第32話


静かな怒りをはらんだ声でそう言うと、彼はぐいっとその刀を押した。すると桔梗が驚愕の表情になり、目を二~三度瞬かせたかと思うと、すぐにその場に崩れ落ちた。

ばたり、と桔梗の体がその場に倒れるまで、ほんの一瞬だった。何が起こったのか、理解が出来ない。困惑して桔梗と玄侑を交互に見ると、彼は悔しそうに呟いた。


「器に合わぬ力を持ったからだ。力が欲しいというので、与えてみたが」


玄侑は倒れた桔梗の傍らに片膝をつき、手に引っかかっていた刀を抜き取る。


「そもそも人間が何の加護もなく神世に来て、無事でいられると思うのが間違いだ」


香月は契約の時に玄侑が言っていた言葉を思い出した。


(私が……、玄侑さまと契約しなければ、桔梗は無事だったのかしら……)


しかし自分の命を使われた時間を顧みると、その選択は難しかった。辛い気持ちを抱えて倒れた桔梗を見る。

そのとき玄侑が傾いだ体を支えきれず、その場に手をついた。


「う……っ」

「玄侑さま!」

「玄侑さま!」


おそらくまだ体が本調子ではないのだ。さっきまで薬を飲んで眠っていたはずなのだから、大丈夫なはずがなかった。

ふと、面白いものを見るような声が降ってくる。


「かわいそうに。彼女のためにそんな無理をして」


そう言葉を発したのは、鷹宵の陰から現れた、浩次朗と呼ばれていたあの丸眼鏡の青年だった。人間である彼が神世に居る理由は、もしや桔梗と同じだろうか。彼の哀れみを浮かべた嘲笑の目に、ぞわりと冷たいものが背を走る。


「私……?」

「そうだよ」


浩次朗の纏う気は、妖魔を前にしたときと同じだった。彼の中に妖のものが居ると香月の黒の血が言っている。香月の力を封じた、妖魔を生み出しているもの。玄侑が己の半身だと言っていた、それ。


(嘆き……)


さくりさくりと草を踏みながら香月に近づく浩次朗に、玄侑は香月を片腕で守りながら、彼の後ろを見つめ、低く問うた。


「やはり封印を解いたのは、お前か。鷹宵」


鷹宵は昏い瞳のまま答えない。彼が玄侑にとっての悪い要因を排除するというなら、香月はそれに当たるのかもしれない。しかし嘆きの封印を解く理由が分からない。


玄侑の言葉に動揺と困惑を抱える香月に、玄侑が安心させるように手を添えた。しかし未だ白陽の薬を飲んでいる玄侑の体調は万全ではなかった。体の均衡が思うように取れていない。香月もまた、玄侑の手を握る。彼がこの状態になっているのは、自分の所為なのだ、と思うと、どうしようもなく自分を責めたくなる。


(私が居なければ、玄侑さまはこんなご無理をされなくても良かった……)


玄侑と出会ってしまったことに対する悔恨の念が胸に渦を巻く。せめて、嘆きから彼を守ろうと、香月は玄侑の体の傍で嘆きから彼を隠そうとした。

玄侑は応えない鷹宵から視線を移し、歩みを止めない浩次朗を制しようとしたが、片手と片膝をついたまま、その体制を保つのが精一杯だ。玄侑が、はっと気づいたような顔になる。


「……そうか、人世での一件はこれを目論んでいたのか……」

「やあ、やっと気づいたの? でも、君がそんなにぼんくらだとは思わなかったな。やはり怒りを忘れると、精神は退化するだろう? 良くない兆候だ」


玄侑の言葉に浩次朗……、いや、嘆きは面白そうに彼を見下した。そして挑発するように腰を折って、玄侑の顔を覗き込む。香月は玄侑の体を支えたままだったが、嘆きに無理に腕を強く引かれて前のめりによろめいた。玄侑は体の均衡が取れず、それを止められない。


「止めろ!」

「離しなさい! その手を!」


玄侑が体勢を崩す中、夜斗が嘆きに飛びつくが、彼は腕を振るだけで易々と彼女をはねのけた。ドシャッと地に叩き付けられた夜斗が殴打した痛みにうめき声を上げる。


「鷹宵さま……、なぜ、こいつを……」


夜斗が悔しそうに鷹宵に問うが、やはり彼は答えない。玄侑も夜斗も動けない中、嘆きはそのまま香月の腕を引き上げて、香月の右手のひらに自らの手を押し当てた。


「ひ……っ!」

「君と出会えたことを、桔梗という娘に感謝しなければならない。封印越しでは叶わないほど、直接得る力は大きいからね」


悪寒が体の中を駆け巡り、手を引こうとするが、その力に適わない。ずぶずぶと、嘆きが香月の中に入ってくる。


「い……、や……」


本能的な恐怖に声を零すが、嘆きはそれすらも面白そうに見ていた。


「止めろ! 香月に触れるな!」


叫べば叫ぶほど、香月を取り戻したいと思うほど、ふわりふわりと体の周りに黒いもやが舞う。玄侑を暗黒の黒に堕とす、憎悪の気だ。


「げ、玄侑さま……」


その気に当てられた夜斗が怖れの呟きを零す。一方立ち上がれない玄侑に対し、嘆きはこれ見よがしに言った。


「君も早く諦めてしまえば良いのに。この娘を求める限り、君と僕は同一だ」

「違う!」


激しくかぶりを振る玄侑に対し、彼はおもちゃを楽しむように笑う。


「何が、違うの。そんなに憎しみの黒の気を放っておいて」


ねっとりとした愉悦を含ませた声音でそう言うと、嘆きは合わせた手のひらを見せつけてくる。玄侑には分かっていた。あそこから香月が喰われている。自分が、印を付けたばっかりに。


「香月!」

「げん……、ゆ、う、……さ……」


力なく浩次朗に抱かれる香月を呼ぶが、意識を手放しつつある様子で、小さくこちらに指を伸ばすのが精一杯の様子で玄侑を呼んだ。立ち上がれない憤りを内包しながら、彼女の姿に胸が張り裂けそうになる。


「香月……! 貴様……、許さんぞ!」


激昂に目がくらむ。人世の時と同じ……、いや、それ以上の憎しみが玄侑を支配する。憤怒の気を発しながらあらん限りの力を振り絞って彼につかみかかろうとするが、造作なく避けられてしまう。

玄侑から零れ出た怒りの気は、楽しそうに嘆きが吸収していった。取り込むごとに嘆きは力を大きくし、その場からひらりと飛んだ彼は、香月を抱えたて中空から玄侑を見下ろした。香月の体はだらりとしており、意識はもうないようだった。


「ほら。君が欲しい彼女は、もう僕のものだ。悔しいよね。憎らしいよね。それなら僕と一緒になれば良い」


こんな風に、と言って、嘆きは腕を振って、鷹宵が施した膜を消した。浩次朗の内に居る嘆きは玄侑の半身。同じ黒の属性で、だから鷹宵の施した術も操れるのだ。

彼が造った空間が消えると、途端に吐き気がするほどの黒い気の中に放り出される。彼と香月の姿は消えてなくなり、玄侑と夜斗は黒い渦の嵐のただ中にいた。おそらく鷹宵が桔梗を通すために抜いた神世と人世の際の鈴鐘の穴から神力が逆流して来ている。神世が、荒れているのだ。


「く……っ!」

「う……、うう……」


ぐらぐらと頭がかすむ。奴に対する怒りと憎しみに飲み込まれそうだった。夜斗も悪い気に当てられて苦しんでいる。叫び声が聞こえたのは、そのときだった。


「玄侑! 何をやっておる!」


遠くから、自分をぴしゃりと叱る声だった。


「おぬし自らがその気を発してどうする! 我はそんなことのために神山に通したのではないぞ!」


丹早だった。丹早が、訪れることも拒否していた玄侑の領域に立ち入ってきている。


「丹早……」


高圧的な叱咤に、玄侑は我に返ることが出来た。息はしづらいが、ほっと息を吐く。


「丹早、すまない……」

「詫びてる暇があるなら、おぬしの責でこれをどうにかしろ! 我は神山が侵されるのを防ぐだけで、精一杯じゃ!」


丹早の一喝に嵐の向こうの輝く神山を見ると、この嵐はかろうじてまだあの領域にまでは至っていないようだった。彼女も、非常の事態に神世を守ろうと必死になってくれている。神世が荒れたら、人世は元に戻らない。

玄侑は丹早に頷くと、手に炎を発した。それを自らの周囲に振りまけば、幾分呼吸が楽になる。息苦しそうだった夜斗も少しは息が吸えるのか、申し訳ありません、と謝罪してくる。しかしこの状態を引き起こしたのは自分だ。彼女が謝る理由はない。


「いや、これは俺が悪い。この気を一気に滅する。夜斗、部屋にある鈴鐘を持ってきてくれないか」


玄侑の言葉に夜斗ははじけるように屋敷に戻った。そして直ぐに鈴鐘を持って戻ってくる。


「玄侑さま! 持って参りました!」


傷ついた香月の手からこぼれ落ちた力を封入した鈴鐘だった。それを手に取り、りんと鳴らしてからぐっと握り混めば、手のひらからあの輝くような炎が立ち上がった。ゴウゴウと嵐が襲い来る中、黒い気が玄侑の発した炎によって質を変じて、凶き力をなくしていく。


「すごいです……! 一気に空気が変わっていく……!」


夜斗が驚嘆して見ている前で、玄侑は次から次へと鈴鐘を使って炎を発し、周りに満ちている凶つ力を消していった。

加えて、丹早が白陽の熾した力を通常より熱心に神世に行き渡らせるよう、助力してくれた。おかげで神世を荒らした嵐は徐々に収まっていった。静まっていく神世に、夜斗は安堵の表情を浮かべる。


「ああ、息が出来る……。玄侑さま、ありがとうございます」

「いや、俺こそすまなかった」


謝罪する玄侑に、そんなことないです! と夜斗は両手を顔の前で横に振った。


「ここは収まっただろう。玄侑、あやつをどうする」


丹早が鋭い眼で黒い印が浮かんでいた場所を見る。玄侑はきっぱりと言い切った。


「決まっている。全てを元に戻して、必ず香月を取り返す」



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