7章
半地下の喫茶店は普段と違って混み合っていた。先に着いていた中谷は有賀を待たずに入店し席をとって、如何にして親友の関心を平常な世界に引き戻すか、考えを巡らせていた。彼の想像力、そして探求心を否定することはできない。それはそうすることへの罪悪感からではなく、可能性が限りなくゼロに等しいという意味においてのことだった。風の強いあの日、ジェイムズ・D手稿を中谷の目に初めて触れさせることになる前から、一人でかなりの深みにまで調査していたであろうことは想像に難くない。実際、その原動機めいた大出力の知的欲求に惹かれて、中谷は有賀との交流を続けていたのだ。今更それを対面から阻んで諦めさせようと言葉を尽くすのは愚策そのものだ。
有賀は短い階段を軽やかに飛び降りて喫茶店の入り口に立つ。奇妙な壜はどこかへ消えていた。よく準備をせずに家を出たため、貴重品しか持ってきていない。その手には”DYRUGELNEHD”も抱えられていなかった。居並ぶ客たちの頭の向こうに、ガラスのはまったドアを開けようとする有賀を中谷は認めた。一度はドアのハンドルにかかった指を素早く離し、改めてドアを開ける様子までくきやかに見て取れた。
大柄なコートを通り道の客の肩や背中にこすらないよう、有賀はゆっくりと中谷の卓へ向かう。
「待たせた?」
そう言いながら、ポケットから手の平サイズの免罪符を取り出しながら中谷の向かい側へ腰かける。取り出したのは中谷の愛用している銘柄の煙草である。手渡されたそれを見て中谷はにっこりと笑い、本当に今来た気分で答えた。
「まったく待っちゃいない」
ここが1870年代のテキサスのサローンで、我々がカウボーイだったら、と中谷は思わずにいられない。有賀は粋なやつなのだ。
得られるものが多すぎるこの世で彼のような人物は、際限なく得ようとしてしまう。可能性が彼を危険へと誘う。コーヒーの振る舞われる、人目を忍ぶようなこの場所が暑く空気の悪いテキサスのブームタウンであれば、二人は煙草を吸ってコーヒーと豆料理をかき込み、手桶から水浴びをしてすっきりした後、宵越しの女とベッドへ滑り込めば、もう充分だったのに。しかしここは日本で、二人はイーストウッドやタランティーノの作品の登場人物ではなかった。空想は覚めなければならない。
「どうせブレンドコーヒーだと思って頼んでおいた。とりあえず吸おうぜ」
中谷がそう言って、もらったばかりの箱から一本の煙草を歯で挟んで火を点け、有賀もそれに続いた。
「映画はどうだったんだ?」
最初の煙を宙に預けて、有賀が訊ねた。人々のざわめきで、店内の音楽は耳に届かない。厨房で大きな物が落ちる音がする。
「良かったよ。次は吹き替えを見に行こうと思って」
「映画を二度観る気持ちはあんまり分からないけれど、そう思わせるものがあったんだろうな」
やけに首にしがみつくコートのファーを指で捌きながら、有賀は背もたれに体を寄せ、中谷の顔の人中の辺りをはっきりと見つめた。
「
「至言だね。読書感覚で映画を見ているのか……」
「体験という方が近い。元々ウエスタンは好きだしな。その時代に生き直したいという確固たる思いを追体験する」
中谷は丸みのある堅い壁を前に、どこかに取っかかりがないものか思案していた。聞き手に回るわけにはいかない。有賀は普段通り――以前までと同じように応答していた。
「じゃあお前さんも銃をぶらぶら回したり、やけにブーツの音を立てて歩いたりしたいのかい」
「したいね。馬に乗って牛を追ったり、賭場でポーカーをしたり、余所者に後ろ指を指したり」
するうちに、中谷と有賀のコーヒーが運ばれてきた。何のこともないブレンドコーヒー。特徴のない苦みが、中谷の底冷えのする体に染み込み、煙草の味を邪魔することもない。有賀は想像通りの味のするこのコーヒーが割と好きで、自分で砂糖を追加する作業を必要としている。二人は卓を挟んで向かい合い、同じポットから注がれてきたそれぞれのコーヒーを、それぞれで味わう二十秒間を設けた。それは漂泊し空間を満たす思考の泡の中に立ち入って、書店で本を手に取るように蓄積した知識に触れ合う感覚だ。二人は同一の、しかし
「古代アテネや中国の三国時代から辿って、阿片戦争や世界大戦の戦争史を見ていて思うが、戦闘と一般市民の距離というのは、規則的な変動を示さない。軍事組織の戦闘行為と市民生活が完全に隔離されることも、人民を計画的に参戦させる総力戦も、徴兵もテロリズムも、過去から現代に至るまでの近代化に沿う形では、徐々に変化する流れらしきものを表さないでいる。
「軍事力と市民がほぼ完全に一体となった西部開拓時代は、その上で南軍と北軍の戦争があり、先住民と移民の諍いもそれに縫い合わされた。明日の我が身も知れない荒んだ時代を、それでも魅力的に描く映画は見事じゃないか」
中谷は自身と有賀に向けて語りかける。彼は更に続ける。
「俗っぽい物言いをすれば、野性味への羨望なのだろうな。渇望と言っても良い。男として、自分だけを頼りに世を渡り歩く、そういう生の痛感を味わうことと、生の裏側としての死を身近に従える、死を包含した社会性……その詰みあがった亡骸の上に這いつくばる、生まれたてで
有賀も答える。
「常に戦闘状態にある生活を、なんとなくイカすと考えるのは健全な男子たる証拠だな。西部劇でその結論に辿り着くのはお前さんぐらいだろうよ。ただその通俗な論には心底賛成だ」
そう言うと有賀はコーヒーに更に砂糖を入れ、軍師めいた学友にずっと訊こうと思っていた質問をぶつけた。
「人類は争って良かったと思うか?」
「悩むべき疑問だが、俺は良かったと思っている。限界まで不偏な意味において、生命の本質は交流だ。交流するためには、自分と彼もしくは彼女は別個の存在でなければならない。他と別であるために存在が生まれ、自己存在を存続させ継承するために、単一の細胞から分かたれたものたちと再融合する。その手段が捕食であったり、寄生であったり侵略であったり生殖であったりする。うち最も直接的な原初の交流が、攻撃や戦闘行為だとするに、俺は適当な反論を見かけた覚えはない」
「シアノバクテリアより遡る最初の単細胞が細胞分裂を起こしたのは、自分自身と戦うためだった、とでも言いたいのか?」
小さくジェスチャーを交えながら有賀が要約すると、中谷は頷いた。
「概ね。人類を含む生命全体は、結局のところ分裂と融合を続ける巨大な一つの炭素生命体なんだ。他者との交流は本質的には地球という脳のシナプス同士の結合なのであって、インターフェイスの組み合わせによって、生殖や侵略や共生という命名がされる。カウボーイ達が直面していた苦難や殺害、迫害や死でさえ、交流の数多ある分岐の側面だったと考える。もちろん、古生代から西暦に至る全時代、成層圏から地核へ渡るあらゆる場所、
「その交流への渇望が、映画によって満たされるのか?」
有賀が笑いながら煙を洩らすと、カップの縁で砕けたそれが空気へと融けて、偏りのない白っぽい霧となって卓を囲んだ。
「多少はね。ただそれを言えば、必ずしも西部劇でなければ、暴力的交流の本体を見られないとするのは間違っていて、交感が起きるならばそれは何でもいいんだ。まったく興味のない青春映画だって、未知の価値観から受ける侵攻にほかならない」
中谷はそこでコーヒーを飲んだ。自分たちの話し声で遠ざかっていた周囲の喧噪が潮のように戻ってくるのを聴きながら、中年の男性店員の気品ある歩き方を眺める。有賀はなにやら核心に近い言葉を、誰へともなく中空へ落とす。
「双方向の交流であればそのエネルギー総量に変化はないだろうが、お前の言うとおり殺害や死でさえ交流の側面とするなら、屍にぶちまけられっぱなしの交流は一方通行じゃないか?」
「死体すらも、というより死者すらも、怨念と恐れと怒りと哀しみでもって交流するよ」
「ああ……感情のことか。それで交感という言葉を使ったんだな」
中谷は頷く。有賀は卓の端にあるペーパータオルを何枚か取って手癖のように弄びだした。灰皿には積雪めいて灰が溜まっている。コーヒーは冷え始めていた。
「例えば」
練った粘土を成形するように、有賀は口を開く。ペーパータオルは静電気で引き寄せ合ったが、有賀が握りつぶした際の起伏が合わず、二度とぴったり重なることはなかった。
「例えば始祖の微生物……あの本が予示し人類が突き止めたように、温かい海で発達した最初の小さな生物は、マグマによって熱された地下水が海底へ吹き上がる地に環境的に近い場所で、原始的な代謝を開始した。一酸化炭素、二酸化炭素、硫化水素、酸化メタン、硫黄が代謝の一次消費物となる、塵芥より微細な交換の営み……宇宙を漂う泥団子をかじり、栄養素という金を生む、原初の錬金術師たち。例えば俺がそういう生命を考えるとき、交流とはむしろ存在の内部で起こっているものなんだ。他の存在との間よりも。
「
「……即ち、交感を本質とするに異論はないが、規模と視点のスケールで言えば、より更に生命系の根幹を為しているのは、存在内部での力の変動だ。交流にはカオスが必要なんだよ。細胞膜で守られた生理的な秩序へ能動的な負荷を加えて、狂わせる必要がある。増加するエントロピーが蓋然性を身ごもる余地は、カオスによってしか得られない。
「中谷、お前なら分かるだろ。ジェノサイドと融合なくしては文明の飛躍が起こらないこと、直立姿勢から前へバランスを崩さなければ歩けないことを知っているお前なら、簡単に分かるはずだ」
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