お酒と私たち

「……じゃあ、かんぱい?」


「……うん、かんぱいっ」


 缶チューハイが、軽い音を立ててぶつかる。

 レモンとピーチの甘い香りが、部屋の空気にまざってふわりと広がった。


 二十歳の誕生日を迎えてすぐの週末。

 大学の課題を片付けたご褒美に、まどかの部屋で“人生初の飲酒”をすることになった。


「ん、おいしい……!」


「でしょ? なんか思ったより全然、飲めるね」


 りこの頬はすでに、うっすら赤い。

 まどかはまだ緊張でぎこちない。だって、お酒なんて、テレビで見る大人のイメージだったのに――今、自分たちがそれをしている。


「まどか、なんか顔、かたーい」


「う、うるさいよ。りこが軽すぎるんでしょ……」


「ふふ、でも……まどかってさ、ずっとかわいいよね」


「は、はあ!? な、なに急にっ」


「うーん、ほっぺ赤くなったまどかもかわいい……ふふ」


 そう言って、りこが抱きついてくる。甘い缶チューハイの香りがふわっと鼻先をくすぐる。


「ちょ、りこっ……っ、ちか……」


「だって、抱きしめたくなっちゃうじゃん」


 そのまま、彼女の額がすり寄せられ、唇がほんのり重なった。


「ん……」


 やわらかくて、あったかくて、どこか夢みたいで。


「……キス、しちゃった……」


「したね」


 言葉を交わしながらも、視線がぶつかるたびに照れて、でも嫌じゃなくて。


「……ねえ、お風呂入ってさっぱりしよ?」


「……うん」


 鼓動がうるさい。でも止まらない。

 まどかの中で、何かがじんわりほどけていった。


 *


「せま……っ」


「ふふ、だから言ったじゃん……」


 まどかのアパートのユニットバスは、小さな湯船にぎりぎり2人分。

 肩がぴったりと触れ合って、動けば肌と肌がこすれ合う距離。タオルは入浴前に脱衣所に放り出されていて、今は――全裸。


「りこ……ちょっと近い……」


「でもこれ以上、離れようがないよ?」


 悪びれもせず笑う彼女の声が、湯気の中に溶けていく。

 まどかは湯の中に視線を落として、耳まで赤くなる。なのに、りこは平然とした顔で自分の肩にあごを乗せてくる。


「まどかの肌、すべすべだねぇ」


「やっ、さわ……っ、さわんないでよ……」


「でも、さっきキスしたのに今さらじゃない?」


「っ……!」


 言い返せなくて、ぐっと口をつぐむ。

 りこは、悪いことをしてるって顔じゃない。むしろ、ただ好きなものに素直になってるだけ。まどかの心臓は、どんどん音を大きくしていく。


「ねぇ、まどか」


「……なに」


「キス、もう一回、していい?」


 断る隙もなく、顔が近づく。唇が、ふわりと触れて、また触れて。

 湯気とアルコールと体温がとけ合って、境界線が曖昧になる。


「んっ……」


 熱い。どこまでが湯のせいで、どこまでがりこのせいなのかわからない。


「ふふ……まどか、目とろんとしてる。かわいい……」


「もうっ……やだ、りこ、今日は酔ってるから……」


「うん、酔ってる。だから、素直なの」


 素直すぎて、こわい。でも、こわいのはきっと、自分も同じだから。

 りこの指が髪を撫でる。まどかは、うつむいたまま小さく頷いた。


「……そろそろ、出ようか」


「うん、ねむくなってきた……」


 ぐっしょり濡れた体を拭き合って、借り物のTシャツを適当にかぶる。

 そしてそのまま、2人並んで布団へ潜り込んだ。


 重なる体温。

 腕の中のぬくもり。

 唇の余韻。


 全部が、夢みたいだった。


 *


 ――ずきん、と頭が痛い。


「……ん、うぅ……なにこの感じ……」


 朝比奈まどかは、寝ぼけた意識のなかで眉をひそめた。

 頭が重く、目の奥がじんじんする。初めての二日酔いは、思っていたよりずっと辛かった。


「……りこ……?」


 隣にいるはずの親友の名前を呼びかけようとして、まどかの手がなにかやわらかいものに触れた。


「んぅ……まどかぁ……?」


「っ!? え……」


 目を開ける。

 視界いっぱいに、すやすやと寝息を立てる水瀬りこの裸の背中。


「――――――っっっ!!??」


 叫び声が喉まで来た瞬間、今度はりこがびくっと飛び起きた。


「ふぇっ!? なになに!? 地震!? 火事!?」


「ちがっ、ちがう! 服っ、服っ、Tシャツがないっ!」


「えっ……?」


 りこが恐る恐る布団をめくる。


「……あっ、ない」


「“あっ”じゃないっ!! なんで全裸!?!? あたしたち、寝る前にTシャツ着てたよね!?!?!?」


「た、たぶん!? 着てたはずっ! わたし……脱いだ!? いや違う、まどかが脱がせた!?!?」


「なんで私なの!?!?」


 二人で布団の端を持ち上げて、あわてて全力でくるまる。

 バスタオルが散らかっている床。ソファに脱ぎ捨てられた服。

 昨夜のお風呂、キス、そして布団に潜り込んだところまでは……なんとなく覚えている。


「りこ、りこの首、赤い……っ! なにこれ、キスマーク!?!?」


「え!? まどかもある!! しかも右と左でおそろいみたいな感じで!!」


「ひぃぃぃぃぃっ!!」


「まどか! わたし、なにかしちゃった!?!? やばい!?!?」


「わたしこそ!! わたし、襲った!?!? 女同士で!? しかも親友で!?!?」


 二人の声が重なり、部屋の空気がぐるぐる回る。

 頭が痛いのに、心臓まで大騒ぎして、冷や汗が止まらない。


「お、落ち着こう……いったん、着よう……タオルでもなんでもいいから着よう……」


「うん……っ、着てから考えよ……っ」


 ぐるぐる巻きのまま、ぎこちなく立ち上がって、バスタオルを体に巻きつける。

 座卓の上には、ぬるくなった水と、酔っ払ったメモ書き。


『まどか→りこ だいすきー』

『りこ→まどかも だいすきー(ハート)』


「ぎゃぁぁぁああああああっ!!!!」


 さらに追い討ち。


「え、えっと……でも……これって、その……一応、両想いだったってことで……いいのかな……?」


「い、言わないでぇぇぇぇぇぇ!!」


 2人で頭を抱えて、床に崩れ落ちた朝。

 気まずくて、恥ずかしくて、でも――少しだけ、胸の奥があったかい。


 *


 靴音だけが響いていた。


 登校時間より少し早めに家を出たのは、どちらともなく自然な流れだった。

 並んで歩く道は、昨日と同じはずなのに、空気の温度がまるで違って感じられる。


「……頭、もう平気?」


「うん、ちょっとだけ残ってるけど……もう大丈夫」


 まどかの声は小さく、乾いた風にすぐかき消された。

 でも、その返事にりこは少しだけホッとしたように笑った。


 それだけで、また沈黙。


 互いに目を合わせることもできず、同じリズムで歩くだけ。

 昨日まで、こんなふうに黙っていたって平気だったのに。

 今は、黙っていると、言えなかった言葉たちが、喉の奥で暴れて仕方がない。


 校門が見え始めたとき、りこが、ぽつりと口を開いた。


「……ねえ」


「ん?」


「……好きって、本当?」


 足が、止まった。

 少しだけ振り向いて、でも目を合わせることができなかった。


「……うん」


 ただ、それだけ。


 それ以上の言葉は、出てこなかった。


 でも、それでよかった。

 今は、まだそれだけで、ちゃんと届いていた。


 りこは頷くと、何も言わずに笑って、また歩き出す。

 まどかも、それに続く。


 2人の間にあった空白は、少しだけ、埋まった気がした。


 春の風が吹いた。


 制服の裾を揺らして、知らないふりをしながら、彼女たちの背中をそっと押していった。


(おわり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る