第3話 スキップしない人生
死体は、音もなく床に崩れた。
それは、ついさっきまで薬を手に取ろうとしていた灰田小吉だった。
灰田小吉が、灰田小吉を殺した。
もつれるような記憶の糸の中で、ただひとつ確かなのは──自分が選びなおしたという事実だった。
⸻
それから数日間、灰田は街を歩いた。
電柱は相変わらずしゃべっているし、スマホを開けば「今夜オススメの動画はこれ!」と勝手に語りかけてくる。
居酒屋の店員は、にこやかに「新作メニューどうですか?」と笑いかけてきた。
灰田は、そのすべてに、きちんと目を向けた。
うるさいと感じることはあっても、スキップボタンを探すことはなかった。
⸻
ある日、カフェのカウンターで席を探していると、向こうの席に見覚えのある女性がいた。
──ああ、そうだ。
薬を飲みすぎる前、自分の隣にいてくれた人。
何度も何度も、予定を提案してくれていた。
カフェの名前を言ってくれていた。
それを、自分は「広告」だと思って、すべて忘れていた。
彼女がこちらを見た。少しだけ、目が合った。
「……小吉?」
彼女は立ち上がった。戸惑ったように、笑ったように。
「久しぶり……?」
灰田はゆっくりとうなずいた。記憶はない。だが、心のどこかが、静かに震えていた。
「ごめん。なんか、いろいろ、俺……いなくなってたかもしれない」
「いなくなってた?」
「……ちょっとスキップしすぎた。大事なとこ、いろいろ」
彼女は少しだけ眉をひそめて、笑った。
「じゃあ今度は、ちゃんと見ててね。私の話」
「うん」
⸻
その夜。
灰田はひとりで部屋にいた。
引き出しの奥から、人生アドスキップが出てきた。一応残しておいたものだ。
銀色のパッケージには、まだ例のコピーが書かれている。
『いらない情報を、消してしまいましょう』
灰田は、それを見つめながら、中身を全部トイレに流した。
今度こそ、飛ばさない。
面倒でも、うるさくても、煩わしくても。
ちゃんと、聞く。ちゃんと、見る。
それが、人生だ。
⸻
数日後。
通勤途中、電車の中で灰田は広告に目をやる。
新しい映画、フィットネスアプリ、英会話、人生相談の本。
どれも、誰かが「これ、いいよ」とすすめてくれている。
吊り革を持つ腕から刺青がふと見えた。
『人生を取り戻したくば、自分を殺せ』
灰田は、ゆっくりと笑った。
「もう、やったよ」
そして目をそらした。
広告の海を、その目で泳ぐように。
灰田小吉、広告を見ずに老いる。 @OsugiRun
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