第34話
内から聞こえる声に、深く頷く。香月が出会ってから見てきた玄侑は、常に責を全うしようと懸命に生きていた。そんな彼を、偶然にも手伝うことが出来、彼から求められて、腕を伸ばしたくなるほどに胸を焦がした。声は更に語りかける。
――――なのに、僕を否定するこの世界で君を求め続ける限り、僕はまた黒に染まってしまう。
悲しげな彼の言葉にぞくりとした。その言葉に、思い当たることがあったからだ。
神山で丹早に香月を侮辱されたとき。人世で家族に襲われたとき。いずれも香月をかばうために、彼は黒の気を発した。そして先ほどは、自分を案じたが故に夜斗すらも恐れる憎悪の気を発した。
(じゃあ、私はやっぱり……)
頭の中で思い描いていた未来が現実になること恐怖し、香月は震え、顔を手で覆う。
やはり自分は玄侑が歩む道を歪めてしまうのか。彼を求めれば求めるほど、彼を嘆きに染めてしまうのか。
(そんなのは嫌)
玄侑が墜ちることなんて、考えたくない。彼にはまっすぐ前を見ていてほしい。香月が救われた玄侑であり続けてほしい。
(でも、玄侑さまが私に向けてくれた言葉を、捨てたくない……!)
何故、自分は幸せになることを許されないのか。玄侑は確かに香月に手を伸ばしてくれたのに。
香月は顔を覆ったまま、かぶりを振った。甘くてやさしい声が、そっと囁く。
――――大丈夫だよ。僕に力を貸してくれれば、僕は何時までも君と一緒に居られる。
玄侑の声音でそう囁かれて、香月はそっと背後を振り向いた。そこには微笑む玄侑が居て。抱きしめてくれる腕の力も、彼のものだった。
腕の力に、彼のやさしいまなざしに、何度目かの安堵をしてしまう。彼の言葉を、思い出して。
『過去は振り返らない。俺は、君との未来を、求めていく』
彼が造る未来なら、過去の出来事を繰り返さないかもしれない。彼が恨みも憎しみも抱かず、香月と共に在ってくれるのなら、それは香月にとって幸せな未来だ。
(誰かに捨てられるのは、もう嫌……)
自分を求めてくれた力強いあの瞳を思い出して、香月は背後の彼に問いかける。
(どうしたらいいの?)
――――簡単だよ。僕の手のひらに君の手をのせて。
耳に響く声に促されるように、香月は右手をゆうるりと持ち上げた。その手を、彼の手が迎えに来る。
―――そう。そうして……。
そのとき、重ねようとした手のひらがじわりと熱くなり、体の奥底から香月を呼ぶ声かがした。
*
「香月!」
ザッと空間が切り裂かれる。嘆きが造り上げた真っ黒な空間に分け入ってきたのは、玄侑だった。遮蔽されていた壁に炎で割れ目が出来たが、それでも壁は自ら修復され、傷口を塞いでいく。壁はどんどん膨らんでいき、人世を飲み込もうと企んでいく。
浩次朗の姿で玄侑を見る嘆きからは、過去に人世を恐怖に陥れた状態にまで膨れ上がった世界への憎しみを感じる。それは彼を封じてきた玄侑自身に対するものでもあった。彼は許せないのだ。玄侑が守ってきたこの世界が己を認めないことを。そして己の半身である玄侑が心の拠り所を得ることを。
嘆きの怒りも分かる。しかし香月を自分じゃないものが浚っていくことは全く許容できなかった。玄侑は香月を抱えたままの目の前の相手をギッと睨めつける。彼は面白そうに笑った。
「残念だったね。もう遅い。彼女は僕が造る未来に生きると言ってくれた。僕は彼女の願いを叶える代わりに、彼女の力を全て貰った。でもこれは、君がやっていたことと同じだからね? 君と何ら変わらないことを、君じゃない僕がしたっていうだけで、そんなに怒らないでほしいな。そもそも僕たちはひとつじゃないか」
飄々と言う嘆きにはらわたが煮えくり返る。ひとつは彼の私欲に満ちた行動に。そしてもうひとつは自分が香月と契約したときの打算を顧みて。そんな玄侑を、彼は面白そうに笑うだけだ。
「ほら、そうやって、僕と一緒になっていく。いいね。僕たち三人で、真新しい世界を作り上げようじゃないか」
確かに怒りに振れる玄侑は彼と一緒なのだろう。しかし彼と玄侑とでは、決定的に違うものがある。
「貴様と同一などと、思ったことはない。貴様は欲望のために全てを犠牲にする。力を持つものとして、それは許されない」
神として立ち、自らに課してきたこと。そんな自分が香月を得たいと欲望を抱くなら、玄侑は人世に対して新たにひとつ責務を負う。
「それを変えるために、僕は居るんだよ。大丈夫。君も直ぐに楽になる」
空間にいかづちが走る。憎しみと怒りで充満した空間バリバリという大きな音が響き、人世に影響を及ぼし始める。いかづちが刺さるごとに人世に妖魔が発生し、人々が阿鼻叫喚の嵐に飲み込まれる。逃げ惑う人々の叫びわめきも、空間に響くいかづちの音も大きな音だが、香月はぴくりとも動かない。
「香月! 起きてくれ! この想いが幾多の苦難を引き寄せようとも、俺は、君とともに未来を歩きたい! 君は俺の月となってくれると言ったじゃないか!」
(だあれ?)
まるで母のおなかの中に居るみたいなあたたかで心地よい空間に、何かの叫び声が聞こえる。
良いんだよと。ここでまどろんでいれば良いと、やさしいひとが語りかけてくる。
ああ、そうだ。私はお母さまに笑いかけてほしかった。家族の中で幸せに暮らしたかった。あたたかな光の満ちるこの世界なら、母も家族も、香月のことを受け入れてくれるような気がする。
『香月』
『おねえさま』
母が手を広げて迎えてくれる。桔梗が微笑みながら駆け寄ってくれる。
ほら、みんながわたしをやさしく呼ぶ。ここなら安心。恐れるものはなにもない。わたしはやすらいで、まどろむの。
ずっとたゆたっていたい穏やかでやさしい心地の世界に、小さな鈴の、音がする。
しゃら。りん。りん。
だあれ、だあれ。わたしの、世界を、邪魔しないで。
むずがる赤子の如く目を開けると、目の前にはやさしく微笑む玄侑さま。
「怖い夢を見た? 大丈夫。僕がちゃんと、守ってあげる」
微笑む瞳は揺らぎなく。香月をまっすぐ見つめてくれる。安心できる、黒の瞳。
「君が不安になることなんて消してしまおう。君を僕だけのものにして、閉じ込めてあげる。そうすれば何も怖くないし、誰にも怯えなくて良い」
とろりとした甘さを含む声でそう言われて、心を陶酔感が埋め尽くす。
玄侑さまだけのものになって、玄侑さまの鳥かごに閉じ込められてしまいたいと、私は確かに願ったの。もう我慢なんてしない。だって此処なら全ての希望が叶うから。
「そう。君の望みは何だって叶えてあげる」
やさしい母も父も桔梗も居る。玄侑さまだって居る。みんなに囲まれて、ずっと幸せに暮らしたい。わたしの希望。わたしの未来。
「叶えてあげよう、君の未来。そして僕の未来も叶えてくれる?」
右手を握る玄侑さまの力が強くなる。羽毛に包まれるみたいにあたたかい。世界に溶けてしまいたくて、わたしは再び目を閉じる。手のひらは、熱くて。あつくて。
しゃら。りん。りん。
身の内から音が響く。うるさいそれから逃れようと、首を振る。
しゃん。しゃら。りん。
音に、声が、被さった。
――――『この想いが幾多の苦難を引き寄せようとも』
それは聞いたことのある、声だった。まどろむ目をあけると、玄侑さまの微笑む瞳は揺らぎなく。常闇色の炎が燃えさかる。
妖しい炎。揺れる闇。
そわり、そわり。心に宿る、それは疑問。
ここはどこ? あなたはだれ?
そのとき、かんざしが、りん、と鳴った。
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