世界を見つめ、己を悲しむ時間は終わったのだと理解した。

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