8章

 論じている途中、有賀はやたらと腕をこする動作を見せた。そして髪をやや乱暴に撫でていた。中谷は、青紫色の暁天に置き忘れられた月のように落ち着いた頭で、そんなことを覚えていた。

 なにか妙だ。有賀の考えはそれではない。有賀の得意とするレイヤはもっと文明的で、理知的で、輝く星々のごとく散在する可能性の閃きを動員して、人々の営みの中に星座のような美しい繋がりを描く、もっと透き通った学術だったはずだ。

「……有賀、それは」

「あの画を見ただろう。ほら、あの意味深な挿絵だよ。実は壜は壜ではなかった。いや、壜である必要がなかっただけだ。秩序を輪郭で囲い、それを繋ぐための経路を用意すればいいんだ。あ、いや、回路と呼んでもいいだろうな。その方が相応しい。なんといってもそれは直流に見えても交流なのだからな」

 十二月のこの日、時折見かける青年二人がただならぬ話をしている様子を、コーヒー担当の中年の店員は覚えていた。5B卓のカップルのお客が異様な雰囲気を察してそちらをちらちらと窺い、2E卓のマダムは、青年のうち一人の逆立った後ろ髪を怪訝そうに見ていた。頻繁にマンデリンを、時々ココアを頼む青年は普段通りの様子だが、決まってブレンドコーヒーに多くの砂糖を入れて飲む青年はいつもと違った。なにやら小難しい話に花を咲かせる彼らは店の常連であり、心を許し合って熱心に議論しているのを何十回と目の当たりにしていたものの、その日のように一方的に主張が繰り広げられるのは初めてのことだった。

「この際だから研究者として明言するが……もちろん、あの本についてな……あれは論文なんだ。どうやったのか定かではないが、三次元実体としての人類が未達の、過去と未来の数多の時点を現在として予め観測した記録を、客観地点から著したとんでもない代物だ。飛躍アウグスティヌス的と言っていいだろう。そういう観測ができる存在がいるとしたら、俺はそれを神と呼ぶしかない」

 甘党らしき青年――有賀が言うと、マンデリンの青年――中谷が口を挟む。

「回路と神と、どう関係があるんだ?」

「違う。神との回路なんだ。俺たちが箱の上からその中身を覗くように、時間を完全に客観的なところから観測している世界だよ」

 さざ波のように寄せる喧噪の向こうの彼らの会話に耳を澄ます男性店員は、哲学史に痕跡を刻む一つの言葉を思い出す。

 ラプラスの悪魔。もしくは、Laplacescher Geist。

「アウグスティヌスは、現在だけが認識できる時間のすべてであって、過去は過ぎ去った元・現在と呼ぶべき概念であり、未来は期待的に思い描かれる予測に過ぎないとして、存在し認識できる時間は現在のみと提言した。そうだな?

「そしてお前がわざわざ飛躍とつけたからには、見つけた理論はそれよりもエキセントリックなんだろう」

 中谷は真意を掴もうと、言葉少なに返した。まさかラプラスの悪魔のことを言っているのか? 現在の物理学を完全に理解し包括的、統合的に現象を観測する存在が実在すれば、未来に起こる現象も完全に予測が可能であり、その観測実体を提言者の名を冠してラプラスの悪魔と呼ぶが、それは既に新鋭のテーゼでなくなって久しい。

「お前には分かってほしいな中谷……”ディルゲルニード”に述べられているのは……時空の運命そのものだ。なにも恐れる必要のないものだが、ジェイムズ・ダンカンはかなりぼかして訳していたと見える。俺が元来から抱いていた背景論ともぴたりと一致するんだよ。科学が説明しようとしている秩序の前面と、あらゆる蓋然性が跋扈ばっこする背後の本質的世界……史学のある知性――これは地球では人類だけだが――が古来から受け継いできた風俗史や伝説、文化史の中に時折現れる不可解な狂い……特異点には、知覚できない外宇宙の形質を識別できる情報が含まれている。

「なんのことはない。それは知っている存在から受け継ぐだけで良かったわけだ。予示と訳された章は単なる記録であって、俺たちで言えば写真のようなものだった。存在にとって時間は区切って認識する必要はなく、当たり前に見晴らして観測しているから。ちょうど俺たちだって、箱を上から見下ろしたときに底面や右面と左面、上面と下面を小難しくラベル付けして考察せず包括して捉えているのと同じようにさ……しかしそれに蓋をしてしまうと認識できなくなるという点に、三次元実体としての限界がある。

「俺は思った。認識が及ぶなら、つまり考えることができるなら、それは帰納することで到達可能なのでは? たとえ覗き穴だとしても、見ることができるならそこへ足を運ぶこともできるのでは? 形骸化したラプラスの悪魔を召還し、未来をに認識することが可能な、永遠の観測者になれるのでは? 精神を次元の座標に固定する恩寵は、まさにそれを可能とするのでは?」

 こう言い切った有賀は、自らの体が帯びている静電気が、もはや無視できない電圧となっていることを意識した。コートのファーは激しい電子を伴って首にまとわりつき、妙に痺れる感覚が腕にこびりついて離れない。

 それはただの電気ではなかったのだ。

 見出した者のみに流れるそれは、要素それ自体が持つ混沌性に反応して形而上の引力を及ぼすことで磁的に引き寄せあい、増大して蓋然性を孕んでいるエントロピーに負の電荷をかけた。エントロピーが高まっていた要素の、純粋な混沌性だけを沈静化したその負の電荷は、安定した蓋然性のみを残す。真っ黒な天球に針で刺し開けた穴のように散在する蓋然性は、秩序の外苑とも呼ぶべき外宇宙――前面に対する背景――の光明をこぼす真理の星座のように見えた。

 恐怖と信仰、未知への眼差し、生まれながらに持つ狂気の救い難き自然さ。第四の物理状態、金でないものを求めた”ディルゲルニード”の錬金術、ダンカンが察知し残さなかった手段。単純に記録されたが形而下の次元ではまだ起こっていなかっただけの予示、空、構造物、門と道。それらの中で熱力学的に増大していた本来不可逆の秩序量は、這い込んできた名状し難い類の電導力によって観相次元での逆転を始める。

 神聖なる交流でさえ、現象としてそれに従わざるを得なかった。有賀はおもむろに中谷の右手へ左の人差し指を伸ばし、邪な帯電の欠片を明け渡した。中谷は小さく爆ぜたその静電気を避ける術をもたなかった。この瞬間のすべては、知覚したときにはもはや過去のことだった。


「まずいな、ちょっと抜けてしまった」

 有賀はそう呟いて財布を取りだし、コーヒーの代金を余剰なく卓に置いた。

「もちろんまだ分からないことの方が多いが、お前ならきっと辿り着ける。俺は一足先に、ずっとしようと思っていたことができる場所を探すよ。しばらくは顔を合わせることはできないと考えている」

 中谷は呆然とするばかりで、宙に据えられた目は有賀を捉えることができない。

「友人として、お前が一刻も早く背景に迫れるよう祈っている……良いお年を、中谷」

 虚脱状態から十分ほどで回復した中谷は、ぐったりした様子で家路に着いた。風が街路の落ち葉を独りでにさらってゆくように、有賀はその日から忽然と行方をくらませた。半地下の喫茶店の男性店員は、彼ら二人組の常連客を見かけることは二度となかった。

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