修羅の慟哭 Ⅱ

村雨与一

第一章. 中国人

第一話 壁一面の血飛沫


そこには凛とした藤井玲子の姿があった。

大阪宗和会の東京進出を食い止め、落ち着きを取り戻した新宿。


初蔵は、蛭田の供養と人を殺めたという汚れた身を、清める為、藤井玲子の通っている安養寺に来ていた。


胴着に身を包んだ玲子が、的に向かって弓を絞る、矢を射るまでの間というのは、風も無い静かな湖面を想わせる。


—————矢が放たれた!


 その瞬間、音も風も無かった湖面に一瞬、突風が突き抜けたようだ。


 胴着に身を包み弓を握っているときの玲子の姿には、秘書をしているときには無い凛とした古風な美しさがある。


 安養寺の和尚に禅を受け、身を清めた初蔵は、玲子の姿を後にして、久しぶりに家に帰る事にした。


9月26日、午後12時40分填巻市に着く。 

 初蔵の家に行くためには必ず填巻市で乗り継ぎが必要になる。


 初蔵は、家に帰る前にと、東京に向かうとき挨拶もせずに別れてきた愛人、バー黒猫のママ、美津子のところへ寄ることにした。


 美津子の住まいはバスで15分ほど差しかかった所にある。



小ぎれいな花の鉢植えの並ぶ階段を昇り、白いドアをノックした。


「はーい」と若奥様のような声色で美津子がドアを開けた。


美津子は初蔵の顔を見るなりドアを閉めた。


「おい、おれだ!開けてくれ・・・どうしたんだ」


「何よ、わたしなんかどうせ気にも掛けられない女よ。そんな女に何か用か・し・ら」

とドアを開けた。


「悪かった。あん時は急なこともあったし、それにおめえ案外心配性だからな、余計な気使わせたくなかったのさ」


と初蔵は美津子の頬を撫でた。美津子は気持ち良さそうに目をつむり初蔵にしな垂れかかった。


 初蔵は、久しぶりに美津子を抱いた。


美津子は久しぶりの初蔵に歓喜の声を上げしがみついた。

 初蔵は美津子の反応を見て、男も作らずジッと自分が来るのを待って居たのだと思うと、愛おしさが込み上げて来た。


「初蔵さん、黙って行っちゃうからすごく寂しかったわ。ひどい人ね」


 美津子は初蔵の腕を枕にして、濡れるような唇を尖らせて行った。


「ああ、國光から聞いた。だいぶ荒れてたんだってな。もうあんまりの呑むなよ」


「ええ、でも東京の女に引っ掛かっちゃ嫌よ。それにしてもずいぶん東京弁うまくなったんじゃないの」


「ほうが、訛っと笑われっからなや」


 と、初蔵はわざと地言葉で言って見せた。

 美津子と初蔵が笑う。 


「でも東京弁の初蔵さんもステキよ」


「どれ、そろそろ帰んなぐねぇ」


「あらもう帰るの」


「ああ、女房にも顔出さねえとな」


「そうね、いいわよ、あたし雅子さんにはやきもち焼かないから、早く行ってあげて」


「悪いな、ところで何も変わったことなかったか?」


「別に・・・あっ、最近中国人をよく見かけるわよ、この間もね、お店に来たわ、なんか人探ししてたみたいだったけど、アンザイサンは居ませんかって」


「・・・・・」


「なんか不気味な目付きをしてたわよ」


 黒猫のママ美津子には安齋とのことは話していない、もし安齋組関係の問題が起こっても、安齋とのことを知らない美津子には危害は加えられないだろうと初蔵は思った。


 初蔵は美津子の部屋を後にし、雅子の待つ我が家へと向かった。


 美津子の部屋を出る際、物陰から目付きの悪い中国人風の男の目が光っている事に、初蔵はこのとき知る由も無かった。


——————————❄︎————————————


功夫が出前に行くところだったが、突然現れた初蔵に、雅子を呼んだ。


「ねえさん!ねえさん!ちょっと来てけろ」


妻の雅子が怪訝な顔で外に出てきた。 


「おや、お帰り、どうしたの突然に、会社は?」


「少し落ち着いたがらな雅子の顔見に帰えってきた」


「しばらく居れんの?」


「今日泊まって明日帰える、何も変わったことねがったが」


初蔵は雅子の前では地方訛りが自然と出てしまうようだ。


 雅子は、少し間を置き、思案するように顎に手を当てた。


「そういえばあんた、この頃、中国人の姿をよく見かけるようになったわね、この間も安齋さん居ますかって尋ねて来たけど、うちは勝田ですけどって言ったら帰ったけど」


「中国人・・・? 変だな、ここにも安齋を尋ねてくるとは」


「えっ、他の所にも?」


「あっ、あっいや」危うくママの事を言いそうになった。


しかし、初蔵は不審に思った。なぜ中国人がと。

「・・・・・」


「正子、ちょっとこっちに来い、俺と安齋さんのこと知ってんのは、雅子おめぇと木島さんと会社の何人かだ、また誰か来て安齋のこと聞かれても何も喋るな」


 厨房の隅に呼んだ初蔵は、雅子の身を案じクギを刺した。


「ご・ち・そ・さ・ま」


 隅のテーブルでラーメンをすすっていた客が、勘定と立ち上がった。


 その時、初蔵は、雅子と話していた視線を何気なく立ち上がった男に向けた。


初蔵は男と眼が合った。


一瞬だが背筋に悪寒が走った。


男は勘定を済ませると、何の素振りも見せず立ち去った。

 翌朝、駅まで雅子と功夫が見送りに来てくれた。

 朝の柔らかい日差しは、雅子を長い影にして、駅に向かって伸びている。

 

雅子は、ホームまで見送りに来て初蔵に手製のお守りを手渡した。


「行って来る」と声を掛け、一度は列車に向いた初蔵だが、何を思ったか、また雅子に向き返り、その時、初蔵は雅子に軽く耳打を交わした。そして電車のドアが閉まった。


 初蔵は、今度はしばらくは帰って来れないだろうと、走り去る列車の窓からホームで見送る女房雅子の姿を見つめていた。


 雅子の影がホームに長い影を作り手を振っていた。


 初蔵は何か引っ掛かりを覚えながら地元を後に、東京へと向かった。


———————————❄︎

 

午後二時を回った頃!


————ガタガタ。ドンドンドン。


閉店の時間になり、店仕舞いをしていたBar黒猫のドアが叩かれた。


美津子はドアの向こうに居ると思われる客に閉店だと告げた。


「ヤブンニ・スミマセン・・・実ハ東京カラ頼マレタ物ヲ持ッテ参リマシタ」

 と、か細い男の声が聞こえた。


 美津子は何だろうと、一度ロックしたドアを開けた。

 

ドアを開けると見たこともない男が立っている。

 男はゆらりと中へ入り、小包を手渡し、すぐ確認してほしいと言う。

 美津子はバーカウンターに小包を置き包装を解き始めた。


 男には背を向けえる格好になった。


 男が話しかけて来た。店の隅からでよく聞き取れなかったが、たどたどしい日本語だった。


「アナタ、アンザイシラナイユテタ、ケドシテタネ、アナタ、ウソイッタ、タメニナラナイヨ」


 男からは、美津子の白い首筋が見えた。


 美津子は、背後に得体の知れない寒気を感じ、振り向いた。


 男の手には白く光る獲物が握られていた。寒気の正体は、殺気に満ち溢れた男だった。


 次の瞬間、美津子の首筋から赤い鮮血がバーの壁一面に飛び散っていた。

 

—————————-❄︎


美津子の死が確認されたのは次の日のことだった。


 翌日の夕方、木嶋組の丁稚がおしぼりを届けに合鍵でドアを開けようとしたがすでに開いていた。


 丁稚が中へ入るとバーカウンターに仰向けに、目を見開いたままの美津子の姿があった。

 

壁には吹き掛けたような生血がベッタリと塗られていた。

 丁稚は言葉もでず、何が起きているのかすら考る事が出来ず、しばし呆然と突っ立ったままでいた。

 

初蔵が連絡を受けたのは、昼を回った頃だった。

 木嶋から連絡を受け、駆けつけて見ると、変わり果てた美津子が横たわっていた。


「美津子・・・・・」美津子を抱きしめた。


 初蔵はそのまま絶句して、身動き一つしない。

 木嶋には掛ける言葉が見つからなかった。ただ初蔵の背中を見つめるだけだった。


「くっそうー!」抱きしめる手に力が入った。

 そして、空を見上げる初蔵の眼は血走っていた。

 

火葬の日には、木嶋組も参列し美津子の亡骸を見送った。

しかし、なぜこんな事にと初蔵は首を傾げていた。

強いて考えられるのは宗和会の報復、だが美津子の事は知る由もない、それに万が一何かの切っ掛けで知ったとしても、無関係の人間を殺すような連中ではない。


葬儀にはヤクザ者の木嶋らは遠慮し外から手を合わせ、初蔵より一足先に事務所へ戻った。


初蔵も葬儀を終えると、美津子の親戚縁者の手前、用意されたお膳を遠慮して、東京へと帰った。

 

その後、警察の調べでは黒猫にママ目当てに通う男が、自分の思い通りならないことを恨み、凶行に及んだものと見られていた。

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