雨と傍観者。
なみき
雨と傍観者。
ある夏の日、僕は美しい物を見た。
この瞬間、死んでもいいと思えるくらいに、それは美しい眺めだった。
雨が降りしきる6月の夕方。
世界は醜く淀んでいるように感じられた。
だけどそんな事、今更どうでも良かった。
その日、僕はあるマンションの最上階にいた。
なんの変哲もなく、ただの無機質に扉が並ぶだけの場所。
見える街もどこか虚ろで、空っぽな僕の人生を象徴するかのような景色だった。でも、それはそれで居心地がいいような気がした。
僕には何もなかった。特筆すべきものもなければ、なりたいものもない。すっからかんな人間だった。おまけに、僅かに希死念慮を抱いてさえいる。
愛した人、愛してくれた人もいない、そんな人間が高いところにいたら、考えることは一つだろう。
僕は柵に足をかける。太ももを柵の上に乗せて、一度座る。深呼吸をして、目を見開く。
体の重心が前のめりになった時、ふと、誰かに呼び止められた。何処かで聞いたことがあるような、女の子の声だった気がする。
慌てて座り直して、後ろを振り返ろうとする。
だけど、できなかった。
僕はこの時、初めて知った。
息をするのも忘れるほど、という言葉は、ただの表現の一つではないということを。
眼の前に、知らない世界が広がっていた。
雲の僅かな隙間から差し込んだ夕日が雨に反射して、世界が美しく輝いていた。白くて凡庸なマンションは、夕日に黄色く照らされて、あの無機質な扉の連なりさえも一つの美しい風景画のように感じられる。すべてが過不足無く、完璧な形をしていた。これが世界の本当の姿だと、そう信じたくなるほどだった。
美しさに見とれていた時、ふと、強烈な疎外感を感じた。自分がここにいることがすごく不適切であるかのように。ここにいてはいけない、そう思わされた。
柵から降りた時、すでに世界はもとの姿に戻っていた。あれほどの感動が嘘のように、世界はつまらなくなってしまった。
だけど、僕はもう知っている。このつまらない場所が、あんな一面を持っているということを。この場所があれほど美しくなれる可能性があるというだけで、この場所は僕にとって分不相応な気がした。
もう帰ろう。
この場所で最期を迎える気は、とうになくなっていた。
降りようと思いエレベーターのボタンを押すと、どうやら下に降りていってる途中みたいだった。そこで僕は、あの時僕に声をかけた誰かについて思いを巡らせる。あの声の主は、あの景色を見れたのだろうか。もし今エレベーターに乗っているのがその人だとすると、きっと見ることは叶わなかっただろう。そう思うと、少し可哀想に思えてくる。それほどに、あの景色は美しかった。
エレベーターがやってくるのを気長に待ちながら、僕はそんな事を考え続けた。
2日後、あのマンションで自殺があった。飛び降りだった。死んだのはあのマンションに住むひとつ年下の女の子らしい。どうやら、家庭では暴力を振るわれ、学校ではいじめられていたそうだ。
僕はこの前のことを思い出した。きっと、あの時僕に声をかけたのはあの子だったのだ。
声をかけた理由は、なんとなく想像できる。
これから自分が死ぬ予定の場所で、先に死なれちゃ困る。そう思ったのだろう。ただ先を越されるのが気に食わなかっただけかも知れないけど。
彼女の死を知った2日後、僕はあの最上階に来ていた。時刻はすでに夕方で、あの日よりも遅い時間だった。供えられた花束を見て、ふと考えてしまう。もし僕があの景色に見とれずに、振り返って女の子に声をかけていれば、きっとあの美しい景色を見せる事ができただろう。そうすれば、その女の子は僕と同じように今も生きれていたかも知れない。もしかすると、同じ選択を取ろうとした者同士、仲良くやれていたかも知れない。
そこで思考を断ち切る。死んでしまった人は、もう蘇ることはない。だからこそ自殺をする人がいるのだろうけど、とにかくこんなことを考えても仕方ない。これから僕は一生この僅かな後悔に苛まれながら行きていくのだと思うと、ずいぶん嫌な気持ちにさせられる。
エレベーターのボタンを押し、やってくるのを待つ。その間、僕は昔のことを思い出していた。このマンションの近くに初めてきた時、近所の小さな公園で仲良くなった女の子のことを。小学生の頃はよく遊んでいたけど、中学に入ってからはめっきり会わなくなったあの子。きっと、あの子を止められたのは僕だけだったのだろう。
やってきたエレベーターに乗り込み、最上階をあとにする。日が沈みきった最上階からは、あの日の美しさは殆ど感じられなかった。だけどその夕闇は、他のどの暗闇よりも優しく僕を慰めてくれた。
雨と傍観者。 なみき @nami8375ki
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