第二話. 土砂降りの雨
夕方、新宿に着いた初蔵は、安齋興業社長室に立ち寄った。
喪服を着替え、急ぎの書類に目を通そうと机に向かった。すると電話の横にメモが置いてある、玲子からだった。
美津子が亡くなったことを聞かされていた玲子は、初蔵を慰めようと、いつものBarに呼び出したのだ。
この日も、土砂降りの雨だった。
タクシーを拾おうとしたが捕まらず、初蔵は橋の欄干近くを傘も射さず雨粒をしのぐためトレンチコートの襟を立て、隅田川近くにある待ち合わせのBarへと向かって歩いていた。
土砂降りの雨で前がよく見えないまま、橋の欄干沿いを歩いた。時折車のライトが初蔵を照らし
ライトに照らし出された雨粒が雨の激しさを現わしていた。
向こうから相傘にぴったりと抱き合うように、急ぎ足の男女が、濡れそぼって歩いている野良犬を見て、何やら叫びながら通り過ぎて行った。
雨の勢いは弱まらず容赦なく初蔵めがけて降り注ぐ、初蔵は目に入ってくる雨粒を手の甲で拭い前方を見据えた。
橋を渡りきろうと足を速めた。
突然! ドスンという衝撃と初蔵の脇腹にチクリと痛みが走った。
目を上げると、雨に目を細めた少年と目があった。少年は日本語とは解らない言葉を叫びながら走り去って行った。
その
少年の姿は激しい雨にすぐに掻き消された。
腹からは、コートを通し血が滲み出ている。腹を抑え橋の手摺に捕まりながら歩く。
初蔵は、思いも寄らない襲撃に苦悶の声を発した。
脇腹の痛みを抑え端の中央まで歩くと、水飛沫を上げる音が聞こえてくる。飛沫の音はすぐ背後へと段々近づいて来た。
振り返ると、少年だった。初蔵の死んでいるのを確かめに来たのだ。
少年は足腕をめちゃくちゃにばたつかせ向かってくる。
少年は初蔵の歩く姿を見るとまたナイフを向けてきた。目を剥き、大きく開いた口からは、また何か喚いている「對不起(ごめんなさい)」! 少年が叫びながら飛びこんで来る。
初蔵は咄嗟に橋の欄干を飛び越え川へと身を投げた。
水飛沫を上げ初蔵は川底へ向かって沈んで行く・・・息が苦しい、水を飲み込んだら終わりだ、浮き上がるのを待つしかない、冷静を保ちながらも気持ちは焦った。
傷口から鮮血が溢れ意識が遠のいてゆく————
少年は橋の手摺につかまり、無言のまま、雨で水嵩が増し流れの速くなった川面をいつまでも見つめていた。
その後、安齋組の総力を揚げ捜索したが、初蔵の死体は揚がらず、行方は判らないままになった。
————————————❄︎—————————
「あぶねえから、じぃちゃんの傍に居ろ! サトシ」
腰の少し曲がりかけた七十も過ぎた男が孫に向かって怒鳴った。
甚吾は、週末に孫と釣りに来るのが楽しくて仕方ない。
やんちゃ盛りの孫のサトシは好奇心が強く、何にでも興味を示すのでいつ危険に晒されるか心配で、甚吾は釣り糸を垂れる視線を時々孫に向け注意を払っていた。
「じじ、何も釣れんのか、あーあ退屈だなぁ」
昼も半ば過ぎた頃!
サトシは退屈を持て余し甚吾の背中に、自分の背中をくっ付け伸びをして見せた。
「おっ、引いてるぞ、何が釣れるかな。・・・よっとっとっ、こりゃ大物か?」
「わーい、わーい、じじ、がんばれ、がんばれ」
退屈が凌げて、はしゃぐ孫を傍らに、釣り上げて見ると、ドロドロになった布の塊だった。
「じじ、何かいる!」と孫のサトシが川面を指して叫んできた。
甚吾が孫の指してる方に目を向けると、川面に人の顔らしい形が見える。
甚吾は川岸をよく見える位置まで下りて見た。
人が浮かんでる!
「サトシ! とうちゃん呼んで来い」
小学校三年になっていたサトシは、目の前の出来事が何なのか直ぐに判った。
桟橋の板を軋ませながら全速力で父親の居る家へと走リ、人が死んでいると叫びながら転がるように、父親の居る工場へ飛び込んだ!
初蔵が眼を覚ましたのは、天井が異様に高く、野太い木材で組まれた煤だらけの天井のある家だった。
天井に組まれた木材は煤にまみれ黒々と光っている。
初蔵は薄れている意識の中で、東京にもまだこんな家があるんだなと思っていた。
意識はまだ
・・・・お・ち・ゃん
耳元に子供の声がはっきりと聞こえてきた。
「おおぅ、気が付かれたか」
横に顔を向けてみると、痩せこけ、頬の出た七十も過ぎた男が初蔵の顔を覗き込んでいた。
「あっ・ああ此処は・・・・」声は掠れよく話せない。 「随分寝よったな、二晩寝っぱなしじゃった。腹も怪我してたようじゃったから、医者ぁ呼んで治療してもろうたからもう大丈夫じゃろ。おまえさん、何か訳ありのようじゃが・・・・おまえさんはヤクザか」
「・・・・・・・」
初蔵は黙ったまま答えなかった。
すると横に居た孫が老人の袖を引っ張り、
「ヤクザってなあに」・・・と、尋ねた。
聞かれた老人は少し困った表情をしたが、
「ん、ヤクザっていうのはな、弱い人を助ける人じゃ」
皮肉のようで本当のようでもある。
「まあいいじゃろ、しばらく儂の家に居るといい、此処にはほとんど人が来んから、安心して静養していきなされ」
二週間も経つと腹の傷も塞がり、外を歩けるようにもなった。
家には甚吾と孫のサトシが居るだけで、父親はほとんど工場に出ずっぱりで、家にはほとんど居ない、サトシの母親は四つの時、家を出て行ったという。
詳しい事情は知らないが何でも工場を始めたあたりから二人の仲はおかしくなったという。
一度だけサトシに連れられ工場に行ったことが遭ったが、いろんな機会が並び何か工作
しているようだった。
だからサトシにとって甚吾が唯一の遊び相手だった。そして今は初蔵がサトシの遊び相手になった。初蔵もまんざら嫌ではなかった様だ。
初蔵には子供が居なかった。雅子と結婚して九年にもなるのだが、子宝には恵まれていない。
懐いてくるサトシが可愛かった。初蔵はしばらく父親の気分で居られた。
川を眺め、サトシと遊ぶ毎日を過ごしていると、初蔵は、なぜヤクザな世界に居るのだろうとふと、足元を見てしまい自分を責めた。だが、すぐに思い直した、刺された脇腹を抑え、自分には守らなくてはならない人たちが居る。と沈み行く夕日を睨みつけた。
一月後、傷もすっかり塞がり元気を取り戻した初蔵は、甚吾とその家族に深々と頭を下げ、甚吾の家を後のした。去って行く初蔵の後姿を、サトシが泣かずに、ジッと見ていた。
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