第33話


「この忌み子!」


パンッと頬をはたかれる感触に目を覚ました。目の前には鬼の形相で香月を見下ろす母が居た。その後ろには父が居て、術を唱えている。あれは結界修復の術。おそらく妖魔が此処にやってきたのだ。


「お前の軽率な行動で我が家が荒らされたのよ! 家族に迷惑を掛けているという自覚はあるの!?」


怒声に俯き床を見れば、血痕が残っていた。ああこれは、自分の体質が呪わしくて死を願ってしまったときのことだ。

幼い頃の出血で身の内に黒の血を持っていることが分かって以来、両親は香月を牢に隔離した。殺害しようにも既に子供が生まれたことは世間に知られており、地区の民は蓮平の次代の披露目を今か今かと待っていた為だ。

父は牢に近寄らなかったが、母は香月が寂しさに爪を噛むなどして血を流されては困ると思って、香月にやさしい声を掛けてくれていた。幼い頃の香月はそれを信じ、自分は守られているのだと錯覚した。

両親は香月の使い道を思案していたのだろう。やがて桔梗が生まれ、彼女が初陣を控えた時期ににこやかに言った。


「では、お姉さまを餌にしたら良いのよ」


こうして香月の運命は決まった。父に牢から引きずり出され、妖魔が出るという夜に武具も持たずに放り出された。


「お母さま、怖い」


涙を浮かべる香月に、母は嫌忌の眼差しを向けた。


「お前の活用方法が、ようやく分かったの。私たちは街のため、陛下の為に働いているのよ。お前だけのうのうと牢に守られている訳がないでしょう」


父も、氷のような眼差しでこちらを見た。


「お前の所為で、陛下からのご信頼も地に落ちている。せめて桔梗のためにその身を捧げて、蓮平の未来に貢献するんだ」


桔梗は歌うように言った。


「私がお父さまやお母さまに破妖を習っているのが、羨ましかったのでしょう? これでお姉さまも、破妖のお仕事が出来るじゃない」


三人の言葉に、ぞわりと命の危険を感じた。このままだと死んでしまう。そう思って香月はその場から駆けて逃げようとした。

そこへ母の鞭が飛び、香月は腕を打たれて血を滲ませた。途端にオオン! という咆哮がどこからか轟いた。香月は本能的に恐怖し、声から逃げようと脚を動かす。背後から母の鞭がまたしなり、今度は脚に傷を作った。


「お母さま! 止めて、止めて! 痛い! 怖い!」


泣きじゃくりながら逃げる香月を襲おうと、夜の闇を覆い尽くすかのような妖魔が頭上に姿を現す。


「ひ……っ」


途端に足が竦んで動けなくなる。立ち竦む香月に妖魔が襲いかかろうとしたとき。

ビュッと月の明かりに輝く刃がその場を一閃し、妖魔が悲鳴を上げて消えていった。妖魔が消えた向こうには、満足そうな桔梗と両親。


「良いわね、これは」

「うむ。街中を見回らなくて済む」

「楽しい初陣でした。お姉さま、次からもよろしくね」


その言葉に悟る。


(ああ、私には)


命としての価値はないのね。

絶望の淵に堕とされた香月の耳に、不意にやさしく労りに満ちた声が届いた。


――――かわいそうに。


その声は、羽根のようにやわらかに香月の心の傷を隠した。蓮平で本当に誰かに寄り添ってもらったことなど、なかったのだと思い知ったから。

血を流し続けていた傷口をそっと癒やされて、香月はやさしい声の主を探そうとする。


(誰?)


甘やかな声はささやき続ける。


――――自分の存在を否定される辛さ、僕には分かるよ。


絶望に同調してくれた声の主に安堵の気持ちを覚える。胸に抱えていた辛さを共有できた安心感は、仲間を得たことであんみつを口にしたときのような陶酔感に代わり、香月は胸を高鳴らせて声の方を振り向いた。そこには微笑みをたたえた青年が……、黒くて長い髪をなびかせた、玄侑がそこに居た。


(玄侑さま)


彼の姿に安堵が一層強くなる。

分かってくださった。玄侑さまが分かってくださったら、私はもう、何も要らない。

使い捨てられた香月を拾ってくれたやさしい人。香月に生きる意味ある時間をくれた、大切な人。彼にさえ分かって貰えたら、自分は生きていくことになんの不自由も感じない。

香月は彼に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。玄侑が香月の肩をぎゅっと抱きしめてくれたから、香月は絶望の淵で強張らせていた体の力を抜き、彼に体を預けた。しかし彼の口から、言葉が続く。


―――しかし、君が居ると、僕はまた、世界に否定され続ける。


(え)


悲しそうな響きの声に、香月は玄侑を見上げた。昏い目をした玄侑は、あれが見えるかい? と視線を地平にやった。

そこには人々が居た。彼らは群れて、一人の女性に相対してる。黒髪長い、鈴柄のあの着物を着た女性だ。対して群衆の先頭に立っているのは、栗毛色のくせ毛が印象的な年若い青年。


「ほら皆さん、視えるでしょう? あの女が、人世を満たしてくれている神力を消し去っているんだ」


彼の言葉に人々がわめき叫ぶ。女性は、違うのです、と悲しげに否定するが、人々は聞かない。


「なんで俺たちを守ってくれる力を消すんだ!」

「俺たちの平穏は侵させねえ!」


人々は彼女に石を投げ、怒号を浴びせ。果ては家から包丁を持ち出すものまで居た。これは玄侑に聞いた、彼の前の『玄侑』を襲った人世での惨事なのではないだろうか。

群衆はわめいたまま彼女に襲いかかろうとしていた。彼らの周囲はまがまがしく澱み、青年が人差し指をゆっくりと掲げていくと、それが鋭利な刃のように尖っていく。青年は高らかに掲げた腕を振り下ろす。まるで群衆の怒りを黒き神に突き刺そうとするように。


(やめて!)


香月が叫んだとき、女性の体には青年が作り上げた鋭い刃が刺さり、その器から力が放出されてだしていた。全てにおいて均衡を保っていたひと柱の神の力が、崩壊したのである。

ゴオオッ! と辺りは嵐に囲まれた。そしてその渦の中から、この世の全てを呪い殺しそうな声がした。

『許さぬ……。我を否定するもの全てを許さぬ……』


おどろおどろしい声は、渦の中の黒いもやから発されていた。


(これは……)


嵐が咆哮する中、人々は声のまがまがしさに怯えている。


(これが玄侑さまの言っていた『嘆き』……)


声が含む悔しさや悲嘆の色は、香月にも覚えがあった。あまりに理会出来すぎてしまう胸を突く痛みに、ぐっと奥歯を噛みしめる。嘆きに向かって青年は、歓喜の笑みを浮かべた。


「あははは! そうだよね! 世界に否定されることの、なんと虚しく悔しいことか! あなたはその悔しさを表出できずにいた。僕は力が視えることで異端視された! ならば僕と一緒に、僕たちを受け入れてくれる世界を作ろうじゃないか!」


青年は笑ってそう言うと、ぱか、と大きく口をあいた。そこは周囲の空気と一緒に、そのもやを飲み込んで行く。

ゴゴゴ、という地鳴りが聞こえる。ビリビリと空気が振動する。そして青年を中心とした空間に、黒くて大きな異形のものが生まれていく。それは牙を持ち、爪を持ち……。妖魔だ。妖魔が生まれているのだ。


「ひいい! 化け物だ!」


自分たちを先導した青年から恐ろしい巨体が生まれるのを見た人々は恐怖に戦き、口々に助けを求める。


「神さま、お助けを!」

「死にたくねえ!」


人々は恐ろしさにその場にうずくまり、頭を手で守りながら震えた。彼らの叫びに呼応するかのように斬られた女性の残滓の中から一つの人影が生まれ立つ。その人影は豊かな黒髪をひとつに結わえた、黒衣の玄侑だった。


(玄侑さまは、こうして立たれたのね……)


玄侑は手のひらから黒い炎を発し、妖魔をなぎ払っていった。そして忌まわしげな表情をしている青年と対峙する。


「お前は間違っている。悲しくても憎くても、他者を害して良い理由にはならない」


低く落ち着いた声で嘆きに対する玄侑に、青年は嘲笑を浮かべる


「正しくものを言っていても、君の中の自らに対する怒りや憎しみが、半身たる僕には分かる。だってそうだろう? 君が立つには、彼女が犠牲にならなければならなかった!」


高らかな青年の笑いに、香月ははっとする。玄侑が常に諦観のまなざしをしていたのは、己を呪っていたからなのか。


――――分かるかい? 僕はそれでも自らを律した。神として正しくあるために。

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