天使と騎士

【起】――放課後、騎士に下されし命令


 放課後の教室。みんなが帰り支度をする中で、僕は机に突っ伏していた。

 今日も一日、凛花を守り抜いた。昼休み、男子のボールが飛んできたのを防いだし、隣のクラスの不届き者が話しかけてきたときも睨んでやった。完璧だった。


「さるちゃん」


 不意に、耳元で名前を呼ばれた。反射的に顔を上げると、窓際に立つ凛花がこっちを見ていた。

 逆光。眩しい。まるで天使。いや、実際に天使。


「今日、ちょっと付き合ってほしいところがあるの」


 それだけ言って、凛花はカーディガンを羽織って立ち上がる。僕は無言で頷いて立ち上がった。理由なんていらない。姫の命令だ。


「で、どこに行くの?」


 駅へ向かう歩道橋を並んで歩きながら、僕は恐る恐る尋ねた。

 いつもより少しだけ距離が近い。凛花の制服の袖が、僕の指先に時折触れる。


「ふふ、着いてからのお楽しみ」


 その笑み。反則。

 なんか、変だ。明らかに変だ。けど、心臓がやけにうるさい。


 そして、着いたのは——。


「……下着屋……!?」


 お店の前で立ち止まった僕は、思わず声を上げた。

 レース、フリル、パステルカラー。ちょっとでも動いたらラブリーなハンガーがガチャガチャ揺れそうな、あの、完全に“女の子”の領域。


 凛花は当たり前みたいな顔で、店に入る。


「そろそろ必要かなって思って。ほら、最近ちょっと……ね?」


 と、自分の胸をちらっと見下ろす仕草をして、柔らかく笑った。

 その仕草だけで、僕の体温が3度上がった気がする。


「い、い、いるの!? 僕!?」


「さるちゃんは“護衛”でしょ?」


 ……姫に連れてこられた騎士。なんて業の深い役職なんだ。


 試着室の前。凛花は何の抵抗もなくカーテンの中に消えていった。


「いらっしゃいませ〜、今日は初めてのご来店ですか?」


 優しそうな店員のお姉さんが話しかけてきて、僕はうんともすんとも言えないまま首を振った。


「よければ、お友達の方もご一緒にどうぞ〜」


「え、いや、僕はその……」


「さるちゃ〜ん、ホック手伝って〜!」


 店員さんの微笑みと、試着室から聞こえたその声。

 カーテンの前で、僕は動きを止めた。


 脳が止まり、心が騒ぎ、呼吸を整えて、握った手のひらにほんの少し汗がにじんでいた。


 ……これは、騎士としての試練だ。


 僕は、ゆっくりとカーテンに手をかけた。


【承】――ノーブラ姫と、第二の試練


 試着室の中、僕は息を詰めていた。


「ごめんね、さるちゃん。手が届かなくて……ホック、お願い」


 凛花は試着途中のまま、白い肩をこちらに向けて座っていた。背中はすべすべで、華奢で、でもそこにほんのりとした曲線があって。


 ちいさな成長の証。

 胸の存在が、背中越しにも伝わってきた。


(やめろ、見てない。僕は見てない。これは任務、任務、任務……!!)


 震える指で、ホックに手を伸ばす。

 ほんの数秒のはずなのに、やたらと長く感じる。


 そのとき、凛花の身体が、ふっと僕の方に近づいた。


「……んっ」


(はうっっっ!?)


 柔らかな吐息が耳にかすめて、僕は一瞬、心臓が止まったかと思った。


「ちょ、ちょっと、声っ……! 出さないでよ、そういうのは……!」


「ん? なにが?」


 まったく無自覚そうな凛花の返答に、僕は顔から火が出そうになりながらホックを留めた。

 ホックがカチッと嵌まった瞬間、反射的に僕は後退して、試着室のカーテンをばさっと閉めた。


「……っ、僕は何をしてるんだ……」


 壁に額を押しつけて深呼吸していると、カーテンの向こうから凛花の声が飛んできた。


「ねぇ、さるちゃんのほうが胸あるよね?」


「っっっ!!!???」


 頭の上で爆弾が落ちたみたいだった。


「なっ、ななな、なんの話だよ! し、知らねぇし! 僕は、僕は騎士だし、そんなん関係ないし!!」


「でも、さるちゃんってさ、ブラしてないでしょ? 制服の下、Tシャツだけじゃん」


 図星だった。


 実際、最近走ったあとは痛い。擦れる。

 けど、だからって“つける”なんてことは……女の子っぽくなっちゃう気がして怖くて、できなかった。


 だから、絆創膏を貼ってごまかしてる。

 誰にも言えない、秘密の処置。


 なのに——


 凛花は、僕の胸元をちらっと見て、ため息混じりに笑った。


「……ほんと、さるちゃんって、気づいてないよね」


 何に? って聞く前に、凛花はカーテンを開けて、ひょいと出ていった。

 まだ……ブラをつけていない。


「ちょっ!? ノーブラで出るなっ!! ノーブラだぞ今!!?」


 しかし本人は気にする様子もなく、商品棚へ向かって歩き出す。

 背中に微かに揺れる髪と、素肌にカーディガンだけという地雷級の破壊力。


(だ、誰か止めてくれ……僕じゃ無理だ……)


 凛花は商品棚から一つのブラレットを手に取り、こちらへ戻ってきた。


「はい、さるちゃん。これ、似合うと思う」


 差し出されたのは、淡いラベンダー色のブラレット。

 控えめなフリルと柔らかそうな素材。まるで、誰かに優しくされるための下着。


「な、な、なななっ……!?」


 店員のお姉さんがタイミング良くやってくる。


「お友達もご試着ですね。どうぞ、こちらの試着室へ」


「あっ、いやっ、僕は、その……!!」


「遠慮せずに。皆さん最初は恥ずかしいものですよ〜」


 ——そうして僕は、抵抗する間もなく。

 第2の試着室へ、優しく拉致された。


(僕は……もうだめかもしれない……)


【転】――鏡の中の“女の子”と、最悪の目撃者


 夜。

 風呂上がり、部屋の扉をそっと閉めて、袋の中身を取り出す。


 淡いラベンダーのブラレット。

 フリルは少なめ。柔らかそうで、なんか……優しい雰囲気。


「着けるだけ。着けるだけだし……試すだけ。着けるだけ……!」


 鼓動がやけにうるさい。手のひらも、変に湿ってる。


 Tシャツを脱ぐ。

 胸元の絆創膏をぺりっと剥がすと、ちょっとヒリヒリしてて、自分で自分にため息が出た。


(ほんとはもう、ダメなんだろうな。こういう誤魔化しじゃ……)


 でも。ブラなんて。つけたら……“女の子”になっちゃうみたいで。


 そんな怖さが、まだ消えなくて。


 ——でも。


 鏡の前に立ち、ブラレットを引き上げ、肩紐をかける。


 ふわり、と布が馴染む感触。

 締め付けはないけど、しっかり支えてくれるような感覚。


「……うわ、なんか……思ったより、ぴったり……」


 鏡に映る自分。

 小柄で、でも胸は——確かに、あった。曲線ができている。


(僕の体……女の子、なんだ。凛花の言うとおり……)


 胸がある、というだけじゃない。

 鎖骨のライン、腰の細さ、肌の白さ。ぜんぶ、“男の子の騎士”じゃない。


「……なのに、なんで。これ、僕じゃないみたい……」


 ぽつりと呟いたとき。


「カシャッ」


 音がした。


 一瞬、脳が停止する。


 振り返ると、部屋の扉が少しだけ開いていて——

 そのすき間から、スマホを構えてこちらを覗いている人がいた。


「お、お姉ぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!!???」


「はいはい、記念記念〜。いや〜、いい感じに照れてて、めっちゃかわいい〜。やっぱ下からのアングル正解だったな〜」


「やめろぉぉぉぉ!! 撮るなっ! 今すぐ消せ!! ほんとに死ぬ!!」


「え、待って、“ほんとに死ぬ”って言った!? 厨二〜!」


「僕の人生終わったぁぁあああああ!!!」


 押し問答しながら布団にダイブ。

 背中を丸めて、全身で布団にめり込む。汗と羞恥と絶望に包まれながら。


 ……結局、スマホの写真は削除されたかどうか、わからないままだった。


 その日の晩ごはん。

 食卓に出されたのは、なんの脈絡もなく、いちごショートケーキ。


「……なにこれ」


「え? 初ブラおめでとう記念だよ?」と姉。

 箸を持ったまま固まる僕の横で、父も母もニヤニヤしている。


「ふーん、こはるもそういう年頃なのね〜」


「誰が頼んだそんな祝いィィ!!」


 叫んでも、ケーキは消えない。

 口に入れても甘いだけ。騎士の尊厳は、いちごとともに崩れた。


「……ううう、ほんとに……僕、もう、お嫁にいけない……」


 誰にも聞こえないように、そっと呟いたその夜。


 でもなぜか、鏡の中で見た“女の子の僕”のことが、ちょっとだけ、頭から離れなかった。


【結】――転がされる騎士、そして誓い


 朝。

 肩掛けバッグでもなくて、ただの制服の胸元がやけに意識される朝。


 僕は下を向いて歩いていた。

 太陽は眩しいし、風はやけに強いし、なによりスマホが——


 ブルッ、と震えた。


 画面には、たった一行。


《昨日のブラ、似合ってたよ。お姉ちゃんに写真見せてもらった》


(……死んじゃう……)


 道端に咲いた小さな花を見ながら、僕は口を閉じて泣きながら歩いた。


「終わった……僕の人生……」


 昨日の自分を思い出しては死に、

 姉を思い出しては二度死に、

 凛花の声を思い出しては三度死ぬ。


 登校中に三回死ぬのは人としてどうかと思うけど、もうどうでもよかった。


 教室に入った瞬間。


「おはよう、騎士さま」


 そこには、満面の笑みの姫——凛花がいた。


 僕の心臓が、「まだイケる」と言わんばかりにドクンと跳ねる。

 もう黙っててくれ心臓、君が一番うるさい。


「ちょっと大人っぽくなったんじゃない? さるちゃん」


「ちが……ちがっ……ちがっ……!」


 耳まで真っ赤。というか、たぶん頭から湯気出てる。


 僕はもう何も否定できない。ただひたすら赤くなるしかなかった。


 周囲のクラスメイトが、にこにことこちらを見る。


「また凛花ちゃんに転がされてる〜」


「お子様騎士、今日も姫に完敗だなぁ〜」


「いや、むしろご褒美でしょあれ」


 うるさい。全部うるさい。

 でも言い返せない。だって事実だから。今日もまた、完敗した。


 それでも——。


 それでも、僕は立ち上がる。


「僕は……騎士だから。凛花を守るって、決めたんだ……!」


 拳を握る。

 胸の奥に灯るのは、羞恥心じゃない。多分、もっと別の、熱いもの。


 そのとき。


 凛花が、僕の手を、そっと握った。


「ありがとう。でも、私がさるちゃんを守る日が来るかもね」


 ——騎士、再爆発。


 心臓がどこかに逃げ出した。

 顔が熱い。頭がふわふわする。何も言えない。


 それでも、手は離さなかった。

 凛花の手は、細くて、あったかくて、

 なんかもう……守るっていうか、守られてた。


 でも、たぶんそれでいい。

 それでも、騎士でいたい。たとえ転がされても。


 だから僕は、今日も言う。


「……姫を、お守りします……」


 ——その言葉を聞いた凛花が、

 笑いながら「ふふ、じゃあよろしくね」と呟いた声は、

 あの時の「んっ」よりもずっと、

 ずっと、やばかった。


 おしまい

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