第7話「思い出が塗り変わる」

カチン――


金属の澄んだ音が耳の奥で響いた瞬間、世界の輪郭がわずかに揺らいだ。


(……今、何が……)


視界がにじむ。

教室にいるはずなのに、足元がふらつく。

なのに結月の声だけは、はっきりと耳に届く。


「ねえ、レンくん。

 ちょっとだけ、昔の話しよう?」


蓮は、答えようとした。けれど言葉が出ない。

まるで舌に重りがついたようで、喉が動かない。


結月がそっと手を伸ばす。

指先が蓮のこめかみに触れた瞬間――


パチン。


音もなく、景色が“裏返った”。


■ 記憶の中の公園(※精神世界)


懐かしい公園。

すべり台も、ブランコも、砂場もある。

でも、誰もいない。音もない。空だけが、異様に静かだ。


結月が、小さな頃の姿でブランコに座っていた。


「覚えてる? あの時、私が泣いてたの」


蓮もまた、子どもの姿に戻っていた。

けれど、記憶がかすんでいる。何かがおかしい。


「レンくん、言ったんだよ。“ずっと一緒にいる”って。

 私のこと守ってくれるって」


それは確かに、蓮の記憶にあった。

けれど――こんなに、歪んでいただろうか。


「……それは、子どもの約束で」


「でも、私は本気だったよ?」


結月が振り返る。その瞳の奥、真っ黒な何かが揺れていた。


「だから、守ってもらえなかったとき、すごく……こわかった。

 世界って、簡単に裏切るんだって思った」


結月のブランコが、ぎい……ぎい……と揺れる音だけが響く。


「でも、もう大丈夫。だって、レンくんの記憶、私が“塗り直して”あげるから」


彼女の周囲に、墨のような黒がにじみ始める。

それは、蓮の記憶の断片を呑み込むように、じわじわと広がっていく。


(やめろ……俺の、記憶を……)


「大丈夫。ちょっと痛いだけだから。

 もうすぐ、全部甘くて優しい思い出だけになるよ」


そう言って、結月は笑った。

優しく、壊れた人形みたいに。


■ 現実世界:保健室


「……ん、う……」


蓮はベッドの上で目を覚ました。

見慣れない天井。目の奥がずきずきと痛む。


「気づいた?」


そばにいたのは、担任の先生だった。


「さっき、急に倒れたのよ。教室で。

 橘さんがいればすぐ対応できたのに……今日、連絡取れないのよね」


「橘……さん?」


名前が、霧の中に沈んでいく。

いや、顔も……髪型も……思い出せない。


(……誰だ? 橘……?)


焦燥感が走る。思い出そうとするたび、脳が軋むように痛む。


「レンくん?」


結月の声が、保健室の扉越しに聞こえた。


「……会いに来たよ」


ドアが開く。

ゆっくりと歩み寄る彼女は、満面の笑みだった。


「先生、ちょっとだけ二人にしてくれますか?」


「ええ、でも長くしないでね」


担任が出ていく音。

扉が閉まり、二人きりになった保健室。


結月が、ベッド脇の椅子に腰かける。


「ねえ、レンくん。具合どう?」


「……少し、ぼんやりしてる」


「そっか……でも、それでいいんだよ。

 もう、つらいこと、思い出さなくていい」


そう言って、結月は蓮の手を握った。

その手はとてもあたたかくて、どこまでも柔らかかった。


「レンくん、覚えてる? 私たち、ずっと一緒だって約束したよね?」


蓮は、うなずきかけて――そこで動きを止めた。


心の奥で、誰かの声が微かに響いた気がした。


「記憶を壊される前に、“目を覚まして”」

蓮のまぶたの奥で、小さな火花が散る。

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