9章
二月。年を跨ぐ境界線の淵に有賀が消えた後、狂おしい電気反応はそれ自体の衝撃によって中谷の精神に濁った覆いをかけた。彼の混乱と眩惑は御し難く、病理不明につき罪のない善良な町医者の自信を失わせた、右手の一時的な麻痺症状とストレス性の幻聴、飛蚊症じみた形ある幻影の映りこみによって、彼は休職を余儀なくされていた。
「焦ることはないから、時間をとってゆっくり休むことだな」
直属の副部長の言葉を思い出しながら、中谷は県営図書館の裏口に設けられた喫煙所で、以前とは違う銘柄の煙草を吸っていた。煙草の先端に溜まる白い残骸を、灰皿へ捨てようと肘を伸ばす。燃え尽きた灰を捨てた煙草から一瞬ふわりと濃い煙が上がる。
固く乾いた繊維が中谷の精神を繭のように覆っている感じだった。なにを見、なにを嗅ぎ、なにを味わっても、更に重大なことを見失っているばかりに実感が湧かず、折り重なる繊維の極小の隙間からしか、感覚器官の情報を受け取ることができない。精神は内部でのたうち、もがきながら繭の表層を目指して牙を噛み合わせるばかりで、彼に分かるのはそれだけだった。
都内からS県K市のこざっぱりとした駅近くの実家へ一時退避した中谷は、はたからは鬱病と見られても反論できない状態でその一月をやり過ごした。川底を転がる軽石が、水流によってのみ角を擦られ、つるつると滑りよい丸石へと造形されてゆくような、微妙で途方もない期間だった。
中谷が当時の準廃人と呼ぶべき時期を振り返ると、我ながらよく生き延びたものだと思う。悠久と見紛うばかりの長い独白の日々にあっても、中谷広幸の戦いは途切れることなく続いていた。強いショックが物理的にしろ精神的にしろ与えた影響に身を震わせながら、淀んだ目で書籍を読み漁った。ミミズが土を食べて排泄するように、木の葉が互いに重ならずに並ぶように、ただ本能的に、無意識に、満遍なくそれを続けたのだ。司書記録によれば、そのレパートリーは多岐に渡る。
有名節約家のエッセイ、ビザンツ帝国史、東日本漁業組合監修の大漁旗図鑑、ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」、クリストファー・パオリーニ「エラゴン」、環境汚染問題の啓蒙書、アイヌ文化史、ひたちなか市のドライブマップ、夢野久作「ドグラ・マグラ」、プロヴァンス地方の蝶図鑑、夏目漱石「こころ」、ジョン・ミル「自由論」、サバンナ地帯の野生動物写真集、ウィリアム・ゴールディング「蠅の王」、男性向けインテリア雑誌、硬筆検定指南書……傾向も順番もなく、無差別に視界に入ったものを借りて猛烈に読み、読み終えた日に返却して次の数冊を借りる。食事と長い睡眠以外の時間をそうして過ごし、何故そうするのかを肉親や周囲の人々に説くこともなく文字列を貪り続けていた。
中谷はときどき夢を見た。暗い部屋でオレンジ色の灯りに照らされた机がある。部屋は個室トイレほど狭く、カウボーイハットを被った老齢のガンマンが肩をすぼめ、シリンダーを外したリボルバー銃……スミス&ウェッソンの35インチを白い綿布で丁寧に拭いている。椅子はない。疲れないだろうか? と思った途端、オレンジの灯りが五、六回ほど瞬いて消えた。トイレほどの空間も意識できない完全な闇が満ちる。墨を流したようなその空間に暗渠への入り口が開いていないと、いったい誰が言い切れようか。底知れぬ深淵へのゆるやかな角度……。
中谷は別の夢も見た。夏の昼下がり、蝉時雨に打たれる広い建造物の中で、これまた広い一つの部屋に一つだけ置かれたイーゼルを眺めている。見上げるほど高い天井の近くに設けられた採光窓から、梢の影が滝のように垂れ落ちている。イーゼルに立てかけられているのは、あの本で見た奇妙な画そのものだった。中谷はそこで壁や天井を貫いて屋内を駆け巡る蝉の低い鳴き声に耳を澄まし、なにか説明らしきものを投げ込んでくれるのを待っている。画の背景のダマスク柄めいた紋は絶えずうねうねと輪郭を歪ませ、水流に舐められる海草を思わせる。不気味なことに、画は脈動のごとく定期的に淡い燐光を放っていて、その光は壜の内部を昇るように、丘陵、群青色の空間、銀の構造物、緑色のガスが立ち
こうした記憶の残像めいたものは幻覚症状の一種であったかもしれず、中谷の内部に閉じこもる鬱屈とした精神が、日常という多面鏡に乱反射した視覚的な滓かもしれなかった。恐らくは中度の感電によって――年末のあの日、有賀裕也の身体は不可解なほどに帯電していたのは間違いない――奪われていた右手の感触を徐々に取り戻さんとする頃、茫洋な虚無に離散していた中谷の意識的焦点は少しずつまた精度を増し、取りまとめなければならない問題に向き合い始めた。繭めいた固い繊維を解き、喰らい、破るときが近づいていた。
「4706番ですね、返却ありがとうございます。
「本当に色々な本をお読みになるんですね。ほとんど毎日ご来館いただいているし……週にどのくらいお読みになるんですか?」
あるとき、受付の女性司書がこう中谷に訊ねた。広くないその街で、奇妙な指向で図書館の本を次々と頭へ詰め込む男の姿は、控えめながらも注目を集めざるを得なかった。中谷は愛想良く答えた。
「十五、六冊ってところだと思います……実を言えば、多ければ多いほどいいのだと思っているんです。数えたことはありません」
以前からこんなに読んでいたわけではない、と彼は内心で付け加える。つまり、親友が明らかに口外できない決心をするほど静かに狂ってしまい、まるきり予想外に強烈な電気を体内に打ち込まれて茫然自失となってしまうまで、こうまで熱病にあてられたように読書を継続したことはない、と。読んでいないときに頭の片隅で広がる染みのような暗部については、口に出すか否かに関わらず触れなかった。
「すごい。図書館の職員でもそんなに読めないですよ」
利用者カードのコードをコンピュータで読みとり、中谷が次に借りる本の手続きを進める間、司書は快活に話しかける。
「私、アニメや漫画よりも活字が好きなんですけど、どうも一気に読み過ぎるとひとつひとつのお話が薄れちゃって……結局あとでゆっくり少しずつ読み直すんです。それができるのが本の良いところでもあるんですけど」
目的の本が五冊、てきぱきと受付の卓上に積み重ねられる。最上段は孝子「論語」だった。
「分からなくもないです。集中力には限界があるから」
中谷は答えた。まるで自分は集中力を使い果たすまで読まなければならないとでもいうかのように。病魔に打ち勝とうとする人が、自身の治癒力に勝る薬のないことを悟り、深い睡眠を招くためだけに頭を疲れさせる、そういった営みと似るところがある。それは浄化といって差し支えなかった。
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