「……また酔ったら」

 深夜二時のコンビニは、水槽のように静かで、冷たい光に包まれていた。

 咲はレジカウンターの中で、品出しを終えたばかりのドリンク棚を眺めて小さくため息をつく。

 アルバイトは禁止。学校に内緒の深夜バイト。グレーのパーカーと黒いパンツ姿で、誰にも気づかれないようにただ静かに時間をやり過ごしていた。


 そのとき、棚の前に違和感が走った。


 誰かが、しゃがみこんでいる。

 いや、それはもう、ぺたりと床に座り込んでいた。白いブラウスに黒のタイトスカート。足元のヒールは脱げていて、素足が冷たい床に触れている。


「……大丈夫ですか?」


 咲が声をかけると、女性はふにゃりとした笑みを浮かべた。頬がほんのり赤く、目がとろんとしている。


「あっつい~……冷蔵庫って、ほんとに……天才……」


「えっと、立ちましょうか……風邪ひいちゃいますよ」


「でも、JKちゃんが言うなら、立とうかなあ……」


「JKじゃないです、あの、バイトで……」


「じゃあ、なにー?」


「……咲って言います」


 彼女が顔を近づけて、にこっと笑った。


「咲ちゃーん! かわいー! えらーい!」


 酔ったまま、咲の腕にしがみつくようにして立ち上がった女性は、ぐらついた体を咲に預けながら、頬をすり寄せる。


「わたし、あかねー。社会人ー。OLー。酔っ払いー」


「えっ、あの……ベンチ行きましょう、こっち……!」


 支えるようにして歩く。咲の指が、あかねの腰に触れた瞬間、その細さとやわらかさにドキッとした。

 腕の中のあかねは、シャツの下から伝わる体温が妙に熱くて、肌の香りと髪の匂いが、咲の意識をかすかに溶かしていく。


 ようやくベンチに座らせた――と思った、そのとき。


「咲ちゃ~ん……ありがと~……ちゅー……」


「え、ちょっ……」


 ちゅっ。ちゅっ、ちゅっ。


 頬に、おでこに、鼻の横に。

 あかねは無邪気に、猫のように、咲の顔をぺたぺたとキスしてきた。


「や、やめっ……やめてください……っ」


 咲の声は上ずり、顔は真っ赤。心臓がひとつ跳ねて、熱がこみ上げてくる。


 ひとしきりキスを終えると、あかねは満足そうに微笑んで、咲の肩に額をこつんと乗せた。


「咲ちゃん、あったかい~……」


 そのまま、うとうと。

 まるでスイッチが切れたみたいに、すやすやと寝息を立て始めた。


 咲は困り果てて、視線を泳がせた。

 それでもしがみついて離れないあかねの体温が、じわじわと咲の胸を熱くする。


 ふと、店内を見渡すと、ひとりのお客が軽く会釈してセルフレジに向かっていた。

 空気を読んでくれたのか、無言のやさしさに咲はぺこりと頭を下げた。


(どうしよう、ほんとに寝ちゃった……)


 そのまま、三十分ほどが過ぎた。

 咲がぼんやりと時報を確認したころ、あかねがふいに身じろぎをした。


「……ん……」


 まぶたがひらいて、きょろきょろと辺りを見回す。


「……え……ねちったーーーー……」


 小さく叫びながら、あかねは自分の顔を両手で覆った。


「うう、帰らなきゃ……」


 フラフラと立ち上がる。咲が慌てて支えようとしたその瞬間。


 あかねは、ふいに咲の顔をつかまえた。


「咲ちゃん……ありがとね」


「えっ、え、ちょっ……」


 言いかけた言葉の上に、やわらかいものが重なった。


 ちゅ。


 唇。ほんの一瞬、でも確かに。

 咲の心臓が、爆発しそうなくらい高鳴った。


「……じゃ、ばいばーい」


 手をひらひらさせながら、あかねは夜の街へと消えていった。


 咲はその場に立ち尽くしたまま、唇に手をあてる。

 熱がじんわりと残っていて、世界の音が全部遠ざかった気がした。


(……ええーー)


 嬉しいとか、怖いとか、恥ずかしいとか、全部ごちゃまぜになって、答えなんて出ない。


 でも、確かに思った。


(……なにこれ)


 パーカーの胸元が、じんわりと熱くなっていた。


 *


 翌朝の教室には、いつも通りの喧騒があった。


「おはよー、咲。寝癖、すごくない?」


「あ、ほんと……? ありがと……」


 咲はぎこちなく笑って、髪をなでつける。

 隣の席の子がいつも通り話しかけてくれるのに、言葉がどこか遠くに聞こえた。


(……なんか、ちゃんと戻ってきた感じがしない)


 授業中もノートにペンを走らせるふりをしながら、意識は何度も昨夜の感触へと戻ってしまう。

 あのとき、ほっぺに、こめかみに、鼻の横に。最後には、唇にまで。

 冗談みたいだった。なのに、ちゃんと、咲の中には熱として残っていた。


 お昼のパンをかじっているとき、友達が何気なく言った。


「そういえばさ、酔っ払って人に迷惑かけるってダサくない? ネットで見たやつとか最悪だったし」


「……う、うん、そうだね……」


 そう言いながらも、咲の胸の奥がちくりと痛んだ。

 あかねさんは、確かに酔っていた。でも――。


(あんなに、誰かの体温が恋しいって、思ったことなかった……)


 放課後、制服のまま家に帰り、私服に着替えて、いつもより早めに家を出る。


 目的地は、もちろんいつものコンビニ。

 勤務表では今日は22時入り。でも、なんとなく19時には近くまで来てしまった。


(……べつに、待ってるわけじゃ……)


 そう自分に言い聞かせるけれど、靴の中で足がそわそわする。

 あの人はたぶん、もう来ない。覚えてすらいない。昨日のことなんて、忘れてるはずだ。


 でも。


 もし、ドアのチャイムが鳴って、あの姿が現れたら。


 そんなことを想像してしまう自分が、少しだけ怖かった。


 やがて、夜。咲は制服ではない自分の姿でレジに立つ。

 いつもと同じ店内、同じ棚、同じ音。だけど、胸の奥はそわそわして落ち着かない。


 外の風が冷たくなってきて、ガラス越しの空がほんの少し、滲んで見えた。


(ほんとに、もう来ないんだ……)


 小さく、ため息をついたときだった。


 チリン――。


 ドアのベルが、柔らかく鳴った。


 小さなチャイムの音に、咲の背筋がぴんと伸びた。

 反射的に顔を上げた先に、見慣れたシルエットがあった。


 白いブラウス。黒のジャケット。きちんと巻かれた髪。

 昨日とはまるで別人のように整った美しさで、その人は入ってきた。


(……ほんとに……来た)


 咲の胸が、どくんと鳴る。心臓の音が、耳の内側にまで響いていた。

 あかねは店内をゆっくりと歩き、冷蔵棚からお茶とチョコバーを手に取る。

 そして、何事もなかったように、レジに並んだ。


 咲は思わず、手のひらをぎゅっと握った。


(覚えてるのかな……それとも……)


 自分の顔が真っ赤なのがわかる。

 お茶をスキャンし、チョコバーのバーコードを読み取る。全身が不自然なくらいぎこちない。


 あかねの手が財布を取り出す。咲の指と、ほんの一瞬だけ触れた。


 その目が、こちらを見た。


 まっすぐに。

 でも、何も言わない。

 表情は涼やかで、まるで昨日の出来事なんてなかったみたいに。


「398円です……」


 震える声でそう言って、お釣りとレシートを渡す。

 あかねは軽く微笑んで袋を受け取った。


 そのまま、くるりと踵を返し、出口へと歩いていく。


(……やっぱり、忘れてたんだ)


 咲は、胸の奥がじんわりと痛くなるのを感じた。

 あの夜、こんなに心を揺さぶられたのは自分だけだったのかもしれない。


 扉が開く音がした。夜の風が一瞬、店内をすり抜ける。


 そのとき。


「ねぇ」


 あかねが、ふいに立ち止まった。

 肩越しに、振り返る。

 その目は、今度ははっきりと咲を見ていた。


「……また酔ったら、介抱してくれる?」


 やさしくて、からかうようで、でも確かに“昨日”の続きを告げるような声。


 咲は目を見開いて、言葉を失ったまま、そっと頷いた。


 あかねはにこっと笑って、ひらひらと手を振る。


 ヒールの音が、夜の街へと吸い込まれていく。


 咲は唇に、昨日の感触をふと思い出す。

 軽くて、甘くて、でも確かに心の奥に残ってる。

 これからどうなるかなんてわからない。でも。


(……また、来てほしい)


 パーカーの胸元が、じんわりと熱くなっていた。


 レジのカウンター越しに見える外の世界が、昨日より少しだけあたたかく感じた。

 

 (おわり)

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