二話

 小学生の頃、正義感の強い人間だった。

 友達も多かった。

 東京生まれで、転勤族だったので、転入先の性格はその場の雰囲気に溶け込むように一変した。

 大人しい人格を演じた学校があれば、リーダーシップを発揮してクラスをまとめ上げ、学級委員長を勤めた学校もあった。

 他県に転校する際には、多くの友達が、家に集まったものだ。

 当時は、世の中の善と悪についてはっきりと分かり切っていた。

 正しいことをすれば善で、悪いことをすれば悪。

 そう単純に思っていた。


 中学二年の頃のある日。

 友達がリーダー的存在にハブられてイジメられているところを、見て見ぬふりをしてしまった。

 みんなが友達を見て嘲笑あざわらっていたのを見て、つい僕も笑ってしまった。

 僕の引き攣った笑みを友達は見て目があった。

 当時の罪悪感が消えない。

 あんなことはあってはならない。

 人を傷つけてはいけない。そのためなら、善も悪も関係ない。『弱い人間』として生きるべきだと思った。

 そして善も悪も正しさもわからなくなった。

 しかし、その信念が固まる前は僕は強い人間として、振る舞っていたように思う。

 小学校を転校する前に、家族で旅行に行こうと隣りの県や市町村を巡っていた時のこと。

 高速道路のサービスエリアで、お土産屋に、牛のキーホルダーを買った帰り。

 高速道路をおりて、一般道に入るところで、小さな悲鳴が聴こえた。

 助けを求めるような声を押し殺したような――

『ねえ! お母さん降ろして! お願い! あのコンビニでいいから!』

 その時は正義の味方に憧れていた。

 無我夢中で街路の裏口に隠れていく影をみつけた。

 近くには黒い車が止めてある。

 嫌な予感がした。

 僕は裏口に入って行く。

『おじさんこわくないよ。ついてきたらおいしいお菓子とかあげるよ。ちょっとこっちきて、ね?』

『や、やめて、くださ』

 大柄なおじさんが、少女を誘惑していた。

 しかも、今にも口を塞ごうとしている。

 あまりのこわさに大きな声が出せないのだろう。

 少女は涙目になっている。それはそうだろう。

『あんたはなにをやってるんだ!! 誘拐じゃないだろうな!? 警察を呼ぶぞ!!』

 その時に出した僕の力強い叫び声は、高校になった今では、もう出せなくなった。

『ああ? 誰かと思えばガキか。いい気になってるけど。こっちは善意で、お菓子をあげようとしてるだけなの。邪魔しないで。ね、お嬢ちゃん、あの車にいっぱいお菓子入ってるから。おじさんとこっちにこない?』

 少女はガクブル震え上がっていた。

 僕は小さな体躯で、下衆げすな大人を相手に睨みつけて――

『善意とか、そういう問題じゃないだろ!! 今すぐその子から離れろ!!』

 と、正義の名のもとに戦った。

『痛えな。この生意気なクソガキがよお!!』

 その時の戦闘で、肋骨を数本折られて、鼻は変な方に曲がり、血が吹き出した。

 騒ぎを聞きつけた近隣の住民が、警察を呼んだ。それによって大人は逃げ、犯罪性のある行為に至らなくて済んだ。

 今となっては相手の感情をたかぶらせたばかりで、効率的な助け方とはいえなかったと反省している。

 逃げ場のないところに女子供を追いやって、脅迫した罪を見過ごせなくて、正しいことをした。だがそれも、今となっては、正義ヒーロー気取りがしたかっただけなんだろうと思う。

 その後のことはよく覚えていない。

 記憶がおぼろげだ。


「でね、私の彼ピッピが〜」

 目が覚めると、いい匂いがした。目の前になにがいるのか。今は何時だ。たしか、休み時間のはず。

「ァ(ア!)」

 机に伏せていた僕が顔を上げると、そこには、プリーツスカート。その上には白いブラウス、その上には金髪をハーフアップに結った宇佐見羽咲の姿があった。

 僕の机の上に座って、友達と楽しげに会話をしている。こちらの存在には気がついていない様子。そもそも、認知されたことがない。顔も名前も。

 さて、赤縁の伊達だてメガネをかけ直して冷静になろう。

 ふう。

 深呼吸。

 宇佐見殿が、僕の机に腰を下ろしているこの状況。

 強キャラに座られる弱キャラの机。それは、ある意味で、地位の奪い合いという熾烈しれつで過酷な競争社会の縮図だが、個人的にはご褒美でもあった。

 そして真顔まがおのまま、正面にちょうど実在する、膨らんだ腰から出ている美しい足の放物線を眺める。

 まずい。

 これは、

 小学生の頃の路地裏で見たあの下卑げびた大人と同じ性の誘惑に踊らされているではないか。

 正しいことなんてないことはわかっているが、正しくないことはしたくない。

 いや、はたから見て、これは、弱キャラが強キャラに机を占領されている図。

 なにもやましいことなんてないのだ。冷静になれ。

「かわい〜。ウサミン、そのカバンのキーホルダー」

「ああ、これ? 本命くんからもらったんだ」

 そいつ誰だよ。

「え〜、キープくんじゃなくて〜?」

「そうそう。もう六年くらい前から会ってないけどねー」

「え。かわい〜。ウサミンて意外にも初心うぶなんだよね〜」

 そう言われた宇佐見殿は、照れくさそうに「初恋の相手だからな」と、腰をこちらにくねらせた。

 目前に足の付け根の部分が見え――(みえみえみえ)

 あぶ!

「ァア!」

「な、なんなのこいつ! いつからいたの!?」

 宇佐見殿は身をひるがえして僕を認識した。

 あぶねー。犯罪者になるところだった。

「オ、オデ」

 緊張して言葉に詰まる。

 コミュ障なのでなにから話したらいいかわからない。

「うえ。見るからにさげまんじゃん。なんなのこいつ」

 まるでゴミを見るような目で見つめられたが、初めて、ギャルに認識されたことに嬉しくなった。





 いつものように、休み時間の教室で、机に伏せて寝ているふりをしてやり過ごしている。

 すると、上の階からピアノの旋律が聴こえてきた。 

 他の生徒は気がついていない様子。

 僕は感覚過敏なところがあるから、気になった。

 賑やかな教室には、不釣り合いの旋律。

 気になって、上の階に向かった。

 まるで、なにかに導かれているかのよう。

 音楽室の前に立つ。

 どこか懐かしい心地になって、静かにドアを開く。

 選曲はベートーベンの月光。

 孤独と癒しのメロディが続いていた。

 鍵盤を弾いていたのは宇佐見羽咲だった。


 欠けていたものが当てはまるのを感じる。

 足して、足して、ここまでやってきたのだ。

 僕は、静かにドアを閉めて、元の教室にきびすを返した。

「なにかを思い出したような気がしたんだけどな……」

 そう呟いて、目を閉じる。


『次のアーティストは、小学生高学年の部、全日本ピアノコンクール最優秀金賞に輝いた神童、◯◯◯◯◯さんです』

 盛大な拍手で迎えられる。

 くまのぬいぐるみを抱えて、出てきたその少女の姿は、あどけなくて、下を向いている。

 そして、下を向いたままお辞儀をした。

 鍵盤の前の椅子に座ると、拍手は止んだ。

 静寂の中で鍵盤をかなで始めた途端、会場にいる人が、聴覚に耳を澄まして一体となっているのがわかった。

 曲が終わり、一番のさらに盛大な拍手を浴びていた。

 僕も、嬉しくて、拍手した。

 こんなにすごいやつだったんだ。

『では、演奏者にインタビューをしていきたいと思います。素晴らしい演奏でした。皆さん、固唾かたずを飲んで聴いていましたよ。今年は全日本ピアノコンクールで金賞を受賞しましたが、これから次の目標とかありますか?』

 彼女は司会者からマイクを受け取る。

『え、と、もう、ないです』

 その回答に司会者も困った様子で、

『あはは、[まだ]ないのかな〜。まだまだ若いから将来が楽しみですね。みんな期待していますよ。では他になにか告知したいこととかありますか?』

『え、と、いえ、やっぱりいいです』

 そう言って、顔を上げて、会場の方に向けた。

 偶然、僕と目が会った。

 彼女は、なぜか表情が明るくなった。

『あ、ありがとうございます。とても、嬉しいです。まさか、来てくれるなんて』

 僕が大きく手を振ったら、彼女は小さく手を振り返してくれた。

『こんなにお客さんが来てくれるなんて、ほんとに、ありがたい、です。私をここまで導いてくれた人に、感謝します』

 涙が出てくる。

 相当に苦しい思いをしたのだろう。

『助けてくれて本当にありがとうございました』

 


 なぜ、あの日のことを思い出しているのだろう。

 過去は消去したはずなのに。

 どうしても忘れたくないことがあるようだ。

 だが、あの子の名前を思い出せない。

 教室に戻ったはいいが、クラスメイトと話しができない。

 弱キャラらしく、この教室から抜け出す勇気すらない。

 抜け出す勇気があったらコミュ障をやってない。

 人からどう思われるかに過敏になって下を向く。

 メガネを外して、涙を拭う。

 あの記憶は空想の産物。

 独りは孤独だ。

 だがそれも悪くない。

 先程の月光を聴いてそう思えた。

 再び机の上に伏せていると、

「透く〜ん。こっち見て〜」「きゃー、こっち見た〜!」「カッコいい! まじでイケメン!」「スキ」

 女子達の黄色い声援を、イマジナリーフレンド(仮)である透季透すきとおるが受けているのが聞こえた。

「そんな冷たい瞳で見ないで恥ずかしい」「きゃ〜手を振り返してくれた! 私、この手を一生洗わない」「と、透くん。こ、こんど一緒に食事でもどうかしら?」「やめなよ女子〜透くんが困っているじゃない。あんな醜女しこめより、私の方が気が合うんじゃない?」「あ! 抜け駆けは許さないわよ!」「違うわ! 私は事実を言ったまで! さあ、透くん、一緒に行きましょう!」「あんたの方が醜女よ! 私の透くんに手を出すのは許さないわ!」

 なにをやってるんだあいつは。

 キモチ悪いくらいにモテてるな。

 もはや、コメディだろ。


 そんな中で、聞き捨てならない言葉がした。

「宇佐見って透に媚び売っててキショくない?」

「わっかるー。最近、休み時間に音楽室にこもってピアノ弾いてるの知ってる? うちらを避けてんの見え見え。人の気持ちとか考えられないのが悪いよ。男子らに嫌われて、うちらのグループにも嫌われて、居場所がないのね。可哀想、あはは」

「いいすぎー。あはは」

 少なくとも僕は宇佐見羽咲殿のことは嫌いではない。

 ギャルは好きだ。

 最近、宇佐見羽咲が教室に現れないから、心配ではあったがクラスメイトとの軋轢あつれきがあったようだ。

「キミたち、ちょっといいかな」

 すんとした表情で、透季透が、彼女達に話しかける。

「キャ、透くんがうちらに話しかけてくるなんて!」

 イマジナリー透に話しかけられて浮かれている。

「どうやら、うちの相棒がなにか言いたげだよ」

 親指で僕の方を指差して、言った。

 く、余計なことを。イマジナリーフレンド(仮)の分際で、制御できないとは。

 女子達がこちらを見ている。

「誰あの男子?」

「さあ。記憶にないわ。この教室に、あんな冴えない地味な生徒はいたかしら?」

「いなかったわよ」

 どうやらいなかったことにされているらしい。

 それも当然だ。ヒエラルキー最下層に帰属する、弱キャラの頂点に君臨する、汚濁信号だぞ。

 存在自体を抹消されていてもおかしくない。

「おい、汚濁」

 そう透に呼ばれて正直、僕はテンパった。焦った。頭の中は真っ白。なにも思いつかない。人に話しかけらける時に緊張して、声が上擦るようになったのはいつからだろう。思考が停止するようになったのはいつからだろう。どういう条件でそうなるのだろう。

「オ、オデ、オタク」

「違う。お前は汚濁だ。ゴーレム語を喋るんじゃない。思ったことは口に出せ。昔のお前なら、正しいことを正しく執行していたはずだろ」

 空想の産物が僕の記憶につけ込んで、追求してくる。

 早く空想の世界に逃げたい。

 魅力的な登場人物が、僕を褒めてくれる世界で陶酔とうすいしていたい。

「今のお前は、現実から目を逸らして逃げているだけだ。現実を受け入れたら、強くなれる。意識を変えろ。異世界に逃げるな。お前が宇佐見を助けるんだろ」

「ヒトワ、タスカリタイトオモッタヒトシカタスカラナイ」

 人は助かりたいと思わないと助からない。

 僕ひとりがどうかしたところで、なんの足しにもならないのではないか。

 緊張により脳内の思考が停止してしまう。

 

「おい、大丈夫か? 俺の言ってることわかるか? よかった意識はあるみたいだ」

 目の前にはイマジナリーフレンド(仮)の透季透が、心配そうにしている。

 その隣には肘に手をついて腕組みをして、そっぽを向いているガールフレンド(仮)宇佐見羽咲の姿があった。

 興味のない素振りで、ちらと僕の方を一瞥いちべつし、

「こいつね。私の鞄を掃除道具入れに隠したの」

 と言った。冤罪えんざいだった。

 宇佐見の背後で、女子達がクスクスとわらっている。


「デュフフ」


 僕の声が発したのは、喜びだった。

 誤ったもの。認識。それらが、正しくないことを知っている。

 ただ、僕は、宇佐見羽咲殿が近くにいるだけで嬉しくて、喜んでいるだけなのだ。

 ギャルに恋をしているだけなのだ。

「きも。なに笑ってんのこの人」

「こいつは、お前のことが好きなんだって。きっと会えたことが嬉しいんだ」

「だから、私は、こんなヤツのことどうでもいいし。はなから興味ないって何度も言ってるよね。そんなことより、鞄、隠したのこいつよね? 友達が言ってたわ」

「その友達は信用できるのか?」

「あんたよりはね。で、どうしようか、こいつ」

さげすんだ目で僕を見ている。

「まあ、誤解させといた方が汚濁が喜びそうだし、いいかな」

 はあはあ、と喜びを感じている格下の僕を尻目に、透季透と宇佐見羽咲は、一緒に教室を離れる。

 机上で僕の妄想ははかどった。

 はっとして、今何時か確認する。

 もう次の授業が始まる。

 伊達メガネを外したまま、もう一眠りするか。

 宇佐見羽咲殿。

「か、かわいいな。デュフフ」

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